第27話 帰する

「うがっ⁉」


 いきなりの叫びに、ラグナの思考が混乱する。今の悲鳴は俺か? 違う。来るはずの衝撃が来ない。とっくに脳みそがぶちまけられているはずなのに、まだ生きている。いったい?

 クロエが目を見開いた状態で、動きを止めている。


「こ、れはっ?」


 クロエは驚愕を顕にする。驚きを隠しきれないのは、ラグナも一緒だった。

 ラグナの目には、クロエの向こうにクロスボウを構えているイリアが飛び込んできた。離れていてもわかるくらい脚が震えているが、歯を食いしばって必死に耐えている。


「ラグナから……その人から離れてっ!」

「小娘がっ! 男の戦いを邪魔をするなああぁっ!」


 激昂したクロエは、標的をイリアに変えた。生粋のデーモンより恐ろしい形相で、イリアに突進する。


「うあああああっ!」


 イリアは怯むことなく、雄叫びを上げながらクロスボウを連射した。狙い撃つ余裕などない、ほとんど盲撃ちだ。

 それでも、二発の矢がクロエを穿った。短い矢は体内にまで届き、クロエの体は矢を取り込んだまま治癒していく。

 ラグナは詠唱した。考えてのことではない。無意識の行動だった。


「我が言霊はマグ・メルの樹木っ! 死者の群れが賛歌を響かすっ!」


 ラグナの魔法が炸裂した。クロエの体内に取り込まれた矢が変形し弾け、何本もの棘がクロエの体から飛び出した。


「うおおおおっ⁉」


 イリアに襲い掛かる寸前、クロエの動きが止まった。飛び出した棘が床をも突き抜け、彼を固定したのだ。


「おおっ!」


 ラグナは最後の力を振り絞って、クロエに突っ込んだ。ガッチリと固定されたクロエに、かわす術はなかった。


「ラグナァッ!」


 クロエの慟哭。その声に織り交ぜられていたのは、怒りか、憎悪か、あるいは懺悔なのか。

 ラグナは構わず突進し、クロエの心臓にリィヒト・ハルフィングを深々と突き刺した。


「がっ!」


 剣身に黒い靄が吸収されていく。クロエに憑依していたヴォルフ・ガングを吸い込み、リィヒト・ハルフィングの濁りが濃くなっていった。

 時が凍る。音が滅する。

 二人は至近距離で睨み合った。クロエから流れる汗の量が尋常ではない。食いしばる歯の間から血が流れ出し、咳き込み弾けた吐血は、ラグナを汚した。

 クロエの口がゆっくり開く。発せられたのは、恨みではなく謝意の言葉だった。


「……よく……やってくれた……」


 弱々しくも、自分の意思を伝えようとする、力のこもった声だ。


「きみなら、やってくれると……思ってた」

「クロエ……」


 クロエが崩れ落ちた。徐々に人間の体に戻りつつあった。


「ラグナ……僕は今どうなってる? まだデーモンのままか?」


 問うクロエの姿は、完全に人間に戻っていた。端正で優しげな顔が、苦痛に歪んでいる。


「……どこから見ても人間だ。おまえは人間だよ」

「そうか。人として死ねるのか……嬉しいなあ」


 ラグナの鼻の奥が刺激される。

 人間のためにデーモンと戦った男が、人として死ぬことに喜びを感じている。あの、ヴォルフ・ガングの呪縛を受けてから今日まで、どれほどの苦しみを耐えてきたことか……。


「ラグナ……あの四人も、きっと……」

「わかってる」

「……頼むよ」


 主語が抜けていたが、クロエの願いは、痛いほど浸透した。かつての仲間に手を握られ、クロエは息を引き取った。


「クロエ……」


 張り詰めていた気が、一気に緩んだ。イリアの自分を呼ぶ声に振り向いたが、視界が急速に暗くなり、ラグナはそのまま気を失った。




 声が聞こえる……。

 遠くから聞こえたように感じたが、意識がはっきりするにつれ、ものすごく近くだと気づく。

名前を連呼されている。やかましいはずのその声は、妙に耳に心地よかった。

 ラグナは、おもむろに目を開けた。


「ラグナッ!」


 ぼんやりとした視界が徐々に輪郭を明確にしていき、同時に四散していた思考力も回復していった。


「ラグナァッ!」


 真っ先に飛び込んできたのは、涙でグシャグシャになったイリアの泣き顔だった。

 首を回して視線を移すと、クロエの亡骸が横たわっていた。


「クロエ……」


 日はとっくに暮れていた。月光を集めたリィヒト・ハルフィングの輝きが、クロエの亡骸を照らして滲んでいる。その死に顔は、安息の地を得たように安らかだ


「……さぞ疲れたろう。ゆっくり休め。やっと呪縛から解放されたんだ……」


 友の孤独な戦いを労う自分の言葉に、目頭が熱くなる。


「ラグナッ⁉ 私がわかる?」


 イリアに呼ばれて、再び顔を上に向けた。イリアの流す涙が滴り、ラグナの頬を伝う。


「泣くなよ。俺までベタベタになる」

「よかった。ラグナ……よかったよぉ……」


 イリアは、必死に堪えていた感情を顕にして泣き崩れた。抱きつき、ラグナの胸に顔をうずめる。

 ラグナは、彼女の背中にそっと手を乗せた。


「なぜ来た?」


 イリアは嗚咽を漏らすばかりだ。


「……俺は、おまえを足手まといと罵ったんだぞ。それなのに……」

「わ、わた、しは……」


 真っ赤に充血した目が、ラグナを見据える。


「わたしはっ! ラグナの仲間だもんっ! ラグナがダメって言ったって付いていくんだからっ! そう決めたんだからっ!」

「仲間、か……」


 胸が熱い。イリアの涙が染みているのか……内側から湧き上がってくる、言葉にならないなにかのせいなのか、今のラグナには判別ができない。ただ、ずっと抱えていた重たい荷物が、一つ降ろせた気がした。


「………………」


 今更ながらに気づいたが、体の至るところに受けたダメージが軽減している。


「治癒魔法か……」


 イリアは涙を流したま微笑んだ。


「ラグナの魔法に比べたら、全然だけど」

「……そんなことはない。こっちの魔法も、なかなかいいもんだ」


 ラグナの意識が、再び遠ざかりかける。思考を麻痺させる浮遊感が脳を支配しつつある。

 微かに、外から蹄の音が聞こえた。


「ちょっと待ってて」


 イリアは慌てて立ち上がり、入り口まで駆け寄った。

 外には、周囲の惨状に戸惑っている男たちがいた。よく見ると、貸馬車屋にいた老人もいる。彼がかき集めたのか、屈強そうな男たちも四人ほど付いてきていた。

 名前を知らなかったので、イリアはスマゥトが呼んでいたのを真似て叫んだ。


「おやっさんっ! こっち!」


 イリアの声に気づいた老人が、急いで馬を操り近づいてきた。イリアを凝視し、彼女の前で馬から降りた。イリアが傷だらけだったので、ひどく驚いている。


「大丈夫か? いったいなにがあった?」

「私は大丈夫です。スマゥトさんは?」

「ああ……やつなら心配ない。お嬢ちゃんが危険だからってんで、急いで駆けつけたんだ」

「……ありがとうございます」

「それで? なにがあった?」


 イリアが言葉を選んで話し出す。

 彼女がどのように説明しているのか気になるが、もう意識を保っていられない。視界がぼやけ、ラグナは再び気を失った。

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