(7)



 枕元の内線電話が鳴る音に、メグは目を覚ました。

 最初、目覚ましが鳴っているのかと思って、枕元をさぐり、目覚まし時計をつかむ。

 その時計が、起きる予定の時刻をとっくに過ぎた時間を指し示しているのに気がつき、ぎょっとして飛び起きた。

 ようやく、電話が鳴っていることに気がついて、受話器を取り上げる。


「は、はい」

「おはよう、メグ。寝坊した?」


 電話から聞こえてきたのは、リカルドの声だった。


「ごめんなさい。目覚ましもセットしておいたんだけど」

「昨日は移動ばかりだったからね。疲れているんだよ」


 疲れていて、少し時差のある外国から帰ったばかりなので、いつもは使わない目覚ましをセットして寝たのだが。

 その目覚ましのベルを切って、そのまままた眠ってしまったらしい。


「まだ時間はあるよ。ゆっくり仕度して降りておいで」

「ありがとう。急ぐわね」


 受話器を戻し、メグはため息をつきながら、両手で顔をごしごしこする。

 気合を入れてベッドからおりると、バスルームに駆け込んだ。


 リカルドと屋敷に戻ったのは、昨夜遅く。

 冷たい水で顔を洗うと、タオルで少し乱暴にこする。

 顔を上げると、鏡の中には、疲れた表情の自分が冴えない姿で立っていた。


「よぉっし」


 ぴたぴたと頬をたたき、メグは気合を入れる。

 リカルドは、体調もかなりいいようだし、今日から一部仕事を再開させると話していた。


 それに、今日は、リカルドが手がけていた新しいホテルのオープン記念パーティーがある。

 リカルド一人で行くものと思っていたのに、同行してくれるように言われてしまったのだ。


 二人で出席するのは、正直、あまり嬉しくはない。

 周囲は、絶対に二人がどういう関係か知りたがるだろうし、注目されてしまう。

 だが、リカルドがそういった場に連れて行ってくれるのも初めてで、それが嬉しくて、メグは断ることなど出来なかったのだ。


「あ、そうだ」


 仕度を整え、部屋を出ようとしたメグは、ドレッサーの前に引き返した。

 薬指にはまっている結婚指輪を抜くと、宝石箱の中に収める。

 今夜はリカルドと一緒に人前に出るのだから、指輪はNGだ。


「これでよしっと」


 鏡で自分の姿を再度確認し、メグは部屋を飛び出していった。


 


 午前中いっぱいドライブして、二人はようやく目的のホテルに到着した。

 そのホテルは、小さな湖のほとりに立つ、優雅な雰囲気の建物で、こじんまりとしていた。

 場所も奥まった所で、忙しい日々を送っている人々に、静かな休暇を約束してくれそうだった。

 そして実際に、メグがそう言うと、リカルドはちょっと驚いたように目を見張った。


「ここは会員制なんだ」

「まるで隠れ家みたいね」

「そう。それがこのホテルのコンセプトだ」

「忙しい人には最高の場所だわ」


 人気のないロビーは広く開放的で、テラスからは湖がよく見えた。

 湖上を渡ってくる気持ちのいい風に、メグはうっとりと目を閉じる。


「気に入った?」


 肩を抱かれ、リカルドの胸の中に引き寄せられる。

 旅行中、リカルドは当たり前のような顔で、メグに触れてきた。

 すっかり、メグもそれに慣らされてしまっていた。


「ええ、とっても」


 囁いて、リカルドの胸に寄りかかる。

 少しでもリカルドが嫌な素振りをすれば、すぐにやめるつもりで。

 しかし、旅行中、リカルドが嫌がることはなく、今も逆にメグを抱く腕に力をこめて、しっかりと抱いてくれた。


「綺麗な所ね。湖にボートで出てみてもいいかしら」

「勿論だよ」


 リカルドはとてもにこやかだった。

 今日も自分と一緒にいることをそれなりに楽しんでくれているように見えて、メグはほっとした。


 


