3
古めかしい装いの甘味屋といった風情の建物へと導かれた。横道を入り込んできたときに嗅いだ、砂糖のような甘い匂いが薄く立ち込めている。少女は戸を引き開けるなり声を張って、
「八重! 人の子がいるの。帰り道が分からないんだって」
「へえ。人の子ね。珍しいじゃないか」
奥から長身の人物が姿を覗かせた。艶っぽい声の調子と、黒っぽい着物をぞろりと着流した様子からして女性と思われたが、白い狐の面をかぶっており、素顔は分からない。砂糖の香りとはまた違った、湯浴みした直後のような淡い香りを纏わせている。
「ああ――人の子はこの顔じゃあ話しにくいんだね。こっちのほうがいいか」
言いながら、細長い指先を伸ばして自身の顔をすっと撫でる。手品のように狐面が消え失せ、切れ長の目をした婀娜っぽい女の顔が現れた。艶然たる笑みとともに、
「ようこそ、〈金魚辻の市〉へ。私は八重。ここは元来、神々と精霊の市なんだが、人の子だって歓迎だよ」
「暁更紗といいます。よろしくお願いします」
八重と名乗った人物を見返しながら、その不思議な言葉を反芻した。神と精霊の市。人間の身でありながら、私はそこへ迷い込んでしまった――彼女が言っているのは、おそらくそういうことだ。すぐさま信用できる話ではなかったが、普通では考えられない事態に立て続けに見舞われてきたのもまた、事実である。
「更紗か」と八重さんは笑み、「神々の市の掟のことを、きちんと説明しておこう。なぜお前が帰り道を見つけられないのか、どうすれば元の居場所に帰れるのか。市の主として、伝えるべきことを伝えよう」
坪庭の見える、感じのいい座敷に通された。私と少女が並んで腰を下ろし、八重さんと向かい合う。
「お前がその子――小紅と出会った場所はちょうど、私たちの世界とお前たちの世界の境界にあたる。鳥居にはそういう役割があるんだ。想像できるね?」
「はい」
頷くと、八重さんは満足げに、
「よし。人間が私たちの世界に入り込んだとき、帰り道を見失っちまう理由というのは、いくつかある。場合によって違う、のほうが正確かな。たとえば――」
言いながら、空中でなにかを掴むような動作をする。気が付いたときには、なにか丸っこいものがその手の中にあった。
差し出された。薄い紙に包まれた菓子である。砂糖を膨らませて焼き固めたものと思しく、甘くまろやかな香りがする。
「お前、いまそれを食う気になるかい?」
「美味しそうですけど――遠慮すると思います」
「なぜ?」
「食べたら本当に帰れなくなってしまいそうだから。そういう考え方というか、迷信なのかもしれませんけど、聞いたことがあるんです」
黄泉戸喫という名称こそ当時は知らなかったが、その類のエピソードにはいくつか覚えがあった。ギリシア神話で読んだのが、たぶん最初だ。四粒のざくろの実。
「利口な子だ」八重さんが菓子と私とを交互に見つめて笑う。「そういうことも多々ある。だがここでは違うんだ。食ってもなんの問題もない」
「八重が言ってることは本当だよ」と少女――小紅も言い、菓子に手を伸ばした。端を摘まんで砕き、自らの口に運ぶ。「いつもながら美味しい。これを目当てに市に来るお客も多いんだよ」
「まあ、ずいぶん長いこと作ってるからね。更紗、お前も食ってごらん。自分で言うのもなんだが、この〈金魚辻〉と〈細雪〉にしか出してない、自慢の品なんだ」
「じゃあ――いただきます」
おそるおそるといった調子で欠片を口に入れてみて、途端に驚愕した。見事な味である。目を見開いた私を、八重さんが頬を緩めるような表情で眺めながら、
「少しは元気が出るような気がするだろ? じゃあ、ここからが本題だ」
咽を鳴らして菓子を呑み込んだ。「はい」
「神と精霊の市には掟がある。ここでの掟は、失くし物をしてはならない、だ。お前がこの市から抜け出せなくなったのは、失くし物をしたからなんだ」
「失くし物?」
「そう。この〈金魚辻の市〉で持ち物を失くすと、その思いに引っ張られて、帰り道が分からなくなるんだ。大切なものであればあるほど、その力は強くなる。お前、なにか心当たりがあるかい?」
はっとして左手首に触れ、すぐさま顔色を失った。「――〈らふらん〉がない」
「なんだって? らふ――?」
「腕時計です。小さい頃に友達に貰った、大事なものなんです。どうしよう」
「なるほど。時計か。時計ね」八重さんは納得したように顔を上下させた。「まあ、落ち着きな。せっかくだから、菓子をぜんぶ食っちまいなよ」
それどころではなかった。私は唇を震わせて、
「あの、本当に大切にしてきた時計で――いつ失くしたんだろう」
「更紗」言い聞かせるようにゆったりと、八重さんが私に呼びかける。「私には〈金魚辻〉の主として、いちおうの考えがある。まずは冷静になって、話を聞くことだ」
聞いたほうがいいよ、と傍らから小紅が私の肩に触れた。「あなたが聞くべきことを聞いて、話すべきことを話さないと、八重も手助けできないよ。大丈夫、八重は信用できる人だから」
息を吸い上げ、もっともだと自分に言い聞かせた。浮かせかけた腰を落ち着ける。すみません、と告げて八重さんを見返すと、彼女は頷いて、
「こうも賑やかな市だからね。お前以外にも、落とし物をする奴はいる。だから私は、霊獣たちに命じて見回りをさせてるんだ。なにか見つけ次第、私のもとに届けさせてる。一所に纏めて預かってるんだよ。お前の失くし物も、きっとそこにある」
「本当ですか」
「おそらくはね。時計の落とし物ってのは、そう珍しくないんだ。私の霊獣たちなら、もう見つけてると思うよ。どうだ、ちっとは気分がましになった?」
「はい――ありがとうございます」応じながら、焦ってばかりの自分を恥じた。考えてみればそうだ。公民館祭にさえ、遺失物管理所くらいはあった。これだけの規模ならば、対策が講じられているのは当然である。
八重さんが悠然と立ち上がった。どこからか煙管を取り出し、紫色の煙を立ち昇らせながら、
「物が見つかったら、後は好きにしていい。まっすぐに帰ってもいいし、ここを見物していってもいい。食べ終わったなら、預り所に案内しよう」
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