(6)



 今まで、何度かメグとキスをした。

 キスをするといつも、メグは従順に腕の中に抱かれてくれた。キスを返してくれた。

 それがとても嬉しくて、自分もキスにのめりこんだ。

 だがすぐに、そんな自分が許せなく思い、メグに八つ当たりした。

 キスの後、余韻にひたっているメグに対し、ひどい言葉を投げつけたのだ。


 今、メグはそれを思い出したに違いない。

 そして、また言われるのかと、一瞬、身構えたのだ。


「メグ、俺は」

「OKするわ。OKする」


 メグは、リカルドの言葉をさえぎるように、早口でそう言った。


「明日も、あなたと一緒に出かけることにするわ。そのかわり、明日はあなたの行きたいところに、私が付き合うから。それでいいでしょ?」


 笑顔を作っているが、メグが喜んでそうしたいと思っていないことは明白だった。

 リカルドはうめきたいのを我慢する。


 自分がメグをどれほど傷つけてきたのか、改めて自覚させられた。

 それなのにメグは、今までのひどい態度をなじることもなく、こうして旅行にまで同行してくれている。

 過去のことは過去として今は新しい関係を始めたいという、本当はリカルドにとって都合のいい身勝手な言葉に喜んで同意し、涙まで流してくれた。


 リカルドは強い罪悪感に、目を閉ざす。

 真実を話し、メグをこんな契約結婚から解放してあげるべきなのだ。

 そうしなければ、メグは十年も抱えてきた罪悪感から、本当の意味で解放されることはきっとない。


 わかっているのに、リカルドはそれをすることが出来なかった。

 最低な男だと自分でも思うが、それでも出来なかった。


 どうしても、何があっても、メグを失いたくないから。

 彼女を失う苦しみを知っているからこそ、もう二度と失うまいと強く強く思うのだ。


「ありがとう、メグ」


 たくさんの意味を込めて、リカルドはそう囁いた。


「お礼は、明日の夜まで待ったほうがいいと思うわ。本当に私はテニスが下手だし、楽しい遊び相手にはならないと思うもの。きっと後悔するわよ、リカルド」


 おやすみなさいとつぶやいて、メグは二つある寝室の一方に入っていく。

 扉が閉ざされ、鍵が下りる軽い音が聞こえてきた。


 ……自分勝手でも最低でもいい。

 それよりも、メグを十年前の分も幸せにすればいい。

 そう自分に言い聞かせ、膨れ上がってくる罪悪感を押さえ込む。


 しかし、リカルドを拒むようにしっかりと閉ざされた扉を前に、今は幸せにするもない。

 傷つき怯えているメグに対して、強引に迫る事など出来ない。

 それよりもまず、メグにとって自分が信頼できる相手になることが重要だ。

 どんな時でもメグを傷つけるのではなく守る存在だということを、わかってもらわなければ。

 それまでは、また今のようなキスをして、メグに自分の旧悪を思い出させてしまわないようにしなければ、努力が水の泡だ。


(それまで、理性が続くかな)


 メグと長時間一緒にいて、親密に過ごして。

 最高に楽しいだろうが、最悪な夜が続くのだろうと、リカルドは肩を落とした。


 


 


 それから、休暇旅行は一度滞在地を変えて、約一週間続いた。

 旅行中、リカルドは何もかもメグ優先にし、彼女のためだけに予定を立てて行動した。

 常にメグを見守り、彼女のちょっとした仕草や、表情の変化も見逃すまいとした。


 十年前、メグとのデートといえば、スキューバーやテニスといったようなスポーツだったのだが、今のメグは観光や美術館巡りの方が好きだということも、すぐにわかった。

 肉よりもシーフード、パンやライスよりもパスタ、コーヒーよりも紅茶が好きだということも、毎朝きちんと新聞を読まなければ落ち着かないことも、あっという間だった。


 メグに触れるときは、細心の注意を払った。

 手を握り、肩を抱き、頬や唇に触れるだけのキスをする。

 唐突にならないよう、ごく自然に触れるよう、メグのどんな小さな拒否も見逃さないように注意した。


 幸い、メグは恥らうことはあっても、嫌がる素振りをすることはなかった。

 嫌がるどころか、嬉しそうにしてくれる時もあって、リカルドは自分を抑えるのに苦労するほどだった。


 


「とうとう、休暇も終わりだね」


 ホテルで夕食を済ませ、エレベータへと向かいながら、リカルドはメグの手を握る。


「明日の午後には、空の上だ」

「そうね。いい休暇だった?」

「勿論だよ」


 メグに聞かれ、リカルドは即答する。

 休暇中、メグには何度となくこの類の質問をされた。

 どうやら、自分と一緒で楽しいのか、本気で疑っているようだ。

 結婚してからずっと、メグを避けるだけ避けていたのだから、そう思われてしまうのも仕方がないのだろう。

 だから、リカルドはいつも必ず、力いっぱい否定してみせることにしている。


「君は? 楽しめたかい?」

「ええ、とっても。ありがとう、リカルド」


 そう言って微笑んだメグは、とっても幸せそうで、とっても綺麗で、リカルドはにこにこと頷き返す。

 つないだ手を引き寄せると、メグはごく自然にリカルドの腕に腕をからませてくれた。


(いい感じじゃないか!)