 メグのために帽子まで買ってくれて、リカルドは湖上にボードを漕ぎ出した。

 ジーンズにポロシャツという格好で、額に汗してボードを漕いでいるリカルドを見ていると、いつもよりずっと若々しく、まるで十年前に戻ったような錯覚を起こした。


「よく……」


 よくボードにも乗ったわねと言おうとして、メグは口を閉ざす。

 最近、十年前の話題も普通に話しているが、出来るだけ自分の方から話すのは控えるようにしていた。


「君はよく帽子を風に飛ばされて、駄目にした」


 同じことを思い出していたのだろう。

 小さく笑いながら、リカルドがメグの言わなかった続きを口にした。


 メグとは違い、リカルドは当たり前のように昔話をする。

 二人が別れた前後のことについては、決して口にはしないが。


「だが、それをまるで気にしていなかった」

「だって、風に髪をくしゃくしゃにされる感触が好きだったんですもの」

「そのくせ、駄目になった帽子のかわりを、いつも俺に買わせた」


 と、リカルドは声をあげて笑っている。


「甘えていたのよ。それに、レディなら帽子が必要だと主張するものだと思っていたの」

「へえ? それにしては、今日はねだらなかったね」

「必ずしも必要とするわけではないと知ったからだわ」


 メグもくすくす笑いながら、今買ってもらったばかりの帽子をとった。

 だが、昔のように、風になびく長い髪はない。


「髪はもう伸ばさないの?」


 リカルドに聞かれて、メグは苦笑する。

 また、同じ事を考えていたのが、嬉しくもおかしかった。


「どちらでも。伸ばしたほうがいいと思う?」

「思うよ。今の髪型も素敵だけれど、長い髪はとてもよく似合っていたから」

「ありがとう」


 ボートをおりると、ホテルの従業員がリカルドを待っていた。

 非常に恐縮している態度だったが、どうやら急ぎの用事らしい。

 今日から仕事を再開させたわけだし、きっと仕事の呼び出しだろう。


「メグ、すまない。急な仕事なんだ。少し時間をもらってもいいかな」


 申し訳なさそうなリカルドに、メグはにっこりと頷いてみせる。


「ええ。少しって、すぐに終わりそうなの?」

「わからない。遅くなるかもしれない」

「それなら、私は先に帰りましょうか?」


 どこにでも仕事が追ってくるのは、リカルドのように責任ある立場の人なら仕方のないことだ。

 実際、メグも休暇先のダニエルを呼び出したことが何度もある。

 そして、こんな急な用事ほど、時間がかかって厄介だったりするのだ。


「いや。出来たら待っていてほしい。パーティーが始まる時間までには帰るから」

「それはいいけど。もし、私に気を使っているのなら……」


 ふと、リカルドが苦笑をもらした。


「随分と聞き分けがいいんだね」


 リカルドが何を言いたいのかわからなくてメグは小首をかしげたが、すぐに十年前の事を揶揄していると気が付いて、苦笑した。

 昔は、リカルドがデートよりも仕事を優先させるたびに不安になったものだ。

 仕事をしているリカルドは、メグには全く理解できないビジネス界の人で、ますます彼を遠く感じたから。


 だが今は、リカルドが生きているビジネス界は、メグにとっても馴染みのある世界だ。

 リカルドがどういった用件で呼び出されているのかまではわからなくても、休日にまで電話が入るということがどれほどの緊急で込み入った用件なのか、想像することが出来る。


「十年前の私は、あなたの秘書にもの凄く嫌われていたでしょうね」


 リカルドは苦笑を深めながら、メグをそっと抱き寄せた。


「俺の秘書に気を使わなくてもいいさ。待っていてくれるだろう?」

「私に気を使う必要もないのよ?」

「俺がそうしたいんだ」


 間近に迫ったリカルドに、じっと見つめられる。

 それだけで、メグは頬を熱いほどに紅潮させてしまう。


「いいだろう?」

「いいわ」


 リカルドは頬に触れるだけのキスをすると、そのまま仕事に出かけていった。

 その後姿を見送りながら、メグは久しぶりに一人になったことに気がついた。


 離れてしまって一人になったことを、寂しく感じる。

 だがそれと同時に、心のどこかでほっとしていた。


 休暇旅行中、リカルドは終始優しく、気を使ってくれた。

 結婚してからの態度を深く深く反省しているようで、その償いもあって、そうしてくれているようだった。

 本来とても優しい人だから、喜んで自分を傷つけていたわけではないことは、わかっていた。

 だから、反省なんてしてほしくないというのに、それをさせてしまっていることが、メグには辛かった。


 それに、リカルドのための休暇なのに、これでは休暇にならないのではないかと何度となく思った。

 昼間はいつもメグのためにスケジュールを組み、終始にこやかに気を使い、優しく甘い夫を演じてくれた。

 メグはリカルドに、ちゃんと休んでくれるように、自分のためにスケジュールを組むように訴えたのだが、リカルドは気を使っているわけではない、疲れていないと言うばかりで、少しも譲ろうとしてくれなかった。


 だが、夜はどんどん無口になり、ホテルに戻ると会話もなく、早々に自分の寝室に引きこもるようになったのは、疲れていた証拠だと思う。

 これでは何のための休暇か、誰のための休暇か、一体自分は何をしているのか、楽しい休暇を過ごせば過ごすほど深く思い悩んだのだ。


 だが休暇も、もう終わり。

 リカルドは、いつもの生活に戻っていく。

 その生活の中に、自分のいるべき場所はないと、メグは考えていた。

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