17
「私たちを勝たせようとしてくれてるんですか」
「まさか。真剣勝負だよ」
そうこうしている間にも、小紅は着実に酒を飲み進めていた。ペースは開始時とほぼ同じである。顔色さえ変えていないところを見ると、相当の酒豪なのかもしれない。
小紅が最後の一杯を注ぎはじめたとき、遂にして巴さんが行動に出た。「さて、そろそろ貰おうかな」
彼は壺を持ち上げ、顔の前で軽く揺すってみせた。と、口を大きく開く。その顎のあたりから低い異音が生じたかと思うと、信じがたいことが起きた。私は息を呑んだ。
巴さんの口が、構造上の限界を超えた大きさにまで広がったのである。空中に突如として巨大な穴が発生したかのようで、私の目には怪現象としか映らなかった。理解が追い付かない。
彼はそこに、壺を丸ごと放り込んだ。ごくん、と派手に咽を鳴らし、そして飄々と、
「私の勝ちだな」
「嘘」
小紅でさえも手を止め、一連の出来事に見入っていた。彼女の大皿にはまだ、半分ほどの酒が残っている――。
「いや、いいものを見せてもらった。私も苦戦を強いられたよ。君の友人はなかなかの飲み手のようだ」
巴さんはこれ見よがしに腹部に手を当てたが、そこは依然として薄いままだった。壺を丸呑みした直後とはとても思えない。なんらかの呪術で消し去ったとでも解釈したほうが、まだしもしっくりくる。
「いったい――どうやったんですか」
「どうでもいいじゃないか。私は酒を飲み干した。彼女はまだだ。重要なのはそれだけだ」
小紅が悔しげに歯噛みした。「分かってるよ」
皿をちゃぶ台に返した直後、彼女の体がゆっくりと傾いだ。私に凭れかかってくる。
「ごめん。負けた」
震えがちの吐息が、淡い桃色の唇から洩れる。平然として見えたが、やはり無理をしていたのだ。その頬に、額に手を当てる。ずるずると体勢を崩した彼女を、自分の膝の上に寝かせた。
「小紅、大丈夫だよ。ゆっくり休んで」
「格好悪いなあ――私がやるって言っておきながら」
「そんなの気にしないで。気分、悪くない?」
平気、と彼女は応じ、わずかに頭部を動かして位置を定め直した。やがて満足した口ぶりで、
「ちょっとだけ休憩する」
「うん、いいよ。頑張ってくれてありがとう」
私はゆっくりと、一定のリズムを保ちながら彼女の肩を叩いた。ややあって、静かな寝息が聞こえてくる。
「布団を用意させよう」と低い声で巴さんが言う。「隅にでも寝かせておくといい。私はザシキボッコとは違うから、君の友人と夢で遊んだりはしない。次は私と君の勝負だ」
「分かってます。でもどうか、少しだけ待ってください。すぐに動かしたら可哀相だから。ほんのしばらく、ふたりにさせてもらえませんか」
「いいだろう。しばし私は消えよう。ひとつ警告しておくが、私が不在のあいだに、この部屋を出ることは許されない。構わないかな」
「もちろんです」
部屋に再び暗闇が下りた。今度は一瞬で視力が戻った。私の目の前に巴さんはおらず、代わり、ふっくらとした布団が敷かれていた。やたら大きいと思ったら、枕がふたつ並んでいる。ふたり用らしい。
ともかくも私はそこに小紅を運び、横にならせた。ふにゃふにゃと言葉らしきものが発された気がし、口許に耳を近づける。〈兎面〉が強化してくれるのは純粋な聴覚だけであり、曖昧な語は曖昧なままにしか聞こえないのである。
「どうしたの? なあに?」
髪を撫でながら、囁き声で問いかける。彼女はまたふにゃふにゃ何事かを言ったが、やはりはっきりと意味を把握することはできなかった。ただ少しだけ、不安がっているように思えた。
布団の端をそっと捲り上げ、なかへと入った。眠っている小紅の隣に陣取った。
申し訳ないと思いつつも、指先で軽く頬に触れてみた。生まれたての赤ん坊のような弾力だった。
私よりも年上と明言していた。思慮深く冷静な言動からしても、それは真実のように思えた。疑う気はまったくない。私とはまったく違う時間を、彼女は生きてきたのだ。
そうと理解しつつも、私は目の前で静かに寝入っている少女のことが可愛らしくて堪らなかった。こんなにも小さな体に知恵を、勇気を、優しさを漲らせて、出会ったばかりの私のために駆け回ってくれたのだ。胸が締め付けられるようだった。
不意に彼女が腕を伸べてきて、私の腰のあたりに絡めた。ぐっと距離が詰まる。驚きに一瞬、心臓が跳ね上がった。
「小紅?」
「約束した――離れないって」
私がザシキボッコに連れ去られたときの夢を見ているのだと思った。そう、あの屋敷に入ったとき、確かに約束した。離れないでいよう、と。
「ここにいるよ」と耳元で囁いた。「安心して」
言葉が伝わったのか、あるいは偶然か、腰に回されていた腕の力が緩んだ。私はゆっくりと上半身を起こして、小紅の額にかかった髪を指先で整えた。その肩を軽く叩いてから、そろそろと布団を抜け出す。幸いにして彼女は目覚めなかった。
「巴さん、もう大丈夫です。待っていただいてありがとうございました」
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