 心の中で、ぐぐっと拳を握る。

 二人で過ごす時間が増えれば増えるほど、二人の間の距離は縮まっていくように思えた。

 今こうして何の躊躇もなく腕を組んでくれるメグは、怯えているどころか、全面的にこちらを信じてくれているように見える。


「明後日、新しいホテルのオープン記念パーティーがあるんだ」

「ええ、覚えているわ。明後日からお仕事も再開するの?」

「多少ね。しばらくは、のんびりするつもりだ」


 メグが側にいてくれるというのに、せっせと仕事に出かける気にはなれない。

 本当なら、オープン記念パーティーも欠席して、このまま休暇旅行を続けたいぐらいだ。


「君も一緒に来てくれるかい?」


 驚きを隠せない表情で、メグが顔を上げる。

 もしかしたら断られるかもしれないと、リカルドはメグの肩に腕を回して、彼女を強く引き寄せる。


「仕事の席だから、とても楽しいよと言えないのが残念だが、綺麗なホテルだし、君にもぜひ見て欲しいんだ」


 否定も肯定もメグはしないが、青い瞳が不安げにゆらゆらと揺れていた。

 この旅行中に、メグをきちんとした社交の場に連れて行ったのは、初日のオペラだけだ。

 メグはきっと、二人の仲を世間に知られたくないから、出かけないのだと考えているだろうし、実際、結婚してからずっと、リカルドはそう思ってきたのだから、言い訳は出来ない。

 本当はもっと色々と連れて行きたかったのだが、オペラの時にメグが緊張してナーバスになっているのがわかったから、仕方なくやめておいたのだ。


 それに、メグ自身も結婚を知られたくないと考えているはず。

 オペラの時にだけ結婚指輪を外していたのは、きっとそのせいだ。

 メグがそう思うのも当然だろう。なにしろ、新婚の夫といえば、事あるごとに妻をなじるひどい男だったのだから。


 だが今なら、メグも考えを変えてくれているかもしれない。

 オペラの時より楽しんでくれるだろうし、もしかしたら喜んでくれるかもしれない。

 そして、大勢の前でメグを妻として扱い、堂々と結婚を公表すれば、メグの信頼を確実に得ることが出来るのではないだろうか。


「私と一緒でいいの?」


 不安そうに小さな声で聞くメグが、たまらなく愛しく思えて、リカルドはぎゅっと抱きしめる。


「勿論だよ。君と一緒がいいんだ」

「ありがとう。嬉しいわ」


 ここがエレベーターの中でなければ、リカルドはメグにキスをしていただろう。

 エレベーターの中は二人きりだが、もうすぐ宿泊している階に着く。

 部屋を目前に、あまりメグに触れるのはよくないと、リカルドは必死に自制した。


 日に日に、メグに触れたいという欲望は募っていく。

 予想していたことだし、覚悟もしていたのだが、正直かなり辛い。

 夜、ホテルの部屋に二人きりになると、普通に会話することさえ難しくなってきていて、出来るだけメグと距離をおくようにしているぐらいだ。


「それじゃあ、また明日」


 部屋に入ると、リカルドはおやすみの挨拶をして、すぐに寝室へと入った。

 扉を閉ざすと、思わず深いため息がもれる。


 もしかしたら、メグはもう、キスをしても抱こうとしても、拒否してこないかもしれない。

 触れるだけのキスに物足りないような顔を見せたり、ふとした表情や仕草に、そう感じることがあった。

 だが、メグにキスをしようとするたび、あの時の怯えたメグの表情を思い出しては、じっくり時間をかけようと考えなおす。

 我ながら、かなり辛抱強く頑張っていると思っているのだが、そろそろ限界も感じていた。


 明後日のオープン記念パーティー。

 その夜は、そのままそのホテルに泊まる予定だ。

 泊まる部屋は、休暇旅行中のように寝室が二つのスイートではなく、寝室が一つだけのスイートを手配している。


 明後日のパーティーが勝負だと、それまではメグに信用してもらえる努力を怠るまいと、このままメグの寝室に行ってしまいそうな自分に、しっかりと言い聞かせた。

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