第22話 濃霧の戦い
「おやっさん……」
「おまえみたいな無愛想な男を相手に、一歩も引かねえ。よほどの事情があるんだろうよ。その娘の目を見ろ。真剣そのものだ。この依頼を断ったら、男がすたるってもんだろ」
「そうは言っても……」
「つべこべ吐かすんじゃねえっ! 飯なんか食わなくても走るやつがいるだろ。連れてこいっ!」
「レブか? ありゃ……」
「いいから、連れてこいってんだっ!」
スマゥトと呼ばれた男は、ぶつぶつ言いながらも奥に引っ込んだ。老人は怒鳴り散らしているのに、場に尖った空気は残らない。よほど強い師弟関係を築かなければ、こうはいかない。
「あの、ありがとうございます。これ……」
イリアが金を差し出すと、老人はにかっと笑った。
「いらねえよ。言っただろ。困ってる女の子を助けるのは、男の務めよ」
「おやっさん。連れてきたぜ」
スマゥトが引いてきたのは、まだ若い馬だった。肌に張りがあり、毛並みも艷やかだ。早く走らせろと言わんばかりに、鼻息が荒い。
「レブリィだ。うちじゃ、こいつが一番速え」
「気をつけろよ。こいつは気が荒いからな」
スマゥトが手綱をイリアに差し出す。彼女が握ろうとすると、レブリィは大きく首を振った。
「きゃっ⁉」
薙ぎ払われはしなかったものの、イリアは驚いて尻餅をついてしまった。スマゥトが慌てて抑えるが、レブリィはなかなか落ち着かない。
「おやっさん。やっぱりこいつは無理だよ。せめて他のに……」
「お嬢ちゃん。馬に乗ったことはあるのか?」
イリアを立たせながら、老人は訊いた。
「いえ……」
「なんだぁ? 乗ったことないのかよ。じゃあ、どいつを連れてきても無理じゃねえか」
スマゥトが吐き捨てると、老人はじろりと睨んだ。
「スマゥト。おまえ、一緒に行ってやれ」
「なんですって?」
「おまえが、こいつを走らせろって言ってんだ」
「今日の仕事は? もう予約だって入ってる」
「そんなこたぁ、俺がやっとく。はやく準備しろっ」
理不尽な怒鳴り声に背中を蹴られ、スマゥトは再び奥に姿を消した。
スマゥトに手綱を握られたレブリィは、弾けるように疾駆した。視野に飛び込んできた景色が、あっという間に背後に消え去った。
スマゥトの技術は巧みで、レブリィはひたすらに駆け抜ける。
「あのっ、ありがとうございますっ」
風に流されないように、イリアは大声で礼を言った。
「おやっさんの言うことにゃ、逆らえねえ。おやっさん、相当おまえさんのことが気に入ったようだな」
「それは……どうも」
「そういや、自己紹介もまだだったな。スマゥト・グリードだ。よろしくな」
「イリア。イリア・バルトナーです」
「イリアか。いい名だ。いったい、どこに行くんだ? とりあえず沈黙の森を目指せと言ったが……」
スマゥトは根に持つ性格ではない。自分で納得して一度協力すると決めたら、とことん付き合うタイプだ。加えて、彼自身もイリアを気に入り始めていた。これほど一途な目をする人間には、久しぶりに会った。
自分も師匠も仕事には真剣に打ち込んでいるが、それは毎日の繰り返しに埋もれ、地を這う堅実な真剣さだ。イリアのように高い場所まで飛翔して、新天地を求める翼を持ったは志は、何物にも代えがたい若者の特権だ。もっとも、彼女の場合は複雑な事情が絡んでいるようだが……。
イリアがスマゥトの問いに答えた。
「エストーザです」
「エストーザ? 落ちた騎士が寄り集まってできた村だろ? あんな所になにがあるってんだ?」
「希望ですっ!」
力強く答えるイリアに、スマゥトは怪訝な表情を作った。だが、次の瞬間には好奇心に満ちた笑みを滲ませていた。
「そうかいっ。しっかり掴まってなっ!」
スマゥトの熱気が伝わるのか、レブリィは荒れ狂った風のごとく駆け抜けた。
朝霧に覆われた森の中、ラグナは慎重に歩を進めた。ひどく視界が悪く、ほんの数メートル先も見えない。所々に木の幹が見え隠れしているが、漂う霧の中だと揺れ動く怨霊のごとき不気味さがある。一方で、差し込む日差しは確かな朝の訪れを知らしめ、霧に反射し煌めきと化す様は、神話を連想させるくらいに美しい。醜悪さと神秘さを同時に併せ持つ光景は、深い森の中ならではだ。
