第21話 イリアの決意

 頭痛がする。あまりの痛さに、頭蓋骨にヒビが入っているのではないかと疑いたくなる。

 最近、こんな頭痛が頻繁に起こる。意識が途切れて、自分の行動がわからないうちに時間が経過していく。

 自分の記憶の曖昧さが恐ろしく、震えが止まらなくなる。

 いつもは素早く駆け寄ってくれるリコがいない。ナルクはどこだ?


「リコッ!」


 呼ばれるまで待っていたわけではないだろうが、クロエの声に召喚されたようにリコが姿を現した。


「リコ……」


 クロエの心が浮き上がったのは一瞬だけで、すぐさま加速を伴って落下した。


「リコ……ケガをしているのか?」


 リコの右上腕に、包帯が不器用に巻かれていた。手で押さえているが、じんわりと血が滲み出ていることから、けっして浅い傷ではないとわかる。

 青ざめている顔に、ただ事ではないと直感が告げた。そもそも、今のリコを傷つけられる者など、そうそういるはずがない。


「……ラグナと戦ったのか?」

「……ナルクが、やられました」

「うっ」


 クロエの顔が瞬時に歪んだ。目から溢れる涙は、とても魔に取り憑かれた者から出たとは思えない純粋さだ。


「いいやつだった。口数は少なくて無愛想だったけど、いつもさり気ない気遣いをしてくれてた。僕はちゃんと気づいてたんだ」


 クロエはうつ伏せになって肩を震わせた。


「だから……言ったんだ。きみじゃあいつには勝てないって。あいつは恐ろしいやつだ。一緒に旅してる時、何度も敵じゃなくてよかったと思った……僕は殺されてしまう。あいつに殺されてしまうんだ」

「そんなこと、私がさせません」


 リコは跪き、クロエの頭を胸に抱いた。


「もっと仲間を増やせば……」

「……それはできない。僕はまだ人間なんだ。デーモンを増やすなんて……人間に敵対するなんて……」

「でも、あなたは私をデーモンに引き込んだ……」


 クロエは委ねていた体を起こし、リコを思いきり抱きしめた。


「恨んでるだろ? 僕のことを……」

「いいえ。身寄りがなく、毎日怯えて生きていた私に、生きる目的をくれたんだもの。恨むなんて」

「目的?」

「あなたを守ること……あなたと共に生きることが、今の私のすべてです」


 クロエの腕に力が篭もる。抱擁が痛いくらいにきつくなった。


「生きよう……これは運命だ。遅かれ早かれ、対決しなくてはならなかったんだ。ここでラグナを迎え討つ。あいつを倒して……それから、そうだな。もっとたくさんの人間がいる街へ行こう。そうすれば、もっとお腹いっぱい食べられるよ」


 もう、少し前に言ったことも覚えてないのか、内容が矛盾だらけで一貫していない。ナルクのために涙をこぼした目も、すでに赤々と充血している。

 静かだった。耳に入る音は窓を叩く風の声だけで、人々の喧噪などなく、商人の元気すぎる掛け声や、子供の笑い声さえ一切聞こえない。リコは半開きの窓から、街の様子を見下ろした。


「……大丈夫。二人なら、大丈夫です」


 乾いたリコの声。その声と同様に乾燥した土の道には、無数の死体が転がっていた。




 鬱蒼とした森の中、揺らめく炎だけが、その存在を主張していた。もう夜も更けたというのに、あちこちから鳥獣の気配がする。森全体がざわついていて、ラグナにはどこら辺が沈黙の森なのか理解できなかった。


「明日の朝には着くか……」


 焚き火の前で、ラグナは独りごちた。夕食は罠で捕まえた兎だ。軽く塩を掛けてスキレットで焼くだけのシンプルな料理だが、旅の身である彼には御馳走だった。噛む度に肉汁が溢れだし、口内一杯に広がる。食通ぶった者なら「素材の味を最大限に引き出した……」などと能書きを垂れる一品だ。それなのに、思いのほか食が進まない。ここのところ料理はイリアに任せていたので、自分で作るのも久し振りだった。


「一人で食う飯ってのは、こんなに味気ないもんだったかな……」


 飯は味気ないのに、焚き火は妙に目に染みる。

 こんな時、必ず思い出すのはかつての旅だ。苦難の連続ではあったが、ヴォルフ・ガング討伐という確固たる目的があったから、なにより、共に行動する仲間がいたから、乗り越えられた。

 イリアに対して言ったことは、結局のところ自分が欲しているものだ。光。導きとなる光。そこにたどり着ける保証がなくとも、目指すべき光があれば人は進んでいけるものだ。今の自分は揺らぎっぱなしで、どこへ向かっているのかもわからない。


「フェスラム。きみが俺の立場だったら、やり遂げられるかい?」


 揺らめく炎に浮かぶ、フェスラム・レゼントに問い掛ける。綿毛みたいに優しかったのに、けっして信念を曲げない頑なさもあった。その性格に手を焼いたこともある。思い出し、苦笑が漏れた。


