(4)



 劇場に到着し、なにごともなく無事に席に着くことが出来て、メグはほっと胸をなでおろした。

 リカルドは桟敷席をとってくれていたので、あとは帰るときまで誰かに会うという心配はしなくてもいい。


「どうかした? 緊張しているだろ」


 薄闇の中、リカルドがそっと手を握り締めてくれた。

 心配そうに覗き込んでくれるのに、微笑んでみせる。


「ちょっとね。だって、こういった社交の場は久しぶりだし。……誰かに会ったらと思って」


 それでなぜ緊張するのかという顔のリカルドに、メグはちょっと肩をすくめる。


「ゴシップ誌の一面を飾るのは嫌だから」

「ああ」


 むっと、リカルドは顔をしかめた。


「ごめんなさい。気に障った?」

「そうじゃないよ。心配しなくても、ああいった記者たちは何処にでもいるというわけじゃない。一面を飾りたいなら、初日かプレミア公開の日に派手に登場すればいい。今日は大丈夫だ」

「あなたはわかっていて来ていたということ?」


 リカルドは何度もゴシップ誌の一面を飾っている。

 そのたびに、違う美女を伴っていたのは、言うまでもない。


「相手の女性が、それを望んだのさ。いい宣伝にもなるからね」

「そうだったの……」

「俺はあまり好きではないが、どうでもいいと思っていた。何度か、宣伝のためだけにエスコートした女性もいるよ」


 独身でハンサムな実業家のリカルドは、社交界でも人気がある。

 しかも、極上の女性達ばかり相手にしてきているリカルドに、エスコートしてもらえるというだけで、いい宣伝になるのは確かだ。


「でも、楽しんではいたんじゃない? あなたは昔から女性とお付き合いをするのを楽しんでいたもの」


 悪口だと思われないよう、悪戯っぽく笑い、軽い口調になるように気をつけた。


「確かに。楽しんでいたな。……十年前、君に会うまでは」


 つぶやくように付け加えられた言葉に、メグは息を呑んだ。

 顔色も変わってしまったのだろう、リカルドがしまったという感じに顔をしかめた。


「違う。メグ。君が思っているような意味じゃない」


 リカルドの言葉に重なるように、開幕のベルが鳴り出した。

 拍手するために、リカルドの手の中にある自分の手を取り戻す。

 そしてそのまま、リカルドに背を向けて、メグは舞台へと集中した。


 


 気のない拍手をしながら、リカルドはじっとメグの横顔を見つめていた。

 馬鹿なことを言ったと後悔しても、今更発言を忘れてもらうわけにもいかない。


 拍手を終えると、メグはそのまま舞台のほうへと集中してしまった。

 また手を握ろうかどうか迷ったが、やめておいた。メグの凛とした横顔は、そういったことを拒否しているように見えたからだ。


 今までの人生の中で、本気で愛した人は、メグ一人だけ。

 心から愛する人と共にいる時間の幸福さを知ってしまった後、他の女性との時間を楽しむことは出来なくなった。

 そんな本音を話したら、メグはどんな顔をするだろうか。


(ぞっとして、震え上がるかな)


 なにしろ、彼女にとってリカルドは、『父親』なのだから。

 あれは例え話で、気にすることはないのだと思っていても、心のどこかに引っかかっていた。

 以来、メグに対して欲望を持つことさえ、なにやら申し訳ないような気にもなるのだ。

 それでも、やはりもう一度手を握りたいと思い、手を伸ばしかけ、リカルドはメグの薬指に結婚指輪がないことに気がついた。


 今日、外出していたときには、していたはず。

 レストランやカフェで他の男の視線がメグに集まっても、結婚指輪があることで安心できた。

 メグは結婚してからずっと、指輪をはめていてくれたはずなのに。


 舞台に集中しているメグの横顔を見つめ、口を開きかけ、すぐに諦めた。

 そのことでメグに文句など言えない。どうして外したのだと、責めることなど以ての外。

 なにしろ、リカルドは結婚式がすんだ後すぐに指輪をはずし、何処に置いたのかさえ覚えていないのだから。


 


 指輪のことばかり考えて、ほとんど舞台には集中できなかった。

 メグはきちんと楽しめたようで、帰りの車の中でも、頬を紅潮させ興奮気味に舞台の感想を話していた。

 熱心に相槌を打っていたつもりだったのだが、舞台を楽しめなかったことはすぐにばれてしまったようで、メグは舞台の話題をやめてしまったが。


 メグはその場の空気を読むのが、とても上手だ。

 落ち着いていて、控えめで、それでいて全く自己主張しないわけでもなく。

 ダニエルが彼女を秘書として高く評価していたのも、わかる気がする。


「明日はどうしようか?」


 それなら他の話題をと車中で聞いたのだが、メグは曖昧に微笑むだけで答えてくれなかった。

 どうやら、運転手の耳を気にしているらしい。


(あの失言までは、とてもうまくいっていたのに)


 メグはとてもリラックスして、買い物を楽しんでくれていた。

 完璧なエスコートを目指し、これまでの自分とは違うこと、メグを大切に思っていることを、態度で示したつもりだ。

 彼女の美しさを誉めるたび、メグはお世辞か嫌味だと思っているのだろう居心地悪げにしていたが、最後にはだいぶ慣れてくれてちょっと嬉しそうにしてくれるようにさえなったのに。


 一度の失言のせいで、メグはすっかり心を閉ざしてしまった。

 きっと今、あの小さな賢い頭の中で、今日一日の行動を反芻し、しなくてもいい反省をしているに違いない。

 そして、やっぱりリカルドは一人でのんびり休暇を楽しむべきよ、と言い出すのだ。


 


 宿泊しているホテルのスイートルームに入り、二人きりになってから、メグは口を開いた。


「明日は、別行動にしましょう」


 ほっとした表情をするだろうと思っていたリカルドは、軽く天を仰ぎ、なんともいえない顔で吐息をついた。

 そして、承諾も拒否もせず、ただじっとメグの顔を見つめてくる。

 その凝視にメグは居心地悪くなって、目をそらした。


「今日は楽しめた?」

「勿論よ」


 聞かれて、さっきの自分の発言は、今日がつまらなかったので明日は別行動にしたいと聞こえることに気がついた。


「今日はとっても楽しかったわ。本当よ。でも、私ばかり楽しませてもらっちゃって、申し訳なかったから」

「俺も楽しんだよ」

「男の人は、買い物が嫌いだと思っていたわ」

「綺麗な女性を、美しく飾り立てることは大好きだよ」


 リカルドは、さらりとお世辞を口にする。

 あの事故以来、リカルドは罵倒するかわりに、誉めることにしたようだ。

 看病のお礼をしてくれるのは嬉しいけれど、ここまで一生懸命徹底的にやられると、逆に申し訳なくて困ってしまう。

 リカルドは我慢をしているところもあるのだろうし、その証拠がオペラの時の発言だったと思う。


「無理しないでほしいの。私、あなたと一緒に旅行できるだけで、十分。お礼をしてくれるのは嬉しいけれど、ここまでしてもらうと申し訳なくて」

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