第13話 木の陰の少女
広い背中を眺めながら、イリアは迷っていた。ラグナにどう声を掛けるべきか。どう切り出せば、力を貸してくれのか。いや、そもそも力を借りるべきなのか……。
この数日、一緒に旅をして彼に抱いた心象は複雑だった。悪い人ではない。それは確かだ。しかし、どこか底が知れなくて全体像が把握できない。それに、彼の使う魔法は異質なのが気になった。
魔法とは、精霊の力を借りて炎や水などの効果を顕現する技術だ。使う時はもちろん、常日頃から敬意を払わなければならない。精霊に対して。自然の理に対して。だが、彼の魔法は違う。懇望して力を貸してもらっているのではなく、強引に引きずり出しているような、無理やり奪い取っているような……そんな歪さを感じるのだ。あれは、魔法ではなく邪法と呼んだ方が……。
さらに、今朝の一件で、ラグナに対して畏怖に近い気持ちを抱えてしまっている。
彼の戦闘力の高さを見込んで旅に同行させてもらっているが、集めようと考えていた協力者とは、根本的なところが違う気がした。
「……イリア」
「は、はい」
ずっと無言だったラグナが、いきなり話し掛けてきた。胸のうちを見透かされた気がして、焦ってしまった。
ラグナは手振りで止まるよう指示を出した。神経は前方の木々に集中している。彼の様子に、イリアにも緊張が走った。
ザッと木の葉が落ちた。不自然な落葉をした木に向けて、イリアは杖を構えた。対して、ラグナは微動だにしない。しかし、どの方向にでも動けるように、猫背になってつま先立ちになっている。その姿に、イリアは先日の豹を思い出した。
数秒の間、沈黙が流れた。ラグナは様子がおかしいことに気づいた。たしかに何者かの気配がある。ただ、襲ってくる者特有の、尖った気の波が感じられない。デーモンや野生の動物でもない。あれらは、襲うにしても逃げるにしても気の張り方は人間の比ではない。
いつまでも固まっているわけにはいかない。ラグナはイリアにその場に留まるよう指示して、用心深く気配のする方に近づいた。
森が人間に与えるものは二つある。安らぎと不安だ。それは状況によって容易く入れ替わり、今与えられているのは、強張るほどの不安だ。
あの大木の後ろに、確実にいる。ナイフを抜いて、影よりも密やかに接近した。
「動くな。動いたら死ぬことになる」
威嚇しながら気配の正面に回り込んだ。しかし、ラグナは瞬時にして、刃物も脅し文句も無駄だと知った。
「おいおい……」
木の陰にいたのは、年端もいかない少女だった。体中の至るところが土と煤で汚れ、ボロボロだった。ラグナの動作になんの反応もなかったのは、気を失っているからだ。しかも、ケガを負っている。
「イリアッ」
ラグナはイリアを呼んだ。何事かと駆け寄ったイリアは、木の幹にもたれ掛かっている少女を見て、息を呑んだ。
「回復の魔法を学んだと言っていたな。この娘に掛けてやってくれ」
「は、はいっ」
イリアは杖を構えて、治癒の効果を発揮する魔法を発動させた。
「……我は偉大なる精霊の従者なり。我が求めに応じ、癒しの風を吹かせたまえ。ハイルング」
グリップに埋め込まれた宝玉から、優しい光が放たれ、少女を照らした。
青ざめていた顔に赤味が挿したものの、少女の意識は戻らない。
「効かない?」
「いや、効いてる。体力を消耗しすぎて、起き上がれないんだ」
ラグナは少女を抱き上げた。
「行こう。街まで三十分程度だ」
ラグナの声は鋭かった。少女を絶対見捨てない意志が滲み出ていた。
イリアは再び複雑な思いに捉われる。ラグナは間違いなく善人だ。それなのに、今朝のような死人の瞳を覗かせることもある。この人がわからない。わからないから不安になる。そんな思いに惑わされるのは、私が未熟だからだろうか。
「………………」
イリアは、持て余す思考を強引に打ち切って、走るラグナの後を追った。
到着した街ラーナは、規模こそ小さいものの活気に溢れていた。門衛から教えられた医者を訪ねると、すぐに診療室に通された。
「こりゃあ、ひどい……」
スキィル・ハンコックと名乗った老医者は、少女の傷口を見て悲痛の呟きを漏らした。
「ひっ」
覗き見たイリアは、思わず口を手を当てた。あちこちにある切り傷や擦り傷は浅かったが、少女の背中には無残に切り裂かれた傷が四本も走っていた。彼女の治癒魔法で傷は塞がっているものの完全ではなく、まだ血が滲んで出ている。
「無理して見なくていいぞ。見てて気持ちの良いもんじゃない」
「いいえ……大丈夫です」
残酷な傷に驚いたのは確かだが、イリアはそれ以上に衝撃を受けたことがあった。見覚えがあったのだ。少女の傷に。
あの時は月明かりしかなくて、薄暗かった。しかし、あの傷は……あの傷だけは、見間違えようがない。