「訊くまでもなかったな」


 進むためには、道標となる光の他に、一緒に歩む仲間が必要なのかもしれない……。

 バチッと火が爆ぜた。音に驚いた鳥が羽ばたき、闇に消える。ラグナは、イリアを突き放したことを、ほんのちょっぴり後悔した。




 薄く白い空と鳥のさえずりが朝の訪れを告げた。

 夜が明けたが、クロエは眠り続けている。もしかしたら気を失っているのか。リコがそう思ったのは、クロエの表情が安らかとは程遠かったからだ。この苦悶の顔を見ていると、胸が締めつけられる。

 クロエは、あと数日で完全なデーモンと化すだろう。そうなったら、もう私に言葉を掛けてくれることもなくなる。相手を思いやる気持ちなど、デーモンの殺戮の衝動とはもっとも離れた位置にあるものなのだから。そして、やがては自分も……。

 リコの思考が途切れた。気配を、いやニオイを感じ取ったからだ。間違えようがない。あいつだ。ラグナだ。ラグナ・フェアラットが近づいてるのだ。向こうもこっちの存在に気づいているに違いない。

 あの男の進行は、自分が食い止めなくてはならない。この人を……たとえデーモンに堕ちる運命だとしても、この人だけは守ってみせる。だが、あんな恐ろしい男が相手では、生きて帰れる可能性など皆無に等しい。相討ち覚悟で立ち向かわなければならない。

 相当の気力を要することだが、リコは一瞬で心を決めた。


「……これでお別れです」


 クロエの頬を一撫でして、リコは立ち上がった。




 窓を開けると、冷たい空気が顔を刺激した。思わず顔をしかめる。軒並ぶ屋根の向こうから日が顔を出し始めている。痛いくらいの眩しさに、イリアは一層顔をしかめた。

 まんじりとしないまま朝を迎えてしまった。不安や焦り。後悔と苛立ち。様々な感情が渦巻いて眠気など感じなかった。

 ラグナは光を見つけろと言った。光を見つけて、そこを目指して生きろと。私にとっての光は……?

 日の光を直視し、視界が真っ白になる。圧倒的な輝きの中に身を委ねた時、言葉では表現できない思いが瞬時に胸の中で固まった。それこそ、難破寸前の船が灯台の灯りを見つけたような、突然の福音だった。

 イリアは駆け出していた。悩む必要なんかなかった。進むべき道なら、ラグナと出会った時に見つけていたのだ。


「お世話になりましたっ」


 挨拶もそこそこに、宿を飛び出した。主は驚いていたが、宿代はすでに払っているので問題はない。

 まだ人も疎らな道を駆け抜ける。朝の冷気に頬が突っ張る。道端にたむろしていた猫が、驚いて逃げ去る。しかし、そんなことはどうでもよかった。

 イリアが向かったのは貸馬車屋だった。大きく派手なロゴで『ラーゼン』と書かれた看板を見つけた。疾走するという意味だ。迷わず飛び込んだ。


「馬を一頭、貸してくださいっ」


 いきなり飛び込んできた小さな客に、馬をブラッシングしていた男が動きを止めた。ラグナと同じくらいの年齢で、体格もほぼ一緒だ。ただ、雰囲気がラグナより粗野に感じた。


「……なんだって?」


 顔だけをイリアに向けて、再びブラッシングを始めた。


「馬です。一頭貸してください」

「………………」


 男は黙って作業を続けた。ブラシの仕方がさっきより荒い。男が不機嫌になるスイッチを押してしまったようだ。それはそうかもしれない。まだ開店前にいきなり飛び込んで、朝の静寂を破ったのだから。しかし、引き下がるわけにはいかなかった。


「お金ならあります」


 イリアが差し出したのは、ラグナが残していった金のすべてだった。

 男は、その金額にピクリと反応を示したが、やはり無言で作業を続けた。


「あのっ! 急いでるんですっ!」


 食い下がるイリアに、男はようやく作業を止めて振り向いた。


「……あのなぁ、お嬢ちゃん」


 馬の首筋を軽く叩く。


「ここは貸馬車屋だ。馬だけは貸してねえよ」

「じゃあ、馬車を貸してください」

「馬はデリケートな生き物だ。こんな朝早く来られたって、まだこいつらには飯も食わしてねえし、仕事前の仕込みだってある。無茶言うんじゃねえ」

「でもっ、急いでるんですっ」

「それはお嬢ちゃんの都合だろう。俺たちにも仕事をする上での決まりがある。ダメなもんはダメだ」

「何時になったら、貸してくれるんですかっ?」

「おまえなぁ……」

「もういいだろ、スマゥト。おまえの負けだ」


 小屋の奥から、一人の老人が姿を表した。いかつい顔つきをしており、細い目には厚みのある頑健さを宿している。長年、多種多様な人間を相手にした者だけが持つ強かさが感じ取れた。

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