第4話 森の中の奇襲
見晴らしの良い草原だと思って油断していた。まだ日が高いからと気が緩んでいた。
今日だけで何人もの人が行き来したであろう拓けた道で、私のように一人で旅する者を待ち伏せていたに違いない。
生い茂る草に足が絡め取られそうになる。荷物を背負っての全力疾走は、瞬く間に息を上がらせた。しかし、脚を止めることはできない。組み伏せられたら、膂力の劣る私には万が一にも勝ち目はない。
追ってくるグレムリンは五匹。剥き出した牙がいやらしく光る。剣も武術も魔法も、なにも修行してない者なら大の男でも危険な数だ。加えて、自分たちは狩人で、逃げている私は哀れな獲物と信じて疑っていない。根拠も拠り所もなくても、自信は勢いを増す着火剤になる。しかし……。
「我は偉大なる精霊の従者なり。我が求めに応じ、猛き炎を沸かせたまえっ。アロウズッ」
振り向きざまにイリア・バルトナーが放った言葉は、炎へと姿を変えグレムリンの群れに襲い掛かった。
「ガアアアアッ」
炎の餌食となったグレムリンの断末魔が、草原に吹く風で空に舞う。魔法が命中したことに安心したのも束の間、揺らめく炎から一匹のグレムリンが躍り出た。
「しまっ……」
とっさに杖でガードしたものの勢いまでは止めることはできず、少女とデーモンはもつれ合って地面に転がった。
「きゃあっ!」
目が回り天と地の区別がつかなくなる。全身を駆ける重みと痛み。しかし、苦痛を意に介している場合ではなかった。早く立ち上がって魔法を発動させなければ、デーモンの毒牙にかかってしまう。こんな所で死ぬわけにはいかない。
脚に力を入れようとしたが、イリアよりも先に態勢を立て直したグレムリンが、再び飛び掛かってきた。
「ああっ!」
杖の柄で辛うじて防いだものの、馬乗りを許してしまい、身動きが取れなくなった。腕を限界まで伸ばし柄に噛みついた牙を少しでも遠ざけようとするが、だんだん痺れてきて肘が曲がってしまう。
グレムリンの口から滴り落ちた涎は顔を汚し、イリアは嫌悪と恐怖が綯交ぜになった。
「うう……」
イリアの脳裏に、あの日の惨劇が甦る。
お母さん……お父さん……。死ねない。こんな、ことで……私は死ねない……。
必死の抵抗も空しく、徐々にグレムリンの牙が近づいてくる。頭の中が真っ白になる寸前、草むらからなにかが飛び出してきて、グレムリンを引き剥がした。
飛び出した影の正体は、草原のハンターの異名を持つ豹の一種だった。イリアを襲って動きを止めたグレムリンを仕留めようと、襲ってきたのだ。
獣とデーモンが、もつれ合い、離れ、睨み合う。その隙を狙ってイリアは炎の魔法を放った。
「アロウズッ!」
炎の直撃を受けて、絶叫を上げるグレムリン。地面を転がりもがくが、やがて力尽きて動かなくなった。
豹はその一部始終をガラス玉の目で見ていた。イリアは続けざまに魔法を放てるように構えたまま、豹と対峙した。
「………………」
弱気が首をもたげ、目を逸らしそうになる。しかし、ちょっとでも気後れを表面に出してしまったら、野生の獣特有の鋭敏な勘に捉えられ、たちどころに襲い掛かってくる。
二秒、三秒と、神経を蝕む時間がゆっくりと経過していった。
イリアは呼吸をするのも忘れて、豹の目を見据えた。
豹は前屈みで動かなかったが、戦うのは得策ではないと判断したのか、臨戦態勢を解いた。そして、イリアを警戒しながら、焼け焦げたグレムリンの死骸を咥えて、素早く草むらの中に消えてしまった。
「はああ……」
思わずため息が漏れ出る。その場にしゃがみ込みたかったが、完全に安全になったかはわからない。
イリアはすぐに目的地へと歩き始めた。徐々に歩調が速くなっていき、十メートルも進んだところでは駆け足になっていた。
……今のは、ただ運が味方してくれただけだ。こんな幸運は何度も続かない。やはり、仲間を得なくてはダメだ。一緒に戦ってくれる強力な仲間が……。目的の街ヴァトは、この一帯でも大きく、冒険者が集うギルドも在ると聞いた。そこなら、もしかしたら……。
