第二章 過去

(1)



 ふと寒さを感じて、メグは目を覚ました。

 視界一杯に広がっていたのは、リカルドの広い背中。

 メグを起こさないように、リカルドが慎重に動いているのを見て取って、メグはそのまま目を閉ざした。


 リカルドと同じベッドで眠るようになって、そろそろ半月がたとうとしている。

 だが、二人は同じベッドで一緒に寝るだけで、それ以上の行為はなにもなかった。

 ほとんどの夜、メグは先に一人でベッドに入り、リカルドが寝室に上がってくる前に眠ってしまう。

 そして、朝もリカルドの方が先に起きているので、メグはリカルドが隣にいて寝苦しいという思いをしたことがなかった。


 ただ、朝は時々今日のように、まだリカルドが部屋にいる間に目が覚めてしまう事がある。

 そういう時は、寝たふりをしてリカルドが出ていくのを待った。


 出社のために、スーツに着替えたリカルドが寝室を出ていくと、メグはほっと息をついて目を開ける。

 別に寝たふりをする必要はないのかもしれないし、ベッドでは無視するという取り決めをしたわけでもない。

 だが、ベッドに寝そべったまま、着替えをしているリカルドにおはようを言うのは、あまりに親密な行為のように思えて、メグにはどうしても出来なかった。


(リカルドは気にしないと思うけど……)


 リカルドはメグが隣に眠っていても、何も気にせず眠っているのだ。

 健康な男が女に対して持つ欲望さえ感じることがないらしい。

 それを喜ぶべきなのだろうが、それほど憎まれ嫌われているのだと思うと、メグは切なくほろ苦く思えて仕方がなかった。


 


 奇妙な結婚生活も、次第に生活リズムが出来つつあった。


 リカルドはいつも夜遅くまで仕事をしている。

 朝早く出て、帰ってくるのは深夜近く。

 時々、夕方に帰ってきてメグと夕食を一緒にすることもあるが、ちなみに夕食の席では話らしい話もしない、夕食後はすぐに書斎に閉じこもる。


 そして、メグはというと、一日のほとんどを広い庭ですごしていた。

 メグは体を動かすことが好きだし、忙しかったダニエルの秘書を辞めてすぐ、何もすることがない生活に耐えられなくなった。

 そこで、広い庭の一部を借りて、ガーデニングを始めたのだ。


 リカルドは最初、変な顔をしたが、特に文句もなく許可してくれた。

 専属の庭師も、一部だけならと許可をくれたので、メグはせっせと体を動かすことにした。

 働いている間は、リカルドへの思いや、あまりにも冷め切っている二人の生活について悩むこともないし、たっぷり働いて疲れれば夜もすぐに寝付ける。


 それに、自分の家を持ち小さな自分の庭をつくることは、メグの長年の夢の一つでもあった。

 貯金をすべて使ってしまったので、その夢が実現することはないと諦めていたので、単純にそれを喜ぼうと思った。


 熱心なメグに庭師は協力的になり、今は色々とアドバイスをしてくれる。

 使用人達も、気さくに庭師と話しているメグを見て、なにかしら女主人の相手をしてくれるようになった。

 シュタイン伯爵家で長く秘書をしていたメグである。使用人達の考え方や立場をよく理解できるし、付き合うことには慣れていた。

 すぐに使用人達もメグを受け入れてくれて、それほど強い孤独を感じることはなくなった。


 そんなメグの所に、リカルドから電話が入ったのは、天気のいい午後のことだった。




「夕食を?」


 自作の庭の真ん中で、メグは驚きの声をあげた。


「そうだ。突然ですまないが、どうしても断れない相手なんだ」


 携帯電話を通して聞こえてくるリカルドの声は、はっきりわかるほど不機嫌だった。

 おそらく、メグと夕食を同席しなければならないのが嫌なのだろう。


「勿論、いいわよ」


 だが、メグは嬉しかった。

 リカルドとまともに会うのは、ものすごく久しぶりだ。


「ご一緒するお客様はどんな方なのかしら? 仕事関係の方?」

「親戚なんだ」


 さすがのメグも、一瞬、息をつめた。


「私達の結婚の事は、まだ親戚には話していないって」

「ばれたらしい。それで、君の同席をどうしてもと言い張っている」

「そう……」


 電話の向こうで、リカルドがため息をつくのが聞こえてきた。


「七時に迎えに行く。支度して待っていてくれ」

「わかったわ」


 電話を切ると、メグは早速、部屋に帰ることにした。

 リカルドは、とうとう自分を妻だと紹介しなければならない時がやってきて、とても憂鬱なのだろう。

 そんな彼のためにも、親戚だというお客様に気に入られ、絶対にリカルドに恥をかかせないようにしなければならない。


 幸い、客のもてなしは得意分野だ。

 きっと成功させてみせると、メグは気合いを入れた。


「大変! 最近、日焼け止めを塗ってなかったわ!」


 まずは、自分をぴかぴかに磨いて、リカルドの隣に立っても見劣りしないようにするのが重要だ。

 ここ最近、化粧さえしていないのだから、それが最も難題になりそうだと、メグは鼻の上に皺を寄せた。


 


