(4)



「十年前、リカルドと付き合っていたの。数ヶ月だったけれど」

「十年? それはまた随分昔のことだね」

「そうね。でも私には、ついこの前のような気がするわ」


 十六歳のメグは、当時二十五歳だったリカルドに、一目で恋に落ちた。

 まだ若く、怖いもの知らずだったメグは、なんとしてもリカルドの恋人になると心に誓った。


 当時から、リカルドは異性関係が派手で、彼の周囲にはいつも美しく洗練された美女が大勢いた。

 取り巻き達をかき分けてリカルドに接近するため、メグはお化粧を覚えたし、服装にも気を配り、話し方や仕草も研究した。

 すでに実業家としての頭角を現し始めていたリカルドと、対等に会話するため、よくわかりもしない経済新聞まで読んでいた。


 そして、リカルドには自分の年齢を二十歳だとごまかした。

 幸い、メグは長身だったし、きちんと化粧をしていれば二十歳に見えないこともなかった。

 そうしたメグの努力が実ったのか、リカルドはメグを気に入ってくれて、二人は付き合い始めたのだが。


「付き合うって言っても、そんな、真剣なものじゃなかったの」


 勿論、メグは真剣だった。

 本気でリカルドを愛していたし、当時、メグの世界はリカルドなしでは色あせてしまうほど、彼に夢中だった。

 あまりにも夢中で、自分の気持ちを隠すことなど出来なかった。

 言葉でも態度でも、リカルドに会うたびに無邪気なぐらい、彼を愛していると伝え続けた。


 だが、リカルドにとっては、ありふれた一時の関係だったのだろう。

 リカルドは一度もメグに対して、愛しているという言葉を口にしなかった。

 メグはそれがリカルドの大人なお付き合いの流儀なのだろうと、気にしないようにしていたのだが。


「私、凄く怖くなってしまって。リカルドを失ってしまうのが、怖くて怖くて……」


 メグはどんどんリカルドが好きになり、彼が自分のものだという確証が、どうしても欲しくなった。

 そうでなければ、彼の取り巻きにいつ奪われるのか恐ろしくて、不安でいてもたってもいられなかったから。


 リカルドは、お付き合いに慣れていないメグを気遣って、ゆっくりと交際を進めてくれていた。

 そんな初なメグとの付き合いが物珍しくて、リカルドは自分を選んだのではないかとメグは思っているぐらいだ。


 メグは渋るリカルドを強引に誘惑して、ベッドを共にした。

 リカルドは、初めてのメグをいたわりながら優しく愛してくれた。

 あの時の、幸福感とリカルドとの一体感を、メグは最高の思い出として、心の奥底にしまいこんでいる。


「でも、私達、そこで終わってしまったの」


 二人が深い仲になったことを、メグの父に知られたのだ。


 あの日、父のラリーは泊まりの仕事で帰宅しない予定だった。

 だから、メグはリカルドに泊まっていってくれるように、何度もお願いしたが、リカルドは父親に無断で泊まるわけにはいかないと帰ろうとしていた。


 父のラリーが突然帰ってきたのは、リカルドが帰る直前だった。

 リカルドはきちんと服を着て帰り支度を済ませていたが、メグは名残惜しくて、リカルドを帰したくなくて、素肌にシーツを巻き付けただけの格好でベッドにいた。

 二人が何をしていたのか、明白すぎるほどに明白だった。


 その後のことは、メグの人生の中で最悪の時間になっている。

 父ラリーは、一方的にリカルドをなじった。

 十六の子供をたぶらかした、傷物にしたと、リカルドを責めた。


 リカルドは、その時初めて、メグが二十歳ではなく十六歳だと知ったのだ。

 それを知ったときの、リカルドの青ざめ強張った顔を、メグは今もはっきりと覚えている。


 さらに悪いことに、ラリーは責めるだけではなく、このことを告訴することで公表し、リカルドがようやく築き上げようとしていた社会的信頼さえ壊そうとした。

 メグは必死に告訴しないように父を説得し、告訴はされることなく大きなスキャンダルにはならなかったが、それでも一部に噂が流れてリカルドは痛手を受けただろう。

 これからというリカルドの事業にとって、きっとそれは大きな損害になったはずだ。


「その後、私はリカルドに謝りたくて、何度も彼の元に行ったわ。でも、一度も会ってもらえなかった。最後には、彼の会社にまで押しかけたんだけど、徹底的に無視されて。それで、リカルドはもう私の顔さえ見るのが嫌なのだと、理解したの。でも……私ずっと、彼に謝って償いをしたかった。どんなことでもいいから、償いをさせてほしかったの」

「今もリカルドを愛しているんだね」

「ええ、愛しているわ」


 どれほどリカルドに罵られようと、彼への愛情は消えない。罪悪感は増すばかりだが。


「十年前からずっと、私は彼への罪悪感と愛情を抱えて生きてきたの。彼に愛されたいなんて、身の程知らずなことは望まないわ。十年前だって、本気で愛してもらっていたわけじゃないし。ただ、抱えてきた罪悪感を少しでも軽くしたい。そして、彼の憎しみを、少しでも……」


