(9)



 メグはいつも決まった時間に目が覚める。

 規則正しい生活を続けているので、目覚ましがなくても、大抵は朝六時半前後に目覚める。


 その日、目を覚ましてすぐ、メグはリカルドがまだ眠っているのか確認した。

 だが、リカルドはもうベッドにはいなかった。


「……何時に起きてるんだろう」


 ため息混じりに、そうつぶやく。

 最近、リカルドは、メグが起きる前に出社してしまうのだ。


 手早く身支度して食堂に下りていくと、やはりリカルドはもういなかった。

 だが、今夜は早く帰るというリカルドの伝言を、使用人が伝えてくれた。


「今夜も夕食を作られますか?」


 リカルドが早く帰ってくるときはいつも、メグは夕食を手作りするようになっていたので、キッチンからわざわざシェフがメグに確認を取りに来てくれた。

 この屋敷のシェフ、オーウェンは、自分の仕事にプライドを持つ一流のシェフなのだが、快くメグにキッチンを使うことを許してくれていた。

 メグのせいで、リカルドに腕を振るったディナーを出すことが出来なくなったわけだが、それについても許してくれている。


「そうさせてもらうわ。でも、オーウェン。またメニューを考えるの、手伝ってもらってもいい?」

「勿論ですとも。今夜はどういった趣向にいたしましょうか」

「消化のいいもの。それから」

「滋養のあるもの、でしょう? この前も、同じことをおっしゃられていましたよ」


 呆れたような、それでいて優しい表情のシェフに、メグは頬を染める。


「だってしかたないわ」


 この数週間、リカルドはますます仕事の量を増やしている。

 メグはそれがとても心配で、何度もリカルドに休暇を取るように言っているのだが、まるで聞いてくれない。 

 何度か早く帰宅して夕食を一緒にしてくれたのだが、相変わらず就寝は深夜のようだし。


「お気持ちはよくわかります。どうでしょう。料理に眠り薬でもいれたら」

「いい考えかもしれないわ」


 まんざら冗談でもない顔で、メグとオーウェンは頷きあった。


 


 まだ日が暮れきらない薄闇の中、メグは心地よい風を感じながら、庭へと続く階段をおりていた。

 夕食の仕度が思っていたよりも早くすんだので、リカルドの帰宅を待つ間、自分の庭の出来栄えを見に行こうと思ったのだ。


 夕食のために着替えた白いサンドレスは裾がふんわりとした優美なデザインで、風に足の周りをふわふわ揺れるのが、歩いていて楽しかった。

 リカルドが用意してくれた服はどれもこれもブランド物の超高級品で、いつも実用的なスーツばかりだったメグは、申し訳なく思いながらも、素敵な服を着る事を日々のちょっとした楽しみにしていた。