「狼か?」
ラグナは、スキィルに訊いた。少女を抱き上げた時の熱さは鳴りを潜めている。マーギアーが実験結果を分析するような、冷たく機械的な声だ。
「う、ん……。いや、それにしては、傷と傷の間の幅が広い。熊……とも違うな。鉤爪のような武器か……もしかしたら、デーモンの類いかも知れん」
ラグナの目がギラリと光った。
「俺は多くのデーモンを狩ったが、こんな傷を残す奴には会ったことがないな」
「もしかしたらと思っただけだ。鵜呑みにするな」
「だが、調べる価値はありそうだ」
「なんだ? おまえさんが退治してくれるってのか?」
「必要ならな。明日また来るよ。丁寧に看病してやってくれ」
「おまえさんたちの連れじゃないのか?」
「袖触れ合う仲ってやつさ。行くぞ」
「あ、あのっ」
イリアの声が、よほど切羽詰まっていたのだろう。ラグナの動きが一瞬で止まった。
「……どうした?」
「あの……この娘、この娘を襲ったデーモンを討伐するんですか?」
早足で出ていくラグナの後ろ姿に、イリアは予感めいたものを感じた。
「……今、言った通りだ。必要なら狩る。だが、この娘が目を覚まして、話を聞かないことには、わからん」
「……るべきです」
「なんだって?」
「狩るべきです。このデーモンほ、生かしておいちゃいけません」
ラグナとスキィルに見つめられ、思わず俯いた。胸の内を訊かれるのが怖くて、なにか言われる前に口を開いた。
「だ、だって、危険じゃないですか。こんな凶暴なデーモンを野放しにしておくなんて」
「まだ、デーモンと決まったわけではないが……余計なことを言っちまったかな」
自分の発言がイリアを脅えさせたと思ったのか、スキィルは弁解口調だった。一方、ラグナは無言で視線を突き刺してくる。
「……イリア」
名前を呼ばれて、びくりと震えた。まるでラグナの声に電気が含まれているみたいだ。
「なんにしても、この娘が目を覚ましてからだ。話を聞いて判断する。それからだ」
間違いなく違和感を感じたはずなのに、ラグナはなにも追及してこなかった。ほっとする反面、一抹の寂しさも感じた。相反する感情が入り混じって不安定になる自分に、イリアはなにか予感めいたものを感じた。
翌日、再びスキィルを訪れた時には、少女は目を覚ましていた。
「カエナ・リサイトというらしい。名前は聞けたものの、それ以外はなにも喋ろうとせん。あんまり刺激するなよ」
スキィルはラグナに注意した。言い方は穏やかだったが、医者として揺るぎない意志を含ませているのが伝わった。
「……わかった」
ラグナは頷くと、病室のドアを開けた。
カエナは、ベッドに座っていた。ドアが開く音に反応を示したものの、俯いたままだった。
「やあ」
ラグナは、しゃがみながら声を掛けた。カエナは顔を上げなかったが、視線の高さは同じになった。
「お父さんとお母さんは……」
カエナは一度大きく肩を跳ね上げると、嗚咽を漏らした。
「おい……」
スキィルが咎めたが、ラグナは視線で制した。彼には、カエナの漏らす嗚咽だけですべてを理解した。これは、野生の獣に襲われた者の反応ではない。もっと邪悪で、人間では抗えない力に蹂躙された者の血涙だ。
「カエナちゃんを襲ったデーモンは、お兄さんが倒してやるよ。だから、どこから来たのか教えてくれないか?」
「…………………………」
イリアの胸が締め付けられる。語らずともわかる。この娘の街の住人は、皆殺しにされたに違いない。カエナが助かったのは、運が味方してくれたからには過ぎない。しかし、一人生き残ってこんな思いをするのが、幸運と言えるだろうか?
「きみは生きている」
イリアの暗澹たる気持ちを破ったのは、ラグナの一言だった。カエナに向けた言葉だったが、狙いすましたかのようにイリアの心に刺さった。
「生きている以上、生き抜かなくちゃならない。きみの心に刻まれた傷跡を、少しでも取り払いたい。どんなやつに襲われたんだ? どんな凶悪なデーモンだろうが、必ず倒す。約束する」
幼いカエナに、ラグナの励ましがどれくらい伝わっているかわからなかったが、イリアには確実に染み込んだ。カエナの嗚咽が伝染しそうになるのを必死に堪え、ラグナと同じくしゃがんでカエナの手を優しく握った。
「……お姉ちゃんも約束する。悪いデーモンをやっつけてあげる。だから、話を聞かせて?」
「う…う…うああああああ……」
カエナの嗚咽は慟哭に変わった。聞く者の心を切り裂く刃の叫喚だった。
イリアは、カエナが泣き止むまで、ずっと手を握っていた。
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