イリアは、息が切れるのも構わず走り続けた。
心地好い風が頬を撫でて通り過ぎた。風に梳かされた金髪は流され耳をくすぐる。風はそのまま深い森も優しく撫でつけ、はるか上空へ去っていった。
風の優しさに触れた木々は、お礼とばかりに葉の吹雪を舞い散らせる。まるで注目を集めようとする踊り子のように、一枚一枚が木漏れ日を浴びてくるくると躍る。その見事な葉の舞いを目の当たりにしたラグナは、思わず陶酔の声を漏らした。
「おお……」
季節は黄金の秋。眼前に広がる森は美しい黄色に染まり、遠くの山は燃えるように紅い。
「素敵だ……。こんな景色を見られるってだけで、生きてる価値がある」
太い幹を背もたれにして、自宅の居間にいるみたいにくつろいでいるラグナの目の前で、木の葉のワルツはますます範囲を広げ、その光景は切ないほどに美しかった。
徐々に近づいてくる蹄と車輪の音に、しばし漂っていた意識を引き戻して振り返る。
「どうした、にいさん。こんな所で」
現れたのは荷馬車だった。行商なのか荷台には野菜や果物が目いっぱい載せられている。御者台から、柔和な顔をした老人が声を掛けてきた。その柔らかさには嫌味の欠片もなく、金銭面はわからないが、精神面では豊かな人生を送ってきたのだと想像させる。
「なに。ちょっと一休みしてたんだ。なにしろ、ずっと歩きっぱなしだったからね」
「よかったら、この先の村まで乗っけてってやろうか。ワシのツレが茶を用意して待ってるはずだから、あんたも飲んでいくがいい」
「いや、俺は一人の方が……」
「こんなジジイの誘いじゃ、惹かれんか?」
「そういうわけじゃないんだが……」
「なら、いいだろう。年寄りのわがままに付き合うと思って、な?」
老人の押しは強かったが、息苦しくはならなった。この老人に対して抱いた第一印象が間違っていなかったと思い、苦笑のため息を漏らす。
「それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらうよ」
ラグナは立ち上がり、地面に寝かせていた剣を背負った。木の陰で見えなかったのか、剣に気づいた老人は途端に声を硬くした。
「……あんた、戦で飯食ってる手合か?」
「ああ、これか? 安心してくれ。以前立ち寄った廃屋で拾ったんだ。武器屋に売れば、旅の足しになると思ってさ」
「あんた、旅人かい。どこに行くんだ」
「場所はわからないが、五ヶ所寄らなきゃならん所がある」
「自分の行先がわからないだと? けったいな話だ。荷物は後ろに積んでくれ」
「すまないね。ラグナ・フェアラットだ」
ラグナは老人の隣に座りながら名乗った。木製の御者台は擦れた滑らかさがなく、普段から一人で運行しているのがわかった。
ショット・ガロンと名乗った老人の操縦はまろやかで、安心して身を委ねられた。一定の速度を保ったまま走行を続ける荷馬車は、リズミカルで眠気さえ誘う。
「……ん? なんか言ったかい」
「わしの村で暮らさんかと言ったんだ。若者がどんどん離れていって過疎化が進むばかりだ。空き家ならあちこちにある」
「じいさんよ。あんまり簡単に人を信用するもんじゃないぜ。俺がとんでもない悪党だったらどうする? この剣だって……」
ラグナは首を捻って背中の剣に目をやる。荷物は荷台に置かせてもらったが、剣だけは背負っていた。
「やっぱり、人を襲うために持ってるのかも知れんぜ」
「そりゃあないな。これだけ長く生きとると、人となりみたいなもんがわかる。おまえさんは欲望のために誰かを傷つけたり裏切ったりはせん男だ」
いくら人口が減っていても、悪人を招き入れることはあるまい。ショットの言葉に嘘や世辞が入ってないのは明白だった。ほんの少し前に出会ったばかりなのに、老人はラグナを気に入ったようだ。
「どうだかな……それにしても、この果物、硬いな。本当に食えるのか?」