 華奢で優美なデザインのサンダルで、テラスから庭へとおりていく階段を、裾が揺れるのを楽しみながらおりていく。

 ふと目を上げると、階段の一番下、手すりにもたれかかるようにして、リカルドが立っていることに気が付いた。


「やあ」


 メグが驚いて足を止めると、リカルドは体を起こして、メグの前へと歩いてきた。

 そして、階段上のメグを見上げてくる。


「リカルド……。もう、お帰りだったのね」


 メグはあまりに驚いて硬直してしまったが、すぐに微笑をうかべ、リカルドの前へと階段をおりた。


「驚いたわ。すぐ夕食にする?」


 リカルドは、メグの質問には答えなかった。

 ただじっと、メグが気恥ずかしく思うほど、じっとメグを見つめていた。


「何かあったの?」


 小さな声でそっと聞いてみると、リカルドはメグから視線をそらし、口元を苦笑の形にゆがめた。


「……リカルド?」


 こんなリカルドは珍しい。初めてかもしれない。

 最近、かなり打ち解けてくれて、気さくに話をしてくれるようになったし、時には笑顔さえ見せてくれる。

 だが常に、二人の間に見えない壁を作り、メグには決して隙を見せないような緊張感がどこかにあった。


 それなのに今のリカルドは、どこか虚脱しているように見える。

 自分の前でリラックスしてくれているというより、覇気の感じられないリカルドなんて、病気にでもなったのかと心配になってしまう。

 やはり働きすぎなのではと、改めてリカルドを見ると、少し痩せたように思えた。

 目の下に薄いクマが出来ているような気もする。


「今日は仕事が早く終わったの? それなら、少し休んだらどうかしら。ずっと、働きづめでしょう?」


 何も答えず、ただメグの顔を見つめ続けるリカルドの様子に、メグはますます心配になってしまった。


「明日は土曜日だわ。会社もお休みでしょう? ゆっくりしたらどうかしら」

「………」

「私、風邪をひくことにするわ。そうすれば、誰も不審に思わないし」

「なんのことだ?」


 メグは、こほこほとせきをしてみせる。


「だって、新婚の二人が久々の休暇を一緒にすごさないなんて、変でしょ? でも、風邪で寝込んでいるのなら仕方ないもの」


 自分が一緒では、リカルドの休暇にはならない。

 リカルドには、演技も忘れてリラックス出来る時間が必要なのに、自分が一緒では逆に気を使わせてしまう。


「……新婚の夫なら、妻の看病をするんじゃないか?」

「そう言われてみればそうね。あ、でも、どうしても出席しなくちゃいけないパーティーとか、そういうのがあれば」

「休暇はとるよ。ただ、もう少し先だ。今手がけている新しいホテルが無事にオープンしたら、少しまとまった休みを取るつもりでいる」

「そうだったの。それなら、旅行にでも行ったらいいわ。出張ということにしておけば、私が一緒じゃなくても変に思われないし。あなたには、息抜きが絶対に必要よ」


 夕闇が濃くなってきて、光を背に立っているメグから、リカルドの表情はほとんど見ることが出来なかった。

 だから、不意に腕を伸ばして肩を引き寄せられ、頬に軽くキスしてきたリカルドの真意はわからなかった。

 真意といっても、使用人の誰かが窓から覗いているのに気づいた以外に、何かあるわけがないが。


 キスの後、しっかりと抱きすくめられて、メグは心臓をばくばく高鳴らせていた。


「あ、あの、今夜は、お肉とお野菜の煮込み料理で、オーウェンに教えてもらったんだけど、お肉が柔らかくてとてもおいしくて」

「オーウェンは、すっかり君に夢中だな。プライドが高くて、自分のレシピは門外不出だと豪語していたのに」

「あら、オーウェンは凄く優しいわ」

「庭師のヘンリーだってそうだ。あの気難しい男が、君の小さな庭をせっせと手伝っている」


 リカルドが自分を抱きしめながらくすくす笑っているのを、メグは驚いてわけがわからなくて緊張して、硬直したまま聞いていた。


「屋敷の者達は誰も、奥様のためにもう少しお仕事を減らしてくださいと、俺に言う」

「やだ……。ごめんなさい。知らなかったわ」

「いいよ。君が言わせているとは思っていないから」


 腕の力が緩んだので、メグは慌ててリカルドから離れた。

 顔が真っ赤なのはわかっているので、恥ずかしくてとても顔を上げられない。


「昨日、ダニエルに電話したの」

「俺が君に会わせないと、文句を言っていただろう?」

「ええ……」


 電話の向こうで、ダニエルは笑いながら言っていた。


「あれは絶対、嫉妬にもえた夫だよ。君を独占したくて仕方がないという顔をしていたよ」


 直接リカルドに会って、この前の不法侵入のお詫びと、改めてメグとの面会を申し込んだというダニエルは、その時のリカルドの様子をそう話した。

 勿論、メグは即座に否定したのだが。


「リカルドのことに関しては、流石のメグも盲目だね」


 とまで言って、メグを困らせた。

 ダニエルの人を見る目の確かさは、メグもよく知っているが、今回ばかりはダニエルの方が間違っている。


「彼は他に何か言っていた?」


 リカルドにそう聞かれて、メグはさらに頬を真っ赤にした。

 ダニエルが言ったことをリカルドに話したら、リカルドはきっと怒り狂ってダニエルに対する心証を悪くしてしまうだろう。


「あの、来月、会いたいと言われたの。仕事でこの近くに来るんですって。だから、そのついでに」

「本当についでなのか、怪しいものだ」

「ダニエルは凄く忙しい人よ」


 実は、リカルドの推察どおり、ダニエルは仕事のついでではなく、メグに会いに来るのだ。

 どうしても、会って話したいことがあると、ダニエルに言われたのだ。

 それが何なのか、ダニエルは話してくれなかったのだが。


「リカルドが同席してもいいからって。いいでしょう?」

「……多分ね」

「多分?」

「もっと寛大な気分になれたらね」


 むっつりとした声のリカルドに、メグは小さく笑う。


「お休みを取れば、そんな気分になれるんじゃないかしら」

「どうかな」

「海はどう? マリンスポーツ、大好きでしょう?」

「ああ」

「テラスで青い海を見ながら、のんびりお食事でもしたら、きっととてもいい気分よ」


 十年前、リカルドとよく一緒に海に行った。

 メグもマリンスポーツが大好きで、二人でよくスキューバーダイビングを楽しんだものだ。

 くたくたになるまで海に潜り、その後は海の見えるレストランで食事をするというデートを、何度しただろう。


 メグはもう、そんなデートをこの十年一度もしたことがない。

 だがリカルドは、あの後も色々な女性と楽しんだはずだ。


「それに、リゾートでのちょっとしたデートなら、誰も問題にしないんじゃないかしら」


 結婚前の生活を一時的にでも取り戻せれば、リカルドもストレス解消ができるのではないかと思い、そう提案してみた。

 リカルドは喜んでその提案を受けるだろうと思っていたので、怒っている表情でこちらを見ていることに、メグはとても驚いた。


「本気で言っているのか?」

「……リカルド?」


 なぜリカルドが怒っているのか、まるでわからなくて怖くなった。


「俺に本気でそうしてほしいと思っているのか?」

「そ、それは……」


 リカルドに休暇をとって欲しいのは、これ以上なく本気だ。

 だが、他の女性とデートして欲しいというのは……本気とはいえないのかもしれない。


「ごめんなさい」


 嘘を言っているのがリカルドにはわかって、それが不愉快だったのかもしれない。

 黙ったままリカルドが屋敷の中へと姿を消してしまうと、メグはうつむき、小さく吐息をついた。


(また、嘘つきだって思われたかしら)


 日頃の言動には、細心の注意を払っているのだが。


 リカルドを怒らせてしまうし。

 きちんと休暇を取らせることも出来ない。


(ダニエルの健康管理は、お手の物だったのになぁ)


 だがそれは、ダニエルはメグを信頼してくれていたが、リカルドはそうではないというだけのことかもしれないと思う。

 いつになったら、それともこのまま永遠に、リカルドの信頼を勝ち得ることは出来ないのではないかと、メグは落ち込んでしまった。

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