第2話 訪れた平和と奇妙な夜

 斥候隊が廃城の探索から帰ってきたその日、ヴォルフ・ガングが討伐されたとの通知が一気に広まった。街中が歓喜に沸き上がった。

 人間の世界に侵攻しつつあったデーモンの王、ヴォルフ・ガングの存在は子供でも知っていたし、いつデーモンの群れが襲ってくるのか判然としない日々の中、人々は不安と焦燥に慄きながら生活していたのだ。

 そんな濁った日常において、ヴォルフ・ガングを討伐すべく集った七人の冒険者が、見事に任務をやり遂げたと正式に発表されたのだ。

 不安の深さは、そのまま歓喜の高さに入れ替わった。人々は仕事も放り出し人間の勝利を祝う騒ぎに酔いしれた。街中に紙吹雪が降り注ぎ、あちこちで喜びの歌が響き渡った。商魂たくましい商人は、道端に露店を出して酒や食べ物を提供し、一年中のお祭りを凝縮してやって来たかのようだ。

 誰も彼もが我を忘れて、興奮のあまりけが人が出るほどの狂乱騒ぎに身を委ねた。そして、偉業を成し遂げた七人の冒険者に惜しみない称賛を送った。


「凄いもんだよな。たったの七人でヴォルフ・ガングを倒しちまうなんて」

「国王自ら、魔剣を授けたそうだ」 

「なんて言った? 七人の騎士?」

「違うわ。七聖剣の騎士……いえ、ヴォルフ・ガングを倒した今では、七聖剣の英雄と呼ぶべきね」

「その英雄様はどうした? ヴォルフ・ガングを倒した豪傑を拝ませてくれよ」


 魔王を討ち滅ぼした英雄を一目見たいと思うのは、平和を待ち望んだ人々にとっては当然の欲求だった。しかし、多くの人の期待に背いて、英雄と呼ばれた七人はついに姿を見せることはなかった。


 水面が氷に覆われ小川が留まり濁っても、何日も凪が続いて雲が停滞しても、月日は容赦なく流れていく。

 祭りが終われば、日常が戻ってくる。デーモン討伐とは違う、生きて老いるための戦いが繰り返される。デーモン侵攻の脅威がなくなり、安息の日々を迎えた人々の間に、一つの噂が囁かれ始めた。

  ヴォルフ・ガングが討伐されたと発表された後日、改めて調査隊が派遣されて城内が隈なく探索されたが、城に残されていたのは大量のデーモンとヴォルフ・ガングの死骸だけで、七聖剣の英雄は誰一人見つからなかったというものだ。

 懸命な捜索の結果、隠し部屋や目も眩むような金銀財宝まで発見されたが、七聖剣の英雄の行方は杳として掴めなかった。

 ヴォルフ・ガングの死骸が発見された以上、魔王討伐に成功したことは偽りない事実だろうが、その不自然な幕の閉じ方に、古から言い伝えられてきた伝説が思い出され、人々の口から口へと拡散された。


「そういえば……魔王を討ち取った者には呪いがかかるって話があったよな」

「ああ。魔王を滅ぼす代価として、七人の生贄が必要だって……」

「それじゃあ、七聖剣の英雄は、ヴォルフ・ガングの命と引き換えに犠牲になったの?」

「そんな、犠牲だなんて……」

「だっておかしいじゃねえか。あれだけの偉業をやり遂げたのに、誰一人として俺たちの前に姿を現さないなんて」

「そもそも、七聖剣の英雄なんて本当にいたのか?」

「どういう意味だよ?」

「おまえ、七聖剣の騎士なんて見たことあるか? パーティの誰かの名前とか知ってるか?」

「いや……ヴォルフ・ガング討伐隊が結成されたって噂で聞いたくらいだ」

「だろ? 噂ばっかりで、七聖剣の騎士とか七聖剣の英雄とか呼ばれてる連中を実際に見たやつに会ったことがない。国のお偉いさんが仕掛けたプロパガンダなんじゃないか?」

「嘘だったっての? なんのために?」

「みんながヴォルフ・ガングに脅えて、萎縮しちまってただろ? 働かなかったり、自暴自棄になったりしたやつだっていた。そんなやつが増えたら、デーモン侵攻が始まる前に、人間は自滅しちまう。お偉いさんはそうなるのを恐れたんだ」

