第三章 交錯

(1)



 意識が浮上して、リカルドはゆっくりと目を覚ました。

 ぴくりと、指が動くと、暖かい手にぎゅっと握り締められた。


「リカルド?」


 心配そうなメグの顔が、視界一杯に広がった。


「大丈夫? 私がわかる?」


 何を当たり前なことを聞くのだろうと、リカルドはおかしく思った。


「メグ」


 自分の声がひどくかすれていることに、驚いた。


「よかった。何があったか覚えてる?」

「……落ちたんだ。足場から」

「そうよ。ここは病院なの。ちょっと待ってて。先生を呼んでくるから」


 手を握ってくれているメグの手から力が抜けるのを感じて、リカルドは逆にしっかりとメグの手を握り締めた。


「大丈夫よ。ひどい怪我はなかったの。落ち方と運がよかったって。脳震盪をおこしていたから、目を覚ましたら知らせて欲しいと先生に言われているの」


 それを不安のためだと理解したのだろう、メグが現状を簡潔に説明してくれた。

 ただ単にメグの手を離したくなかっただけだと、想像することもないのだろう。


「三階相当の高さから落ちたのよ? それなのに骨折もなしだなんて、奇跡ですって。盛り土の上に落ちて、土の中にかなり埋まったそうだけど」


 メグの手がそっと髪をなでていくのに、リカルドは目を閉じてその感触にうっとりとなる。


「しばらく打ち身で痛い思いをするって。いい機会だから、休暇をとりましょうね」

「そうだな」


 医者を呼びに行きたそうなメグの手を、リカルドは渋々はなした。


 個室なのだろう、広い病室を出て行くメグの後姿を見送りながら、リカルドはため息を漏らす。

 足場から落下するなんて、とんでもないミスをしたものだ。

 仕事中にぼおっと考え事などしていたせいだ。

 メグの言うとおり、しばらく休暇を取るほうがいいのだろう。


 それに、これはいい機会なのかもしれない。

 メグはきっと看病すると言ってくれるだろうから、ずっと一緒にいることが出来る。

 二人で、のんびりと休暇を楽しむことが出来るかもしれない。


 時間をかけて、模索していきたい。

 本当のことは話さず、それでもメグを苦しみから解放し、彼女を幸せにする方法を。

 十年前に彼女を不幸にしてしまった分も、幸せにしてあげたい。出来れば、彼女の夫として。

 そのためにはどうしたらいいのか、その方法を見つけ出したい。なんとしても。


 


 


