8

「――ねえ、大丈夫かな」

「〈宵金魚〉は偵察の名人だよ。そうそう下手は打たない」

「本当?」

「八重の霊獣なんだよ。この市の全員が承知してる。誰も手出しはできないし、するはずもない」

「だったらいいけど――」

 そうは言いつつ、私は不安を拭いきれなかった。初めのうちは二匹の音を追えていたのに、数分後に絶えてしまったということもある。屋内の物音に紛れたのではない。本当になんの前触れもなく、すっと意識から消えてしまったのである。単に私が〈兎面〉の力を使いこなせず、聞き取れるはずの音を聞き落としている可能性だってあるのだが――。

「やっぱり探しに行こうよ」やがて痺れを切らし、私は小紅に呼びかけた。「迷子になって、お腹を空かせてるかもしれないし」

 心配性を窘められるかと思ったが、小紅は顎を摘まんで短く頷いた。「そうしてみようか。ちょっと遅すぎる」

 門をくぐり抜け、戸口へと続く敷石を辿った。広々たる庭園だ。太鼓橋のかかった池さえある。

「こんにちは、どなたかいらっしゃいますか」声を張り、丸めた中指で軽く扉を叩いたが、応答はまるでない。「お邪魔します」

 沓脱は薄闇に満たされていた。正面には廊下が長く伸びており、その途中にいくつかの襖が目に付いた。どこといって不自然な光景ではないのに、なぜか背中が寒々とする。冷えた手で撫で上げられたようだった。

 襖のひとつを引き開けた。畳の敷かれた空っぽの和室で、広さは四畳半。とくべつ気になるものは存在しない。

 別の戸を開けると、また似たような部屋に出た。まったく同じかと考えると断言はできないのだが、かといって明確な差異が見出せるでもない。壁や天井の色合いも、模様も、湛えている気配も、空気の匂いも。

「普通の家じゃないんだね――やっぱり」

「それはそうだよ。手分けする?」と小紅が私を振り返る。

「絶対にやだ」

「そう言うと思った。離れないでいようね」

 私のチームに割り当てられた五匹が、明確に指示したわけでもないのに隊列を組んでいた。視野の広い出目金のクロとアカが私の前方を行き、外観の対照的なシロとランが左右。もっとも立派な体躯のドンが後方を守る、という形である。

「〈宵金魚〉って賢いんだね」

「賢いし、いざというときは頼りになる。もとが金魚だからそこまで強くはないけど」

 小紅の率いる五匹は、一見するとあちこちを自在に泳ぎ回りながら様子を探っているといった感じだ。しかし連携が取れていないわけではなく、ときおりいっせいに集合して小紅の周囲を固める。そのタイミングはきわめて厳格で、私の目には寸分の狂いもないように映る。

 ひたすら襖を開けながら進んだが、光景は変わらなかった。道順はすべて〈宵金魚〉たちに任せきりである。もともと方向音痴な質だから、意見しようという気にはまったくならなかった。そもそも自分の現在地からして分からない。彼らと逸れれば途端に立ち往生するだろう。

 もう何枚目ともつかない襖を引き開けて、私は雷に打ちのめされたようになった。見飽きるほどに眺めた壁に、輝きを見出したからだ。

 角に鏡が置かれていた。部屋全体を映し返している。私に認識できた初めての明確な変化であり、ちょっとした感動さえ覚えた。思わず速足になって近寄った。

 五匹の〈宵金魚〉たちがなぜか陣形を崩し、私の正面へと回り込んできた。妙に興奮した様子で鰭を広げ、身を震わせている。先に鏡を見たいというわけでもあるまいに。

 金魚たちを捌き、鏡を覗き込んだ。向こう側の、私の形をした影と目が合う。

 手を伸べてきた。私自身が鏡に触れているせいかと思ったがどうやらそうではなく、向こう側の私が独立した意思で動いているのだと分かった。だとすればこれは単なる鏡ではなく、なんらかの機巧が仕込まれているのかもしれない。鏡像の私が笑う。

 胸倉を掴まれた。その瞬間に我に返り、ひ、と息を洩らした。

 恐るべき怪力で引き寄せんとしてくる相手は、いまやまったく〈私〉などではなかった。なぜ自分自身と思い込めたのか不思議なほどだった。恐怖に悲鳴をあげ、必死に手足を突っ張って抗わんとしたが、体は為す術もなく引きずられていくばかりだ。

 金魚たちが私の服の端を咥え、懸命に鰭を動かしているさまが鏡に映りこんだ。しかし彼らにもどうにもならないらしく、一匹、また一匹と力尽きて私から離れていった。情けなさと申し訳なさ、自分の軽薄さに涙が出た。気付けなかった。警告してくれていたのに。

 とうとう全身が呑まれた。どこか痛むでも、熱いでも冷たいでもなかったが、鏡に嚥下されているかのような細かな蠕動が絶え間なく続いていた。視界が揺らぎ、和室の光景が失せる。あとはただ、闇だけがあった。

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