第11話 月夜と凶刃

 ヘイルは山間に存在する小さな村だ。村人のほとんどは農作物を育て、生計を立てている。名物らしきものはなにもない、静かなのが取り柄の平凡な村だ。その穏やかなはずのヘイルだが、今夜は様相が違っていた。

 甲高い絶叫が闇を割り静寂を破った。さっきまで笑い語らっていた両親が、目の前で貪り食われている。激しい物音に目を覚まし、階段を降りたところで、いきなり壮絶な光景が目に飛び込んできた。

 悲鳴に反応したデーモンは、食うのをやめて振り返った。血の匂いが充満した暗い部屋で、デーモンの双眸だけが異様な光を放っていた。一見、人間のように見えるが、あれが人間であるわけがない。だって、人間にこんな残虐なことができるわけがない。デーモンが村まで入り込んで、両親を襲ったのだ。しかし、なぜ? 人々にとって畏怖の対象だったデーモンの王ヴォルフ・ガングは、七人の英雄によって倒されたと聞いた。デーモンが絶滅したわけではないが、残っているのは深い森の中を徘徊したり、守衛が撃退できる程度のものしかいないと知らされていた。

 カエナ・リサイトは、恐怖に支配され足を動かすこともできなかった。雲に隠れていた月が顔を出し、柔らかい明かりが生み出したデーモンの影がカエナに重なった。震えていた脚から完全に力が抜けてしまい、カエナはとうとうその場に座り込んでしまった。


「に……」

「ひっ」

「に……げ……ろ……」


 首を絞められてなお助けを求めるようなひしゃげた声は、カエナの耳に入ったものの、意味を理解するのに数秒の間を要した。

 今のは喋ったの? デーモンが人間の言葉を? デーモンの中でも高い知能と能力を持つ者は、人語を解し操る者もいると聞いたことがある。しかし、知能があるがゆえに、人里に下りて無差別に人や家畜を襲う獣じみた行為はしないとも聞いている。

 しかも、今なんと言ったのだろう? 途切れ途切れだったが、逃げろと聞こえた。絶望のあまり脳内で作り上げた幻聴?


「……にを、して、いる」

「え? え?」

「逃げろと言ってるだろうがっ!」


 その者は、叫ぶと同時に飛び掛かってきた。


「ひいっ!」


 脚に力が入らないため、カエナにできることは反射的に伏せることだけだ。

 直撃こそ免れたものの、鋭い爪はカエナの背中の肉を裂いた。熱い痛みが神経を走り脳に伝達される。

 デーモンの膂力は凄まじく、勢い余った攻撃は家屋の壁を突き抜け、剥ぎ取ってしまった。


「いやっ。いやああああぁっ!」


 カエナの生存本能が爆ぜた。うまく繋げられなかった力の歯車が急に噛み合い、考える前に駆け出していた。


「クロエッ」


 どこに潜んでいたのか、一人の女性がデーモンに飛び掛かった。カエナの視野の端が女性を捉えた。一瞬しか見られなかったが、この村の住人ではない。

 飛び掛かった女性は、デーモンを攻撃するでもなく、逃げようともしない。カエナの目には、必死に抱きついてデーモンを落ち着かせようとしているように映った。


「逃げろっ。逃げ、ろおっ」


 デーモンは女性を背中に乗せたまま、叫びながら滅茶苦茶に暴れまくった。言葉と行動が一致していない。矛盾した行為が、カエナの恐怖心を一層煽った。

 自宅から脱出したカエナは、村の惨状を見て愕然とした。人の気配がまるでなく、所々から火の手が上がっている。確認しなくても、村の生存者は自分一人だと直感でわかった。

 背後でデーモンの咆哮が轟いた。立ち止まってはいけない。あのデーモンは、なぜか自分を仕留めなかった。だからといって、見逃してくれる感じでもなかった。

 体を強張らせる破壊音が止まない。私の家で、あのデーモンが暴れているんだ。早く逃げなくては……でも、どこへ?