 一晩だけ病院ですごし、リカルドはすぐ屋敷に戻った。

 しかし、病院のベッドが寝室のベッドに変化しただけで、リカルドは仕事をすることは勿論、最初の二日は立ち歩くことも禁じられた。


「先生もおっしゃっていたでしょ。疲労がたまっていて、内臓の動きが悪いって。とにかく、ゆっくり休んでください」


 事故以来、メグはすっかりリカルドの個人秘書化して、てきぱきと働いていた。

 まず、どうしても必要だという緊急の書類を持ってきた秘書から、その書類を奪い取った。

 おろおろする秘書からリカルドの詳細な予定を聞きだすと、予定キャンセルのために必要な連絡の指示を出し、しばらく休暇をとるために仕事の調整をするように命令した。


「はっきり言わせてもらうけれど。あなたの秘書は、ちょっと能力に欠けるんじゃないかしら」

「そうかい?」

「ちゃんとボスの健康管理も出来ないようでは、失格よ。オーナーが事故にあったホテルなんて悪評がたったらどうするの? イメージが大切なんだから」

「休暇があけたら、新しい秘書をさがすよ」

「ぜひ、そうして」


 積極的に世話を焼いてくれるメグの態度が嬉しくて、リカルドはにやにやと緩みそうになる頬を引き締めておくのに苦労した。

 なにしろ、今までのメグは万事において控えめで、彼女の方から何か言い出してきた事といえば、庭の事と寝室を別にしたいということだけだ。


 リカルドの静養を理由に、メグはさっさと寝室を別にしてしまっていた。

 自分の荷物をまとめて、夫婦の寝室から出て行ってしまったのだ。

 おかげでリカルドはよく眠れるようになったが、心置きなくメグの寝顔を見られる唯一の機会を失ってしまった。


 だがとりあえず、リカルドはそれについて文句を言うのはやめておいた。

 今までメグの顔をじっくりと見れるのは、夜ベッドに入ってからだけだった。

 だが今は、一日中、いつでもメグを見ることが出来るし、会話も出来るのだから。


 退院して二日はベッドの上で過ごし、三日目からどうしてもやらなければならない仕事を片付ける事になった。

 モニターを見るのは目が疲れると主張したメグが、口述筆記をすると言って引かず、二人は一緒に仕事を始めた。


「事故からずっと、君はすっかり俺の秘書になっているね」

「それが気に入らないなら、ごめんなさい。でも、体調が戻るまでは、我慢してちょうだい」

「気に入らないということはない」

「それならいいのだけど」


 リカルドと会話しつつも、メグの指は忙しくキーボードの上を動いている。

 ぴんと背筋を伸ばし、まっすぐにモニターを見つめている青い瞳は、とても知的で綺麗だった。


「あなたが事故にあったと聞いたとき、心底ぞっとしたわ」


 モニターから視線は動かさず、メグがそうつぶやいた。


「体調が悪いことも、休暇を取るべきことも、私はよくわかっていたのに。なにも出来なかった」

「休暇をとらなかったのは、俺の責任だよ」

「それでも、私は何か出来たはずだわ。一応、妻なんだし。秘書を呼びつけて文句を言うとか、休暇をとってくれなければ離婚すると脅すとか」


 思わず笑ってしまったリカルドを、メグはちらりと目を上げて見つめる。


「後悔するのはもう嫌だから、私に出来る限りのことはするつもり。遠慮しないから。どうしても私といるのが嫌なら、今すぐ海外にでも旅行するといいわ」

「そんなつもりはないよ」

「……いいの?」


 今までの開き直ったような強気の口調から、どこか不安そうな探るような口調に変化したのを聞き取って、リカルドは顔を上げる。

 モニターの向こうから、メグが不安そうな目で、リカルドを見つめていた。


「だって私、こうしてあなたの仕事にも関わってしまっているわ。結婚するとき、私には重要な書類を見せないって言っていたでしょう?」


 確かに、そんなことを言った覚えがある。

 重要な書類を含め金目のものは今後一切、屋敷の中に気軽において置けないと、メグにあてこすったのだ。


「休暇の間、俺の秘書をやってもらえると助かるんだが」

「……本気で?」

「せっかくの休みに、会社の秘書と連絡を取って仕事をするのも鬱陶しい。それに、君は本当に優秀な秘書のようだし」


 メグは頬を薔薇色に染めた。

 そして、はにかむ様な笑顔をうかべる。

 そんなメグはとてつもなく魅力的で、リカルドはその笑顔から目が離せなくなった。


「どうもありがとう。期待にそえるよう、頑張るわ」

「そんなに頑張らなくていいよ。君も休暇なんだから」

「これまで十分に休暇を取っていたわ。それに私、凄く嬉しいの」


 気を悪くしないでねと前置き、メグは頬を薔薇色に染めたまま、うきうきした口調で話し出した。


「思ったことがあったの。私達、十年前ではなく、今初めて出会っていたらよかったのにって」

「………」

「私が秘書としてあなたに雇われて、一緒に仕事をして。そんな風に出会えればよかったのに。十年前、私はあまりにも幼すぎて、分不相応な人に恋をして、手に入れようと馬鹿なことを考えたわ。でも今なら、私にも多少なりとも分別があるし。一緒に仕事が出来るし、話題もそれなりに豊富だし、お料理も出来るし。あなたともっといい関係を築けたのに」


 リカルドは、なんともコメントが出来なかった。

 今のメグの話で、浮き立ってた気分が急速に沈んでいく。


 メグが言っているのは、あくまで『部下と上司』もしくは『友人』としての、いい関係だ。

 十年前、リカルドに恋をしたのは馬鹿だったと、はっきり言っているのだから。


 だが、二人の関係を新しく始めるという考えは、素晴らしいと思えた。

 十年前の続きではない。そして、契約結婚をした夫婦という関係でもない。

 全く新しい二人の関係を築いていけばいい。


 まずは、メグの望むような友人のような関係でもいい。

 友人として信頼関係を築ければ、それから更に恋人に、そして本当の夫婦に、発展していけるかもしれないではないか。


「分不相応は言いすぎなんじゃないかな。ボスと秘書が恋に落ちて結婚するなんて、よくある話だろ」


 世間話のような軽い口調で、メグに探りを入れてみる。

 だがメグは、くすくすと笑っただけだった。


「そんなことないわよ。ロマンス小説では、ありがちな設定かもしれないけど」

「現実にだって、あるさ」

「私は聞いたことないわ。したいとも思わないし」


 プリンターが作成した書類を印刷し始め、メグはそれを取りに席を立った。

 そのすらりとした後姿を見つめながら、リカルドはそっとため息をつく。


 十年前、メグは自分のどこに魅かれたのだろう。

 それをきちんと聞いておくべきだったと、考えずにはいられなかった。

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