 夜七時。

 メグはドレッサーの前に座り、緊張した顔で鏡の中の自分を見つめていた。

 綺麗に出来ていると思いたいが、なにしろこの十年、自分を美しく見せることにはほとんど興味がなかったせいで、化粧の腕には自信がない。


「……大丈夫よね」


 少なくとも、髪は綺麗だ。

 日焼けしたせいで、ますます金色が強くなり、部屋の明かりにも輝いているように見える。


 肌も日焼けはしたが、それなりに肌理は細かく、健康的だと思う。

 ドレスは、リカルドが買いそろえてくれた中から慎重に選んで、シックなデザインのブルーにした。

 お客様が年輩の方なら、あまり派手なドレスは嫌われてしまう。


 コツコツというノックの音に、メグはぴんと背筋を伸ばした。


「どうぞ」


 ぎゅっと目を閉じて、メグは声をかけた。

 そして、ドアが開く音がしてから、目を開ける。

 鏡の中には、ディナージャケット姿のリカルドが写っていた。


「支度はもう出来ている?」


 部屋の中には入ってこようとはせず、リカルドは鏡越しにそう聞いてきた。


「ええ。すぐに出られるわ」

「悪かったな。急に」

「いいのよ。外出なんて久しぶりで、ちょっと嬉しいし。親戚の方って、どんな方なの?」

「すまない。時間がないんだ」


 リカルドは顔をしかめ、腕時計にちらりと視線を向ける。

 時間が問題なのではなく、ただリカルドは会話をしたくないだけなのだと、メグにはわかった。


 浮き立った気持ちが急速にしぼんでいったが、メグは落ち込むまいと自分で自分を鼓舞しながら、バッグを手にとって立ち上がった。

 そして、リカルドの方へと向き直る時、ちらりと鏡が目に入った。

 鏡の中に、うっとりと見とれているような賞賛の目で、自分を見ているリカルドの姿が、見えたような気がした。


 驚いて、リカルドへと視線を向ける。

 だが、リカルドはすでにメグに背を向けて、部屋を出ていこうとしていた。

 見つめているどころか、エスコートさえしてくれるつもりはないらしい。


(……馬鹿ね)


 気の迷いか、自分の願望の現れだろう。

 リカルドがそんな風に自分を見ることなどあり得ない。


 小さく吐息をつくと、メグは足早にリカルドの後を追った。


 


 リカルドに紹介された親戚は、パオロと名乗る壮年の男性だった。

 叔父にあたる人だそうで、リカルドと同じ艶やかな黒髪をして、背が高かった。

 にこやかだが、どこか探るような油断のない目で見られていることを、メグはすぐに感じ取った。


「結婚したと聞いたときは、本当に驚いたよ」


 食前酒を飲みながら、パオロとリカルドは、相手を探るような会話を始めた。

 メグは口を挟むことなく、リカルドの隣で静かにその会話を聞くことにした。


「あなたに知られたなら、もう隠してはおけないんでしょうね」

「当たり前だろう。お披露目のパーティーはいつかと、みんな言っている」

「……近い内にやりますよ」

「彼女を披露するのが、嫌みたいな口振りだな」


 パオロの鋭い指摘に、リカルドは口を閉ざし、横を向いてしまった。

 図星を指されて、咄嗟にいい反論が出来ないのだろう。

 メグは少し迷ったが、思い切って、口を開くことにした。


「リカルドは、この時期に結婚披露をするのが嫌なんです」


 リカルドの鋭い視線を感じたが、メグはパオロに微笑みかけることに集中した。

 パオロは、リカルドの険悪な視線には気づかず、興味深そうにメグを見つめている。


「それはなぜかと、聞いてもいいかな、メグ?」

「彼が気にしているのは、叔母様の遺言なんです」

「……君は知っていたのか」

「彼はちゃんと話してくれました。その上で、このタイミングで結婚すれば、偽装結婚だと思われる可能性もあるけれど、それでもいいかと聞いてくれました」

「それで、君はOKしたのか」

「ええ。だって、疑われるのは半年だけでしょう? 私達の結婚が半年以上続けば、誰もそんな事を思わなくなります」


 メグは、リカルドににっこりと微笑みかけた。

 そして、テーブルの上のリカルドの手に、そっと自分の手を重ね合わせる。


 嫌悪感にリカルドが咄嗟に手を払いのけるのではないかと、メグは心配したが、そんな事にはならなかった。

 演技しなければならないことを思い出したのか、リカルドは逆にメグの手をしっかりと握りしめてくれた。


「半年間、黙っていられるならそうしようと思っていたんですよ」


 メグの瞳を見つめながら、リカルドは口を開く。

 その熱い視線に、メグは自然と頬が紅潮するのを感じていた。


「そうすれば、心ない噂で彼女を傷つけることもない」


 と、リカルドはメグの手を持ち上げて、指先にそっとキスをした。

 メグの頬は薔薇色に染まり、青い瞳は潤んだ。


 そんな二人の様子に、パオロはすべてを納得したらしい。

 愛する女性を守りたいという思いから、リカルドが結婚を秘密にしていたのだと誤解したのだ。


「披露はまだ先でもいいんじゃないかな」


 なにやら嬉しそうに、メグとリカルドを見比べながら、パオロはそう言い出した。


「一族には私が取りなしておこう。新婚の二人は、まだまだ二人きりの時間が必要だと言えば、誰もせかしたりはしないだろう」

「ありがとうございます」


 ほっとしたように息をつくリカルドに、メグも安堵して肩の力を抜いた。

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