「考えすぎじゃないのか?」

「だったら、なんで七聖剣の英雄は消えちまったんだ?」

「それは……」

「俺が思うに、ヴォルフ・ガングを倒したのは、本当は正規の兵士で組まれた討伐隊だったんだよ。たったの七人じゃない、もっと大きな部隊が組織されてたんだ」

「だったら、正直にそう発表すればいいじゃないか」

「そりゃ、あれだよ。街中が七聖剣の騎士を称え熱狂したんだ。実は人々を安心させるための嘘だったなんて言い出せなくなっちまったのさ。それに、そのまま信じ込ませていた方が、みんなの士気の盛り上がり方も違うってもんだろ。どんなデーモンが現れても、倒してくれる英雄がいるってことにしといた方が」

「う~ん……」

「なんだよ。納得いかないか?」

「まあなあ。なんにせよ、しっくりこない話だよ」


 正体のわからない噂は徐々に疑惑の色を濃くしていき、神秘性を纏っていった。不思議なエピソードには往々にして様々な憶測が飛び交う。七聖剣の英雄の存在すら、希望に縋る人々が生み出した偶像だったのではないかと言う者まで現れる始末だ。

 だが、そんな噂でさえも時の流れに埋没していく。人は自分の生活が一番の関心事となる。そして、七聖剣の英雄の話は、数ある伝説の中の一つとして語り継がれた。



 奇妙な夜だった。

 雲があるわけではないのに星が見えない。しかし、刃のように細くなった月だけは煌々と輝いている。そのせいで、真っ黒な空の裂け目から光が漏れ出ているように見えた。

 リコ・イドォルは疲れ切っていた。足取りは重く、思考は停止寸前だったが、孤独感だけは貫くほど深く食い込んでくる。いっそ、このまま体に穴をあけて死なせてくれればいいのにとさえ思うが、生存に固執するリコの生命力はそれほど脆くはなかった。

 足が棒のようになっているのに、なぜか歩くのをやめようという発想は浮かんでこなかった。ふらふらと惰性で前進していると、道の傍らに立っている一本の木に、人の気配を見つけた。旅人かと思ったが、こんななにもない場所に、しかも夜更けに木陰で休憩など不審でしかなかった。しかし、それを言うなら女一人で道行くリコだって傍から見れば不審だし、なにより、今の彼女からしてみれば、何者だろうがどうでもよかった。

 男が二人座っていた。一人は片膝立ちの姿勢だが、もう一人はうずくまって震えている。頭部がフードで隠れているが、ひどく具合が悪そうだった。

 リコは自分では意識しないまま、男たちに近づいていった。

 片膝立ちの男がリコに気づいた。連れが震えているのに、特に狼狽えている様子はない。介抱しているのではなく、ただ様子を観察していただけのように見えた。


「なんだ? あっちへ行け」


 年齢はリコとほぼ同じか、少し若く見えた。目に力を込めてリコを睨むが、瞳が空洞のように空っぽで、リコを脅えさせることはできなかった。むしろ脅えているのは男のようで、必要以上に警戒している。これでは、どちらが女かわからない。


「その人、病気なの?」


 自分でも考えてなかった台詞が、口を衝いて出た。他人のことなどどうでもいいはずなのに、リコの関心を引くものがあった。それがなんなのかわからなかったが、近づくにつれてリコは思い当たった。

 男たちの間には、二人というより、一人と一人と表現した方がよさそうな微妙な距離感を感じた。互いに絶望的な孤独感を纏っているのだと。そして、それはリコにも共通していることだった。


「あっちへ行けと言ってるだろ」


 空洞だった男の目に殺気がこもった。立ち上がりかけた男の腕を、うずくまっていた方が掴んだ。

 生暖かい風が通り過ぎ、葉擦れが耳をかすめる。


「ナルク。やめなさい」 


 リコは目を見開いて、短く悲鳴を上げた。腕を掴んだその手が、明らかに人間のものではなかったからだ。


「すまないが、あっちに木が密集している場所がある。火を熾してくれないか? 今日はそこで休もう」


 ナルクと呼ばれた男は、一瞬見せた殺意を引っ込め、フードの男の言うことに従った。再び光を宿さない目に戻り、リコを一瞥した後、フードの男が示した方向に遠ざかっていく。


「……僕が怖い?」

「いえ……あの……」


 リコは混乱した。思考などとっくに止まっていたと思っていたが、予想もしていなかった展開に、憶測がぐるぐると駆け巡る。

 この人は……いえ、人なの? 強力な魔力を持つデーモンは、人語を理解し操れるものもいると聞いたことがあるけど、こんな……人と行動を共にするなんて話は聞いたことがない。それとも、ナルクって人も人間ではないというの?