 目的地も定めないまま、カエナは走った。生まれ育った村がどんどん遠くなる。

 混乱しつつも、恐怖で麻痺していた心が徐々に回復してくると、両親を失った悲しみが込み上げてきて、目頭が熱くなった。

 クロエ・サーデンは、少女の姿が見えなくなるまで必死に殺戮の衝動を抑え続けた。心身は漲っているのに、息苦しくて仕方がない。自分の意識を維持するのに懸命だった。


「……落ち着きましたか?」


 リコの声は愛憐に満ちていた。しかし、クロエにその声は届かない。自分の中の狂気を抑えるのに懸命で、頭の中を火かき棒でかき回されているみたいにぐしゃぐしゃに散らかっていた。

 僕は……僕は魔王を倒した英雄の一人だ。この程度で折れて堪るか……。

 よろめきながら前進すると、足の裏が粘り気のある液体に浸った。


「う……?」


 振り返ると、そこには死体が二つ折り重なっていた。あまりにも凄惨な亡骸に、自分はすでに地獄に堕ちてしまったのかと思ってしまった。


「うっ、ううう……」


 嗚咽が漏れる。

 なにが英雄だ。もう、自分にはそう呼ばれる資格なんてない。この手はとっくに血に塗れている。……すべてラグナのせいだ。あいつが、あの時逃げ出さなければ、英雄のまま死ねたのに。いや、ラグナを責めるのは筋違いだ。彼には何度も助けられたし、彼の力がなければ、世界は救われなかった。違う。違う。やつのせいで、こんな苦しい思いをしている。やつこそが元凶だだだ……やめろっ。これ以上、ぼぼ僕を侵食するるななあがあがああ。


「クロエッ」

「やめろおっ!」


 覆い被さろうとするリコを押しのけ、クロエは絶叫し目を閉じた。

 なにも考えるな……平常心を保って破壊の衝動を抑えろ。凶悪な獣を飼い慣らすんだ。


「……………………」


 ほら、落ち着けば大丈夫なんだ。安心したら、お腹が減ったな。さっき逃がした女の子は惜しいことをした。まだ成熟しきっていない肉は、柔らかかっただろうな。今からでも追いつくだろうか?


「……すまなかった。もう大丈夫だ。リコ」

「本当に? 少し休んだ方が……」


 突き飛ばされ尻もちをついていたリコは、何事もなかったにゆっくりと立ち上がった。


「もう、この街の人間は狩り尽くしてしまった。また、新しい狩場を開拓しなくてはならない。


ここから東に進めば、もっと大きな街がある。街の人々は、きっと歓迎してくれる。なにしろ、僕は魔王を倒したパーティの一員だったんだから」


「クロエ……」


 リコがクロエを抱き起こす。その背後に近づく者がいた。


「彼は……大丈夫なのか?」


 ナルクだった。クロエの暴走が始まったと同時に、村人を逃して外部に情報が漏れないように立ちまわっていたのだ。

 未だにリコは、彼についてほとんど知らない。ただ、自分と同じ体質を有しており、記憶がかなり曖昧になっているのはわかっている。

 ナルクが言うには、彼の故郷コンシアはラグナ・フェアラットに全滅させられたという。ただし、彼の言うことを鵜呑みにすればだ。彼の話では、村人のほとんどが食い殺されていたというのだ。しかし、それが事実ならば、ラグナが犯人であるはずがない。おそらく、クロエが日頃からラグナ・フェアラットなる人物が自分を殺しにやってくると言い続けているので、単純にそう結論づけたのだろう。食い殺されていたのであれば、真犯人はクロエか、あるいは……。


「かなり具合が悪そうだ。手を貸そうか?」

「大丈夫。余計な心配しないで。あなたは馬車を調達してきてちょうだい」

「……わかった」


 ナルクはリコの言うことに素直に従い、どこへともなく姿を消した。彼からしてみれば、リコは新参者だ。それなのに、彼女に命じられることに不快感を顕わにしたり、文句を口にすることはなかった。記憶の曖昧さがリコより深いのか、元々が自分を前に出さない性格なのかまではわからない。


「今……ナルクがいなかったかい?」

「彼なら、馬車を探しに行きましたよ」

「そうか。彼は本当に気が利くよ……戻ってきたらすぐに出発しよう。なにしろ、お腹が空いてしようがないんだ」

「……はい」


 クロエはしばらく月を見上げた。満月に近づけば近づくほど、自分を抑えられなくなる。リコが向けている憐憫の眼差しに気づくことなく、おもむろに歩き始めた。

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