(9)



「リ、リカルドじゃないか。あ、オープンおめでとう。挨拶が遅くなって」


 善良なボリスは、リカルドの不機嫌さを自分の不明のせいだと思ったようだ。

 焦った様子で謝り始めたのだが、リカルドはそれをさえぎった。


「とんでもない。遅刻してきてね。今さっき来たところなんだよ」


 と、今度は急に愛想のいい笑顔をうかべて、ボリスに握手を求める。

 ボリスは不審に思いながらも、リカルドに合わせて笑顔を浮かべ、握手に応じた。


「素晴らしいホテルだね。ここの会員になれるなんて、とても光栄だよ」

「とんでもない。君のような人に会員になってもらえたら、このホテルの格も上がるというものだよ」


 ビジネスマン同士の話になりそうだと、メグはこの場から身を引こうとした。

 だが、メグが身動きした途端、リカルドの腕が二の腕をしっかりと握り締めてきた。


 メグはそっとリカルドの横顔を見上げる。

 リカルドはボリスの方を向き、一見、楽しげに会話をしているが、メグにはなんとなく彼が怒っているように感じられた。


(会話を聞かれたのね)


 メグとしては、なんとか結婚していることを隠そうと努力したつもりだが、リカルドにはそう聞こえなかったのかもしれない。

 だが、こんな不自然に会話の間に割り込んできたりして、おっとりしているボリスだから何も言わないが、他の人だったら絶対に何かあるのかと勘ぐるだろう。

 メグはリカルドの態度が少し腹立たしく思え、二の腕をつかんでいる手を強引に外させた。


「ボリス、ごめんなさい。私はここで」


 と、メグはリカルドの視線を感じながらも、ボリスにそう言った。


「ああ、メグ。後で連絡先を教えてもらえるかい?」

「私の連絡先なら、ダニエルが知っているから。また、ご縁があったらということで。失礼します」


 ボリスとリカルド、二人に軽く頭を下げると、メグは不自然ではない程度の早足でその場を離れた。


 


 リカルドは、バルコニーへ出て行くメグの後姿を、じっと目で追っていた。


「もしかして、彼女を知っているのかい?」


 さすがに不審に思ったらしいボリスに聞かれ、リカルドは強く頷く。


「メグが今、どこで仕事をしているか知らないかい? 彼女にぜひ来てもらいたいんだけど」


 振り返ったリカルドに睨まれ、ボリスは驚き半分怖さ半分で、もごもごと言葉を飲み込んだ。


「メグは働いてなどいない」

「そ、そうなのかい。でも、彼女は」

「だが、君の秘書になることは不可能だよ。俺は、自分の妻に他の男の秘書をやってほしいとは思わないからね」


 ボリスはぽかんと口を開き、硬直した。


「失礼」


 そんなボリスに短く断ると、リカルドはメグを追って足早に歩き出す。

 リカルドは、とても怒りながら、同時にひどく落ち込んでいた。


 休暇旅行中、メグとの距離はだいぶ縮まった、と思っていた。

 もしかしたら、十年前のようにメグは自分を愛してくれるようになるのではと、甘い期待さえしてしまったぐらいだ。


 それなのに、結婚のことを隠そうとするだけではなく、離婚を前提に次の仕事を決めようとするメグに、腹が立った。

 二人の間には契約以外の何もないような、休暇前と何も変わらないメグの態度に、甘い期待は打ち砕かれた。

 まだまだメグに信用されていない受け入れられていないと思うと、今まで気合が入っていただけに落ち込みも深かった。


 メグが出て行ったバルコニーへの扉を開けると、さっと風が抜けていった。

 湖の上を渡ってきた風から、水の匂いと、メグの使っている香水の淡い香りがした。

 湖上に張り出したバルコニーの一番奥にメグは立ち、湖を覗き込むように身を乗り出していた。


 リカルドは、思わず足を止める。

 ほのかな外灯の明かりの中、白いドレスのメグの姿は、ぼうっと浮き上がり、まるでこの世の人とは思えないほど美しく見えた。


「怒っているでしょう?」


 湖上に視線を向けたまま、メグがつぶやいた。


「先に言っておきますけど。私はどうにかして結婚していることを隠そうとしていたのよ。ボリスは私をとても高く評価してくれているから、できる限りの誠意を見せたかったの」

「わかっているさ」


 ぶっきらぼうに、リカルドがつぶやくと、メグが驚いた顔で振りかえった。


「わかっている?」

「そうさ」


 リカルドはゆっくりとメグの隣に歩み寄った。


「よくわかっているよ。君が俺と結婚したことを、隠したいと思っていることぐらいはね」


 我ながら、ひがみっぽい言い方だと思ったが、今はそれを取り繕う気にもなれなかった。

 見れば、今日もメグの指には結婚指輪がない。

 やはりと思いながらも、ショックだった。


 メグはリカルドの態度を不審に思うよりも、驚いたらしい。


「隠したいと思っているのは、あなたの方でしょ?」

「そんなことは」

「パオロ叔父様に、結婚披露を半年待ちたいということを納得してもらえて、あなたはこの結婚を公にする気を失くしたくせに」


 そのとおりだったから、リカルドは顔をしかめただけで、反論できなかった。


「その方がいいと、私も思うわ。半年後に離婚したことを説明してまわるのは避けたいし」

「残念だが、もう公にしてしまったよ」


 ぱっと、メグが驚きに目を見開くのを、リカルドは胸のすく思いで見つめていた。


「ボリスに秘書を出来ない理由を話しておいた。彼はきっと、喜んでこのニュースを広めてくれるだろう。彼はかなり顔が広いし」

「リカルド。どうして。どうして、そうする必要があったの」


 決まっている。

 メグはもう自分のものなのだと、周囲に自慢したいからだ。

 同時に、他の男達に、彼女に近づくなと宣言したいからでもある。

 そしてなにより、メグ自身に、この思いを、メグを思うこの気持ちを、わかってもらいたかったから。


 心の中でそう答えながらも、リカルドは口を閉ざし、メグから目をそらした。


「せっかく、パオロ叔父様は納得してくださったのに。どう説明するつもり?」


 勿論、そんなことはまるで考えていなかった。


「これで、離婚の時にも騒がれてしまうわ」


 リカルドの思い描く未来には、離婚などない。

 もう絶対に、メグを手放すつもりなどないのだから。


「リカルド、答えて。どうして、ボリスに話してしまったの?」


 だが、メグにはそんな思いも考えも、まるでわかってもらえていない。

 自業自得とはいえ、リカルドは暗澹たる思いに自暴自棄になった。


「ボリスの申し出を、君が受け入れようとしていたからさ」

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