(7)
「……うまい」
パエリヤを口にして、リカルドは思わずという感じにつぶやいていた。
「どうもありがとう」
誉めてしまって居心地悪げにしていたリカルドだったが、メグがとても嬉しそうに微笑んでいるのを見て、構えるのをやめたようだった。
「プロの料理人が作ったと聞かされても、疑わないよ。どこかで、料理を習ったとか?」
「いいえ、特には。それに、味がいいのは、このお屋敷の食材が一流だからよ」
「いいや。それだけじゃない」
他の料理も一口づつ口に運び、そのたびにリカルドはメグの料理の腕を褒め称えた。
「一人暮らしが長かったからかしら。ずっと自炊していたの」
「君が料理好きとは知らなかった」
「今は大好き。趣味なの。でも、最初は必要に迫られてやっていたのよ」
「家庭料理の好きなボーイフレンドでもいたのかい?」
苦笑して、メグは小さく首を横に振った。
リカルドが、愛しているという告白を信じてくれていないのはわかっていたが、こうして当てこするように言われると少し胸が痛い。
だが、リカルドを非難することも、改めてずっと愛していたと主張することも、メグはもうしなかった。
信頼されていない相手に、どれだけ言葉だけを重ねて無意味だから。
「お金がなかったのよ」
「……冗談だろ」
突然、低く暗くなったリカルドの口調に、メグは驚いて顔を上げる。
「本当よ。私、あの後、家を出たから」
「家を、出た?」
「ええ」
これ以上、そのことを話し出すと、十年前のことを抜きには話せなくなってしまう。
昔のことは話題にしない約束だったし、メグも話したくない。
リカルドの視線を感じたが、食事に集中するふりをして、メグは次の話題を考えた。
「今度、私の庭を見に来ない? まだまだ貧弱だけど、半年後までにはそれなりに仕上げる予定なのよ」
「メグ。俺は、君が家を出た話を聞きたいんだが」
「どうして? 昔の話はしない約束でしょ?」
「俺の言った『昔の話』に、君が家を出たことは含まれていない」
リカルドの顔は真剣だ。
きっと、話を聞くまで諦めないだろう。
昔から、時に我侭だと思うぐらい、頑固な人なのだ。
メグはそっと吐息を漏らすと、カトラリーを置いて、ワイングラスを手に取った。
「家を出たのよ。十六で自立する事は、それほど珍しいことじゃないでしょ」
「なぜ、家を出たんだ」
「なぜ? なぜって」
メグは泣きそうな気分で、苦笑するしかなかった。
「父があんな人だなんて、あの時まで気づかなかったからよ。私を愛してくれていると思っていたのに、あの時、父にとって私はただの金づるだったわ」
「………」
「娘を愛しているのなら、あんな事を世間に公表してあなたを脅すなんて、考えられるはずがないもの。そのことで、あなたの仕事に影響がでるのと同時に、私は女として傷物みたいに思われるのは避けられないのに」
「………」
「利用されるのは嫌だったし、父の本性を知って、一緒に生活したいとは思えなくなったわ。それで、家を出たの。父とは、もう十年、一度も会っていないわ」
リカルドは怖いような顔で、黙り込んでいる。
父に脅された時の、不愉快な記憶を思い出しているせいだと、メグは申し訳なく思った。
「それで、どうしてたんだ?」
これでもう、この話題は終わりにしたかったし、答えたくもなくて、メグは曖昧に微笑んでみせる。
「メグ。十六じゃ、一人で部屋を借りることも出来ないんだ」
「……母に、助けを求めたのよ」
「お母さん? 亡くなったと、聞いていたが」
「ごめんなさい。それは嘘だったの。離婚していたのよ」
「どうしてそんな嘘を」
「母が嫌いだったの。昔はね。だから私は、父の味方をして母を責めていたわ。二人が離婚したときも、父との生活を望んだし。母は何度も私を説得しようとしてくれたんだけど……。母には父の本性が見えていたけど、私には凄くいい父親だったから、母の言葉に耳を傾けることが出来なかった。事情を話して、母に謝罪したわ。母はもう再婚していて、家庭もあったから、一緒に住むのは断ったの。当座の生活費と、アパートを借りるときの保証人だけお願いしたわ」
母は許してくれたが、メグは今も自分がどれほど母を傷つけてしまったかと、母を思うたびに自己嫌悪する。
「学校では、奨学金を貰ったわ。私、成績はよかったのよ。とにかく手に職をつけようと思って、弁護士を目指したんだけど、学費が続かなくて。とりあえず一度就職して、働きながら勉強するか、学費を少し貯めてから復学しようと思ったの。それで、ダニエルに秘書として採用してもらったわ」
ちらりと目を上げると、じっとこちらを見ているリカルドと目が合った。
リカルドは何も言わなかったが、彼の言いたいことをよくわかっているメグは、悲しげに微笑んだ。