 涙がこみ上げてきて、メグは口を閉ざした。


 利己的だとどれほどののしられようと、償いをしたい本当の理由は、リカルドに許してもらいたいからだ。

 だって、心から彼を愛している。

 誰よりも大切な人から、憎まれ蔑まれ続けることは、とても辛い。

 許してもらえなくても、せめて彼の憎しみを少しでも減らしたいと思うのを、とめることは出来ない。


「私にこんな過去があったなんて驚いた?」


 自嘲気にメグがつぶやくと、ダニエルはちらりと笑みをみせた。


「それは全然。メグがわざと地味にして男を寄せ付けないのは、男絡みの辛い過去があるからだろうなぁと思っていたしね」

「そんなこと思っていたの?」

「あまりにも不自然だったからね。僕が驚いているのは、というか、呆れているのは、リカルドの方だよ」


 ベンチの背もたれに寄りかかり、ダニエルは前髪をかきあげながら低く笑いだした。


「年齢をごまかしていた事を十年も恨み続ける? しかも、憎むだなんて、それはちょっと普通じゃないよ」

「でも」

「それにね、普通、気づくって。当時、リカルドは二十五で、すでに女性経験も豊富だったんだろ。十六歳の女の子の背伸びに気づかなかったなんて信じられないし、気づかなかったとしても、それは全面的に男の方が悪い。当然だよ」

「でも、私が嘘をついていたのは本当だし」

「可愛い嘘じゃないか。十六歳の女性が年上の相手に合わせたいと思って、ちょっと背伸びしただけだ」

「でも、でも、それでリカルドは父にひどく脅されたし」

「脅されただけだろう? それだって、君が父上を説得したわけだし。それに、リカルドには女性関係のスキャンダルなんか星の数ほどあるよ」

「十六歳の相手はいないわ。十六では、犯罪になるのよ」

「まあ、そうだけどね」


 ダニエルは納得できない顔で考え込んでしまった。


「十年前、リカルドはとても仕事に打ち込んでいたわ。成功するまで、あとちょっとだったの。そんな時、私とのスキャンダルは、ひどい打撃だったと思うわ。それに、彼にとってどうということのない私とのことでリスクを背負うなんて、彼には許しがたかったのよ」


 メグはリカルドの正当性をわかってほしくて、自分の釈明よりもリカルドの弁護にまわっていた。

 そんなメグの優しさと公正さが好ましくて、ダニエルはこの場でリカルドを攻撃するのはやめにした。


「それで、メグは償いのために、リカルドとの偽装結婚を承諾したんだ」

「ええ、そう。でも、リカルドは私といるだけで、憎しみを増幅させてしまうみたいで……。偽装結婚したのは間違いだったと思っているわ。でも、彼は離婚には応じてくれなくて。私、償いの方法を見失ってしまったの」


 うつむいてじっと動かないメグの肩を、ダニエルは優しく叩いた。


「偽装結婚に協力することが、償いなんだろ」

「そうなんだけど……」

「それに、これはいい機会なんじゃないかな。今の君を知ってもらうね」


 不思議そうな顔をあげたメグに、ダニエルは頷いてみせる。


「メグ。君はとても魅力的で素敵な女性だ。それはね、僕が保証する。十年前、メグがどんな女の子だったか、僕は知らない。でも、君は深く強い痛みを知って、とても人を思いやれる女性になったと思う。僕の知っている人の中で誰より、君は誠実で信頼できる人だしね」

「………」

「それをリカルドが、わからないはずはないと思う。メグがとても反省して悔い改めたっていうことを、彼に知ってもらうのも、償いなんじゃないのかな」


 ダニエルはちらりと腕時計に視線を落とした。

 いつの間にか夕闇は濃くなり、すっかり夜になろうとしていた。

 メグの膝の上でぎゅっと組まれた手をポンとたたき、ダニエルは立ち上がる。


「時間切れ。今日はとりあえず一人で帰ることにするよ」

「あ……」


 ぼんやりと立ち上がったメグの頬に、ダニエルはさっとキスをする。


「また来るよ」

「ダニエル。待って。もうここには来ない方がいいと思うの」


 ようやくメグは我に返り、もう行こうとしているダニエルを引き留めた。


「リカルドは、私が秘書じゃなくて愛人だったと思いこんでいるの」


 あまりにも意外な言葉だったのだろう。

 ダニエルは目を丸くしてメグを振り返った。


「私と会っているのが知れたら、私だけではなくあなたにも嫌な思いをさせてしまうから」

「あきれたなぁ。彼の目はかなり曇っているね」

「ごめんなさい、ダニエル。誤解だって何度も説明しているのだけど」

「君が謝ることじゃないよ。大丈夫。僕に任せて」


 ダニエルは本当に急いでいるらしく、手を振りながら走り去ってしまった。


 ベンチに腰を下ろしながら、メグはしばしぼうっとしてしまう。

 今ダニエルと話をしたのは本当の事だったのか、夢だったのか。

 それぐらい、突然で思いがけないダニエルの訪問だった。


「………」


 なんだか、肩の力がふっと抜けたような気がする。

 もしくは、ようやく目が覚めたような。

 ずっとリカルドに侮蔑されて、罪悪感にさいなまれ、萎縮していた心が、少し自由を取り戻したような感じ。


 リカルドに再会してからずっと、十年前の罪にとらわれていたのかもしれない。

 今、ダニエルに会って、あれからすでに十年の月日が流れていることを思い出したような気がする。


 ダニエルの言うとおり、今の自分は十年前とは違う。

 それをリカルドにもわかってもらえれば。

 彼に罵倒されて黙ってしまわず、きちんと反論して、今の自分をわかってもらえれば……何か変わるだろうか。

 そのことで、彼の中の憎しみも、薄れたり消えたりすることがあるだろうか。


「ダニエルって、不思議な人よね」


 突然現れた事といい、このタイミングで来てくれた事といい。

 そして、いつもまるでこちらの心の内を読んでいるかのように、的確な言葉をくれる。


「しっかりしなくちゃ」


 つぶやいて、メグはぎゅっと拳を握りしめた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る