「なんで話し掛けてきたんだい? 僕たちが悪党だったら、きみみたいな華奢な女の子、ひとたまりもないのに」


 獣じみた腕を隠そうともせず、男は問い掛けてきた。見る者を怯えさせるに充分な外見とは裏腹に、その声は限りなく優しく響いた。


「……私は、もうどうなってもいいから」

「犯されても……殺されてもいいというわけ?」

「そうよ」

「それは違う。きみからは生きようとする力が感じられる」

「そんなこと……」

「きみは今、孤独の中にいる。僕たちに近づいたのも、同じものを感じ取ったからなんだろ?」


 心のうちを見透かされ、リコは黙った。絶望していたくせに、少しでも人の輪の中に入りたがっているのを悟られた。

 それがひどく惨めに感じて、恥ずかしさで顔が熱くなった。


「見ての通り、僕は他の人間とは違うんだ……早く去りなさい」

「でも、あなたは……」

「行くんだ」

「どこにも行くあてなんかない。家族はデーモンに殺されたし、門衛だった父がデーモンの侵入を許したせいで、街の人たちは娘の私に責任を押し付けて追い出した。もう、疲れたの……」

「それは……ひどい話だ。辛かったろう」

「…………」

「でも、今の世の中、特別な出来事ではない。そこら中に転がっている悲劇の一つだ」

「そんな簡単に片づけないで。私が味わった苦悩も屈辱も知らないくせに」

「それはそうだ。きみだって僕の抱えている苦しみはわからない。さあ、もう行きなさい。いつまで自分を保っていられるか自信がない」

「?」

「さあ……早くしないと、僕はきみを殺してしまうかもしれない」


 男は心に染み入る声で、いきなり物騒なことを口走った。リコは少し驚いたものの、楽になれるならそれでもいいかと開き直るほど、精神が追い詰められていた。


「もう歩けない。殺したいなら好きにすれば……」

「そんなこと言っちゃだめだ。命ある限り、しがみついてでも生きなければ」

「生きて……生き続けてなんになるの? 苦しみしかないのに。辛いことしかないのにっ」

「……一つだけ、その苦しみから解放される方法がある」

「え?」


 男は、言った後に顔を歪ませた。つい口を衝いてしまったという後悔の表情だ。


「いや、なんでもない。今のは忘れてくれ」


 男は慌てて取り繕ったが、その狼狽ぶりが却ってリコの心痛を刺激した。


「それは、どんな方法なの? あなたにはそれができるというの?」

「やめなさい。確かに今の苦しみはなくなるが、違う苦しみに入れ替わるだけで、今よりも辛くなるだけだよ」

「今以上に辛いことなんか……」

「死よりも辛いことだ。僕の姿を見るがいい。いつまで人間でいられるのか、自分でもわからない」

「……病気なの?」

「呪いさ。とびきり強力な、ね」


 呪いと言われれば、たしかに禍々しい感じではある。しかし、呪術や魔法にはまったく知識のないリコからすれば、自分を街から追い出し、あまつさえ殺そうとした街人の狂気だって呪いと言えた。


「治せないの?」

「無理だよ」

「治せる人がいるかもしれない。たとえば……ヴォルフ・ガングを倒した七聖剣の英雄なら」


 リコがそう言うと、フードの男は弱弱しく笑った。


「七聖剣の英雄か……それはいい」

「私は冗談を言ったつもりは……」

「わかってる。わかってるさ。でもね、彼らは人々が言うほど万能ではないよ」


 まるで七聖剣の英雄に会ったことがあるかのような言い方に、リコは違和感を覚えた。そして、優しかった目に邪悪な気配が滲んだことに戦慄した。

 リコが怯えを見せた時には、男に腕をがっちりと掴まれていた。


「あ……あ……」

「だから、早く行けと言ったんだ。必死に抑えていたのに……でも、これでもう一人じゃなくなるよ」


 男の目が光を放つ。今宵の月よりも鋭い、悪意に満ちた光だ。

 リコは、直感的に自分の人生の終わりを知った。あまりに突然すぎて後悔や未練は置き去りにされたが、それでも独りで野垂れ死にするよりは何倍もましな終わり方だと、奇妙な安らぎも感じていた。

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