第3話 悲劇の胎動
陽光の差し込む洞窟の中で、聞く者に緊張を強いるぶつかり合いの音がこだまする。明らかに自然が発するものではない金属的な音は、激しくも切ない音色を奏でていた。
息が苦しい。しかし、それ以上に心が苦しい。時間が経過するほどに圧し掛かってくる罪悪感の重みで、脚が動かなくなりそうだ。
いっそ、このまま敗北してしまば……このままやられてしまえば……。
心の隙間に入り込もうとする弱気を、ラグナは必死に押し返した。
この状況を招いたのは自分だし、いずれこうなることは知っていた。そう。知っていたのだ。万が一の奇跡に縋って逃げ出したが、いざその時が来てみれば、初めからこうするしかなかったと思い知らされる。神の慈愛など、人間の創り出した幻影だと痛感する。
「うっ?」
地面の僅かな窪みに足を取られバランスを崩した。普段なら絶対にありえないミスだ。精神の不安定さが肉体の動きにまで影響してしまっている。
この微かなミスを見逃すフェスラム・レゼントではない。火山弾と見間違わんばかりの、火球が襲い掛かってきた。彼女は一級の
「うおおおっ!」
ラグナは剣で地面を抉り、強引に土塊をまき散らした。そして、同時に魔法を発動するための詠唱に入った。
「我が言霊はシェオルの杯っ。悪魔の慈悲が満ちて溢れんっ!」
ラグナの詠唱に呼応して、巻きあげられた土が瞬時に水へと変化し、透明のカーテンを広げた。巨大な火の玉により蒸発させらた水は、煙幕のように濃密な霧となって、二人の視界を奪った。
水の壁など無視して突っ込んだ火球は、床に激突すると拡散し、辺り一面を燃え上がらせた。洞窟内の冷えた空気が一気に熱され、激しくかき混ぜられる。
熱風に煽られながら、フェスラムは己の勝利を確信した。ラグナ・フェアラットは、火の玉に食われて炭となったのだ。
勝利の快感と悲哀の波が、同時に押し寄せる。相反する感情が胸のうちで混ざり合って咆哮の濁流を発生させた。熱い涙が溢れ出て、洞窟内でこだまする狂気の雄叫びに、自らの耳が劈けた。
「うっうっ、うう……」
フェスラムは、よろめきながら緩慢な動きで前進した。彼の屍を確認してなにがしたいのか自分でもわからなかったが、とにかくそばまで近づこうと思った。
その時……
涙で滲む視界に、水蒸気の膜を突き抜けて躍り出るラグナが飛び込んだ。
「がっ?」
ラグナの手には、魔剣リィヒト・ハルフィングが握られていた。ヴォルフ・ガングの一件で、呪われた魔剣と化したが、同時に強力無比の魔力の影響で、あらゆるデーモンを討ち滅ぼす必殺の剣ともなったのは皮肉としか言いようがない。
稲妻のような恐怖と絶望と同時に、砂粒ほどの安らぎを感じた時には、フェスラムの胸にリィヒト・ハルフィングが深々と突き刺さっていた。
脚から力が抜け、崩れ落ちる。ラグナの悲痛な表情を見て、フェスラムは最悪の事態は避けられたのだなと思った。
「………………」
ラグナは、涙と汗と血でぐちゃぐちゃだった。この人を安心させなくちゃいけない。恨みなんか抜け落ちた羽根の先ほどもなく、後悔だってしていない。そのことを伝えたくて、なんとか微笑もうとするが、うまくいかなかった。
「フェスラム、ああ……」
ラグナが泣いている。この人は、こんな悲しみを背負ってはいけない人だ。いつも笑って、周りに元気を振りまく人だ。
それを伝えたくて口を開いたが、せり上がってくる血で、声を出すのもままならなかった。
「なんできみが……こんな結末は間違っている。俺は、きみが安心して暮らせる世界を作りたかった。そのために旅を続けたのにっ!」
フェスラムは、震える掌をラグナの頬に優しく当てた。
「泣かな、いで……こうなることは……わかってた。だから、ね?」
「でもっ、」
「なるべくしてなったことなのよ……。あの五人もきっと苦しんでる。あなたが救ってあげて。あの五人と、この世界を」
「きみがいない世界を救っても、意味なんかないっ!」
「そんなこと……言わないで」
子供のように泣きじゃくるラグナを見て、フェスラムはこの優しすぎる性格が、この人を苦しめているのだと思った。そして、だからこそ、運命はこの人を選んだのだとも。
「さあ、行きなさい。……人間のまま死なせてくれて、ありがとう……」
「嫌だっ! こんなっ。俺一人じゃなにもできないんだっ! きみと一緒だったから、俺はっ!」
洞窟内に反響するラグナの声がどんどん遠ざかる。
ほんとに子供みたいな人……。でも大丈夫。この人は、自分で思っているよりずっと強い。そばにいてハラハラさせられたことは何度もあったけど、その行動は常にみんなを導いた。今度だって、きっと……。
フェスラム・レゼントの人生は、安らぎの中で幕を閉じた。
フェスラムの死から三十日が経過した。その間には雨も降ったし風も吹いた。しかし、ラグナの心は麻痺してしまい、時の流れを認識できなかった。自らの手でフェスラムを葬ってから今日まで、どうやって過ごしたのかすら記憶が曖昧だった。
しかし、今日やっと彼の心は動いた。なにがきっかけだったのかは、はっきりしない。微かな物音だったのか、僅かな光だったのか。視野の端に入った一輪の花だったのか。それとも、単に時間が傷を癒したのか……。
とにかく、彼は思考を取り戻し、考え、そして決心した。その後の彼の行動は淀みがなかった。一日かけて、約二年もの間、生活の場としていた洞窟内を片付け、旅支度を済ませた。片付けが終わり、洞窟内を見渡す。
「こんな、なにもない場所で、二年も暮らしたのか……」
あまりにも侘しい空間に、冷たい認識が心を震わせた。
がらんどうとした洞窟の中、地べたに横たわって、眠れない夜を過ごして迎えた朝――
ラグナは、グリップに埋め込まれている宝玉をじっと眺めていた。柔らかな日差しを反射して、眩いほどの光が染みて痛い。
地面に突き刺さっているのは墓標代わりにした杖で、フェスラムが愛用していた『グランツ・レィベン』だ。ラグナのリィヒト・ハルフィング同様、杖そのものに魔力が宿っており、なんの力も持たない者では、折ることも引き抜くこともできない。
「……行ってくるよ。ずっとそばにいたいけど、きみの最期の頼みを聞かないわけにはいかないからね……」
誰も寄り付かないような洞窟の中に、フェスラムを残して行くことに罪悪感を覚える。天井に空いた裂け目から日差しが降り注ぎ、その一帯だけ草花が生えているのが、せめてもの慰めだった。
ラグナは、墓標代わりの杖を背にして一歩を踏み出した。果ての見えない旅路の最初の一歩だ。二歩、三歩と進む度に、背中の体温が低くなっていく感じだった。
二十メートルほど離れたところで、ラグナは一度だけ振り返った。
「俺は……世界よりもきみを救いたかった」
その呟きは弱々しく風に溶けたが、彼の内側では新たな冒険への覚悟と決心が熱く渦巻いていた。
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