(8)



 夜十時。

 メグは読んでいた本を閉ざし、窓の外に視線を向ける。

 寝室の窓から、向かいの棟の一階にある書斎の窓が見える。

 今夜も、まだ書斎の窓からは明かりが漏れていた。


 二人の夕食は和やかな雰囲気で終わったのだが、食後、リカルドはいつものように書斎に閉じこもってしまった。

 きっといつもどおり、寝室の明かりが消えて、メグが眠るまで、リカルドは書斎から出てこないのだろう。


(この先、ずっとこうしていくつもりかしら)


 これでは、リカルドがリラックスしてくつろげる時間があまりにも少ない。

 それでなくても、仕事仕事で、休む間もなく働いているというのに。

 いつかきっと、倒れてしまう。


 無理に寝室を同じにしなくてもいいのにと、メグは思う。

 どうしてもベッドを共にしているというポーズをとりたいのなら、隣り合った寝室にして、間の壁に扉を設置するとか。

 やりようはいくらでもあるのに。


(食事中は、すごく和やかだったのに……)


 でも、一緒に食事をするのと、同じ寝室で一緒に眠るのとでは、親密度があまりに違う。

 リカルドがメグとそんな親密さを持ちたくないと思っていても、責めることなど出来ない。


(……でも)


 毎晩のようにこんな風に思い悩んでも、結局何も出来ず一人で眠るだけ。

 そんな自分が情けなくて、メグはため息をついた。


 こうして、うじうじ一人で考えるだけなのは、もうやめなければ。

 ちゃんとリカルドに話をして、自分がどう思っているのか、きちんと意思表示しなければ。


 行動あるのみ。


「よぉしっ」


 メグは書斎へ向かおうと、立ち上がった。


 