ラグナは手にしていた果物の皮をむくのをあきらめた。ショットが積み荷から出してくれたもので、ブレダという果物だ。皮が異常に厚く、しかも硬くて太い棘まで生やしている。
「どれ、貸してみろ。ちょっとの間、手綱を頼む」
ショットはラグナの手からブレダを取ると、ナイフの刃を果梗に押し当てた。
「ふんっ」
ショットが力を込めた。ブレダはあっけなく真っ二つに割れ、瑞々しい果肉からは甘い香りを放たれた。
「うおっ。すげえ」
「何事にもコツというもんがあるのよ」
果汁が溢れ出るブレダをラグナに渡すと、ショットは再び手綱を握った。ラグナはさっそく果肉をむしり取り、口に放り込んだ。濃厚な甘みと微かな酸味が混ざり合い、口内を潤す。芳醇な果汁はジュースとなって喉を通過し、とても美味だった。
「ん……こりゃあ美味いな」
「そうか。美味いか」
喜ぶラグナを見て、ショットは目を細めた。
「なあラグナよ。あてのない旅なんだろ? 一所に落ち着いて真面目に暮らしゃ、わしのようにジジイまで生きられるぞ」
「あてがないわけじゃない。言っただろ。寄らなきゃならない場所があるって」
「けど、どこなのかはわからんのだろ。そこを見つけるまで旅を続けるつもりか? 気の遠くなる話だ」
「それでも、行かなきゃならないんだ」
「どうしてもか? 人生なんざ、ほどほどに働いで、ほどほどに美味いもん食って、ほどほどに酔い、今日も一日生きた実感を抱きながら温かい布団で眠る。それで幸せなんだ。それが一番幸せなんだよ。おまえさんの旅は、それ以上に価値のあるもんか?」
ショットの言葉には、長年の人生から学び得た重さがあった。蒙昧に生き急ぐ若者には、絶対に口にできない教訓を織り交ぜた重さだ。
ラグナはしばらく無言でブレダを口に運んでから、ショットの問いに答えた。
「……なあ、人生って言葉の意味を考えたことはないか? ただ生きるだけなら、素直に生きるって言葉を使えばいい。それなのに、上に人という字を宛がうのは、人間が生きるのは犬や猫とは違うものがあるからさ」
「若いのに、哲学的なことを言うのう。よほど大切なことのようだ。もう引き留めはせんよ。だが、旅路はくれぐれも用心した方がいいぞ。ヴォルフ・ガングが倒されたとはいえ、デーモンどもがおとなくなったわけではないからな。この前だって村人の一人が襲われたんだ」
「奴らにしてみれば、人間が獣を狩りをするのと同じ感覚だからな。ヴォルフ・ガングを倒したのに、それほどの意味はなかったってことか……」
「そんなことはないぞ。デーモンによる征服進行を阻止できたことを考えれば、七聖剣の英雄の活躍は後世まで伝わるほどの大偉業だ」
「七聖剣の英雄?」
「聞いたことないか? ヴォルフ・ガングを倒した七人の英雄だ。王から七つの魔剣を託されたことから、そう呼ばれておるとか」
「へえ……そんなふうに呼ばれているのか」
ラグナは、あの時のことを思い出した。七聖剣の騎士から七聖剣の英雄に昇格すると言ったのは誰だったか……。
「旅をしてても、噂くらいは耳にしたことあるだろう。なにしろ七英雄の活躍は歌にもなっとるぞ」
「長く滞在した街はないからな。けど、一つ間違ってるぜ。英雄は七人じゃなくて六人だ」
「そうなのか? けど、ヴォルフ・ガングを倒すために旅をしていた七人の若者の話はあちこちで語り草になってるし、伝説によれば、七人いなくては魔王は倒せないってことだぞ」
「……なんで七人なんだと思う? それに、言い伝えではその七人は贄と呼ばれてるそうじゃないか」
「知らんよ、そんなこと。だが、ずっと言い伝えられているということは、大事な意味があるんだろ。だいたい……」
ショットの話は途中で途切れた。かっと乾いた音がしたかと思ったら、荷台の脇に矢が一本突き刺さっていたからだ。衝撃で震えているシャフトが否が応でも緊張感を強いた。
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