(10)



「申し訳ないけれど、私はこの街を離れるつもりはないわ。仕事もあるし、病院を移ることが父のためになるとは思えないもの」

「メグ、そんなことないわ! リカルドは絶対に今よりも名医を探すし、そうすれば、もしかしたら、お父様だって目を覚ますかもしれないじゃない。仕事をしながら看病を続けるのは、体力的に大変でしょう? ここはリカルドに甘えて、お金を出させればいいわ。リカルドには、あなたに対してそれぐらいをする責任も義務もあるんだから」


 ルドミラが好意でそう言ってくれていることは、理性ではわかる。

 だが、頭でわかっていても、腹が立つのは止められない。


「帰るわ」


 ルドミラの話を、もうこれ以上聞いていたくない。

 メグはバッグを手に取った。


「メグ、待って。お願い。話はまだ終わっていないわ」

「終わりよ。私は彼の元に戻るつもりはないの」

「それなら! それなら、リカルドにそれをきちんとわからせて。お願いよ。リカルドは駄目になってしまうわ」


 それなら、駄目になってしまえばいいと、頭のどこかで言い返していた。

 でも、そうなるはずがないことも、よくわかっていた。


 十年前だって、リカルドは仕事に打ち込むことで、そしてメグを憎むことで立ち直った。

 今回も、リカルドはきっと立ち直るだろう。女性不信はなおったのだろうし。


 メグは財布からコーヒー代をだすと、テーブルに置いた。


「心配しなくても、リカルドはすぐに立ち直るわよ」


 メグの言葉を誤解して、ルドミラがさっと顔を輝かせた。


「彼にはもう別の人がいるわ。毎晩どこに出かけているのか知らないけど、きっと優しく慰めてくれる人を見つけたんでしょ」


 その言葉の意味をルドミラが理解する少しの間に、メグは席を立った。


「メグ! 待って!」


 レストラン中の視線を集めてしまうような大声で呼び止められたが、メグは振り返ることなく、そのままレストランを出た。


(どうせ私には、名医を呼び寄せられるようなコネはないわよ)


 乱暴に車のキーをまわし、エンジンをかける。

 いつもより強くアクセルを踏むと、メグの小さな車は夜道を飛ぶように走り出した。


(お金だってないわよ。働きながら看病がやっとよ)


 田舎街は夜が早い。

 交通量が少ないのをいいことに、メグは制限速度を超えたスピードを出した。


(どうせ、どうせ、私なんて)


 がつんと、拳でハンドルをたたいた。


「馬鹿みたいっ」


 十年待つって言ったくせに。

 君がいないと生きていけないとか、君を愛し続けるとか、気が狂いそうだとか。


「嘘つきっ!」


 やっぱり、罪悪感だった。

 償いのために、結婚を続けるつもりなのだ。

 愛しているとちやほやして、帰ってきて欲しいと懇願して、その裏でちゃっかり他の女性を見つけて。


 無事故で車庫にまで戻ってこれたのは、かなり運がよかったのかもしれない。

 少々斜めに駐車した車から降りると、メグは肩を怒らせて早足でアパートの入り口へと向かう。


「最低っ」


 しんと静まった夜空に、メグの声は思っていたより大きく響いた。

 響いた自分の声に、メグはちょっとすっとした。


「女ったらしっ! 節操なしっ! 弱虫!!」


 こういうのも、ストレス解消になるのかもしれない。


「嘘つき嘘つき嘘つき!」


 不意に口をふさがれた。

 背後から、誰かの手に。

 ぎょっとして振り返ろうとしたが、頭と腰をしっかりと押さえつけられて出来なかった。


「黙ってろ」


 耳元に、荒い息遣いが触れた。

 メグは必死に頭を動かし、自分を拘束している男の顔を見た。

 ディックだった。


「!」

「騒ぐなよっ」


 途端に激しく抵抗し始めたメグを、ディックは痛いほどの力で羽交い絞めにする。

 そしてそのまま、メグを抱えて歩き出した。


 アパートの前の通りに、車が一台止まっている。

 どうやら、ディックはその車に向かっているらしい。


 車に連れ込まれてしまったら、逃げるのは更に困難になる。

 ディックが何を望んでいるのか、自分がどうなってしまうか、混乱した頭でも容易に想像ができた。


 恐怖に体がすくむ。

 ダニエルの秘書だった時、きちんと護身術は習ったのだが、実地で使ったことなどないし、恐怖で体が自由に動きそうにない。

 こんな時のためにと買った防犯ベルはバッグの中で、そのバッグは背後から捕まった時に奪われ、その場に捨てられていた。


 だが、このまますくんでいても、どんどん状況は悪くなる一方だ。

 メグは抑えられている口をなんとか開くと、力を込めてディックの手に噛み付いた。

 ディックが押し殺した悲鳴を上げると、メグは力の緩んだディックの腕から逃れた。


 防犯ベルと携帯、車のキーが入っているバッグの方へと、メグは走る。

 短い距離なのに、足がもつれているような気がして、とても長く感じられた。


 恐怖のために、大きな声が出ない。

 多少出たとしても、この田舎街は夕食の時間になると、人通りはほとんどなくなるので、気付いてはもらえない。


 バッグをつかむと、防犯ベルを出そうと手を入れる。

 だが、あせっているせいか、ベルは見つからない。

 ベルは見つからないのに、携帯が鳴り出した。

 メグはパニック状態になる。


「こいつ!」


 がつんと、後頭部を何かで強打された。

 急速に意識が遠のき、そして体から力が抜ける。


「メグ!」


 冷たい地面に倒れ、そのまま意識を失おうとしていたメグは、その声に薄く目を開けた。

 駐車場のフェンスを乗り越え、男が一人、こちらに走ってくる。

 そして、その勢いのまま、ディックにつかみかかっていった。


「リカルド……」


 それを最後に、メグは意識を失った。

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