 キッチンで、リカルドのためにカモミールのハーブティーをいれ、書斎の扉前に立つ。

 一度深呼吸してから扉をノックすると、リカルドが入ってくるように返事をしてくれた。


「メグ……」


 驚くリカルドの前に、お茶を置く。


「少し、休憩しない?」

「……少しなら」


 と、リカルドは手にしていた書類を置いて、ティーカップを手に取ってくれた。


「いい香りだ」

「よく眠れるように、おまじないよ」

「別に俺は不眠症というわけではないよ。ただ、人より睡眠時間が少なくても平気なだけだ」


 デスクをはさんで反対側の椅子にメグは腰を下ろすと、お茶をのせてきたトレーを胸に抱える。


「あの……。お話があるの」

「楽しい話だと嬉しいね」

「楽しい話よ。あのね。寝室を別にしてほしいの」


 リカルドが低く笑う。

 もしかして、OKしてくれるのかとメグは一瞬期待したが、リカルドの返答は素っ気無かった。


「駄目だ」

「でも、リカルド」

「この話は、もう終わっているはずだ」

「寝室を隣にすればいいと思うの。そういう夫婦は、珍しくないでしょ」

「駄目だ」


 頑ななリカルドの態度に、メグは肩を落とす。


「だって、リカルド。あまりにも不自然だわ」

「不自然な夫婦なのだから、仕方がないさ」

「でも……」

「君が不都合を感じているとは思わなかったが」


 不都合は感じていない。

 リカルドの睡眠時間が心配なのと……傷つけられるのが辛いだけだ。


 あからさまに、寝室で二人きりになるのを避けられていることを見せつけられ。

 同じベッドで眠りながらも指一本触れてもらえないことで、自分の魅力のなさとリカルドの憎しみの深さを知らされ、傷つくだけだ。


「本当の夫婦のように、セックスすれば君は満足なのか?」


 はっきりと言われ、メグは顔を真っ赤にした。


「ち、違うわ。私は、ただ」


 咄嗟に反論しかけたが、メグはきゅっと唇をかんで、それをやめた。


「私に触れるために、お酒の助力が必要なあなたに、抱いてほしいなんて言うつもりはないわ」


 手の中のトレーを見つめながら、メグはかろうじて聞き取れるような声で告白する。


「辱められるために抱かれるのも嫌だし。でも……同じベッドを使っているのに、こんな風に無視され続けているのも辛いわ」

「………」

「それに、あなたもしんどいでしょ? あなたが我慢していると思うと、私も辛いのよ」


 リカルドは答えない。

 メグもあまりにも恥ずかしくて、顔を上げてリカルドの表情を見ることも出来なかった。


「が、我慢って、勿論、私をベッドから蹴り落としたい衝動を我慢するっていう意味よ。あなたが凄く我慢強くて、一度決めたことをやり遂げようという強い意志の持ち主なのはわかるけれど、私たちの結婚生活はまだまだ続くわ。これでは、いつか体を壊してしまうと思うの」

「………」

「お願い。寝室は別にしましょう?」


 メグは思い切って顔をあげた。

 すると、怖いような顔でメグを睨んでいるリカルドの目と目があった。


「駄目だ」

「リカルド」

「君は、俺が遅くまで仕事をしているのは君を避けているためだと思っているようだが、それは違う。俺は本当に仕事が忙しい。特に今は、新しいホテルのオープン前で、目の回るような忙しさだ。それに、君に俺の健康を気遣ってもらう必要もない」


 自意識過剰だと言われたような気がして、メグはまた真っ赤になってうつむいた。


「別に、君をベッドから蹴り落としたい衝動にかられたこともない」


 ますます真っ赤になって、メグはすらりと背の高い体を、出来る限り小さくした。


「お、お仕事の邪魔してごめんなさい! 私、これで失礼するわ」


 リカルドの顔が見れず、メグは床を見ながら扉に駆け寄った。

 そのまま部屋を出て行こうとしたのだが、思いなおして足を止める。

 自分の顔が滑稽なほど真っ赤だという自覚はあったが、勇気を出してリカルドへと視線を向ける。


「あの。休暇をとるようにして。お友達と旅行に出るとか、そういうのでもいいから」


 そして、リカルドの返事を待たずに、メグは書斎を出た。


 扉にもたれかかり、メグはほっと息をつく。

 とても恥ずかしかったし、今も心臓がドキドキしているが、リカルドときちんと話が出来たことが嬉しかった。

 しかも、リカルドは怒り出したりせず、ちゃんと話を聞いてくれたし、返事もしてくれたのだから。


(この調子で頑張ろうっ!)


 ほてった頬を両手で包み、幸せそうに微笑みながら、メグは寝室へと歩き出した。




 メグの持ってきてくれたお茶を飲み干し、リカルドは椅子の背にゆっくりともたれかかった。


(あれが演技なら、彼女はとんでもない名優だ)


 ため息をつき、じっと目を閉ざす。

 メグが心配してくれているとおり、かなり疲れている。

 彼女と結婚してから、一度として心から休めた時間がないのだから、当然のことだ。


 それでも、疲れを感じることはほとんどなかった。

 夕食の席で、メグから十年前の話を聞くまでは。


 リカルドは腕を伸ばして、受話器を手に取る。

 すでに夜十時を回っていたが、どうしても明日の朝まで待つことは出来なかった。


「こんな時間にすまない。リカルドだが」


 仕事でいつも使っている探偵社は、もう時間外の留守番電話になっていた。


「頼みたい調査がある。明日、出来るだけ早く連絡をくれ。では」


 電話を終えたあと、リカルドは目を閉ざしたまま、身動きせずに考え込んでいた。


 もっと早く、調査するべきだった。

 だがどうしても、メグがその後どうしているのか、知りたくなかったのだ。


 もしかしたらそのせいで、とんでもない過ちを犯したかもしれない。


 リカルドは、恐怖にも似た強い後悔と罪悪感に襲われ、額にじっとりと汗をかいていた。 

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