「人生最大の幸運だったと思うわ。あなたの言うとおり、普通だったらとても採用なんてしてもらえないもの。ダニエルにはすごくよくしてもらったの。上司というより、今では本当の兄みたいな人よ。ダニエルに、私は弁護士にはむいていないって言われて、復学するのはやめにしたの」
「随分と、彼の言うことには従順なんだな」
「勿論、ダニエルに言われたのはきっかけにすぎないわ。私も色々考えて、秘書のほうが向いていると思うようになったの。だから、司法書士の資格を取ったわ」
たくさん作ったパエリヤが、すっかり冷めてしまっていた。
逆にぬるくなってしまったワインを捨てて、ボトルから冷えているワインをつぐ。
食事の手が止まってしまっているリカルドのお皿と自分の皿にサラダをとりわけ、メグはゆっくりとフォークを動かし始める。
メグにあわせて、サラダを食べ始めたリカルドは、予想していたよりもずっと冷静で穏やかだった。
父の話も、ダニエルの話も、きっとリカルドにとっては楽しい話ではないはずなのに。
「今度、ダニエルに連絡してもいいかしら」
だから、メグはずっと心にかかっていたことを、口にしてみた。
流石に、リカルドの手が止まり、メグを厳しい目で睨んでくる。
以前使っていた携帯電話は、結婚と同時に解約させられた。
それ以来、携帯電話を持っていないので、使えるのは屋敷に備え付けの外線電話だけだ。
その使用を禁じられてはいないが、監視されているのはわかっている。
許可なくダニエルに連絡などすれば、リカルドにどう思われるかなんて、想像するまでもない。
「心配してくれていると思うの。以前お屋敷に侵入したのが、あなたにばれたこと、ダニエルもきっとわかっていると思うわ。だから」
「……何度か、連絡がきていた」
「あなたの目の前で電話してもいいわ。他の電話機で私たちの会話を聞いてくれてもいい。だから、お願い」
リカルドはしばらく黙ってメグの顔を見ていたが、小さく息をついて、視線をそらした。
それは、『仕方がない』という、諦めと了承の意思表示だった。
「どうもありがとう」
「君達は、どう見ても、ただの上司と部下には見えない」
「でも、絶対に恋人同士ではないわ」
「ダニエルは他に恋人がいるのか?」
「彼のプライバシーを、元秘書の私が話すわけにはいかないでしょ」
それもそうだと、リカルドは肩をすくめ、パエリヤを食べ始める。
「ごめんなさい、さめてしまって。温めましょうか?」
「構わないよ。氷のように冷えているわけでもない」
と、リカルドは旺盛な食欲を見せ始める。
メグはそんなリカルドが嬉しくて、食事の手を止めたまま、じっと彼を見つめていた。
十年前、何度かリカルドに手料理を食べてもらおうと奮闘したが、いずれも失敗に終わった。
日頃、おいしいものを食べなれているリカルドに、こんなものを食べさせられないと、嘆き悲しんだものだ。
それが今、形だけでも彼の妻として、目の前に座り、手料理をおいしそうに食べてもらっている。
こんなちょっとした、でもとても大切な幸せを、これからの結婚期間でたくさん手に入れたいとメグは思う。
そんな幸せが、きっと十年前の辛いばかりの記憶を、少しは薄れさせてくれるかもしれないから。
「傷物扱いされたのかい?」
メグに視線を向けることもなく、不意に、ぼそりとリカルドがつぶやいた。
「え?」
「十年前に」
リカルドの言いたいことに気がついて、メグはさっと表情を強張らせた。
いつの間にか、メグを見つめていたリカルドが、そんなメグの様子を見逃すまいとじっと見つめている。
「そうなのか?」
「いいじゃない、そんなこと。昔のことだし」
「そうなんだな?」
「………」
「メグ」
「……皆、あなたと同じ事を言ったわ」
青ざめた顔で、メグはリカルドに小さく微笑んで見せた。
初めは何のことかわからず、リカルドは眉をひそめていたが、それに気がつくと、ぐっと口を引き結んだ。
「そう思われるのも仕方がないから。実際、父はあなたからお金を取ろうとしていたし。お金目当てに寝たんだと、娼婦だと言われても、仕方がないのよ」
「………」
「あなたを騙して抱いてもらった、罰なのよ」
泣いてしまいそうで、でもリカルドの前で泣いてしまうわけにはいかないと思えて、メグは慌てて立ち上がる。
「デザートを取ってくるわ」
昔の話など、やはりするものではない。
いい思い出など、ほとんどないのだから。
キッチンに向かってゆっくりと歩きながら、メグは涙を指先ではじき、小さく鼻をすすった。
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