まるで昨夜は騒がしいと感じた森も、今朝は奇妙なほど静かだった。沈黙の森の名に相応しい落ち着きぶりだ。しかし、逆にラグナの心は張っていた。生き物の気配がまるでない。眠っているのではない。いないのだ。森に棲む生き物が、一夜にして消えるわけがない。自らの意思で逃げ出したのだ。なぜか? 野生の勘が、脅威となるものの存在を嗅ぎつけたからだ。
「……間違いなくいるな」
ふと目の前の空気の流れに違和感を抱いたので、足を止めた。
足元の石を拾い、放り投げた。耳を澄ませる。石が地面に落下し、そのまま転がり落ちる音が聞こえた。
「危ねえ。ここから先は崖になってるのか。落ちたらひとたまりもないな……」
霧を払って確認しようと思った時、背中にピリッと電気が走った。
「うっ⁉」
考える前に体が回避行動を取った。
頭上をなにかが掠める気配がし、一拍遅れて木の幹が削られる乾いた音がした。
ラグナを襲った者は、その眼光で斬り掛かったのかと思わせるほど鋭い一瞥をくれて、再び霧の中に消えた。一瞬だけしか姿を見せなかったが、間違いない。一昨日の夜に襲撃してきた女だ。名前はたしかリコ。そうだ。リコ・イドォルと名乗っていた。
「忌々しいほど勘がいいのね……」
声が聞こえた。正面から聞こえるようであり、背後から聞こえるようでもある。
ラグナは余計な荷物をすべて降ろして捨てた。神経を集中させてナイフを構えた。
「先日の姉ちゃんか。この前の続きをしようってのか」
「続きじゃなくて、終わらせに来たのよ。おまえをあの人の所に行かせはしない」
「そうやって出張ってきたってことは、イリアの推理は正しかったようだな。おまえの主はエストーザにいるんだな? だが、邪魔はさせないぜ。死にたくなかったら、おとなしく引っ込んでな」
「この濃霧の中、なにをほざいてるっ」
ざざっと葉擦れが耳に飛び込んできた。方向はわからなかったが、じっとしているのはまずい。
ラグナは身を低くして、防御の構えを取った。その途端、肩に熱がほとばしった。少し遅れて痛みが襲ってくる。
「ううっ!」
転がり、幹を背につけ立ち上がった。
「視界がほぼゼロに等しい場所で襲われるのは、恐ろしいでしょ?」
リコの声が霧の中に混ざった。やはり、どこから発せられたものなのか特定できない。
「でも、私にはおまえの位置が正確にわかるっ」
ラグナは防御するのではなく、その場から離れた。あんな切れ味の爪をまともにくらったら、腕や脚など簡単に切断されてしまう。
ラグナの動きは素早かった。にも関わらず、今度は胸部を斬り裂かれた。
「うあっ⁉」
攻撃されながらも、ナイフを一直線に滑らせた。しかし、刃は虚しく空を斬っただけだ。
リコが自分の位置を把握できるってのは、ハッタリではなさそうだ。だが、どうやってる? 恐ろしく目がいいのか?
ラグナは、一度立ち上げた考えを即座に否定した。
これだけの濃霧だ。おそらく、視覚ではない。音か……匂いか……。
「逃げるだけなんて惨めね。まるでドブネズミのようね」
……考えろ。見えない以上、襲ってきた瞬間を狙うしかねえ。だが、敵は一撃離脱の戦法を取ってくる。しかも、その動きは野生の獣のように速い。
ざっと地面を蹴る音がした。
「くそっ!」
ラグナは、見えなかったが闇雲にナイフを振り回した。当たるとは思えなかったが、せめてもの盾代わりだ。完全に苦し紛れの対処だった。
しかし、ラグナの攻撃など関係ないと言わんばかりに、リコの爪がラグナの脚を捉えた。
「うああああっ!」
ラグナはバランスを崩して倒れた。硬い地面がもろに顔面を強打するが、勢いがついているので、庇う間もなく転がった。
「あ、脚がっ……!」
「ネズミから亀になったわね。その脚では、素早く動けないでしょ」
リコの言う通りだった。脚をやられては、あらゆる動作が鈍化する。しかも、けっこう深手を負ってしまった。手で抑えると、生温かい血が掌いっぱいに広がった。
この旅を始めた時、手足の一本くらい失くすくらいの覚悟はあった。しかし、今はまずい。今はまだ、その時ではない。
「我が言霊はアヴァロンの乙女。慈愛を乗せて弱者に歌えよ……」
ラグナは魔法で傷を治癒しながら、目まぐるしく頭を回転させた。
ガカッ!
近くで、木の幹が削がれる音がした。ものすごく近い。ラグナは身を強張らせたが、まだ完全に治癒しきってない。今は下手に動けない。
攻撃にも防御にも、即座に反応できるように、構えだけは解かなかった。
なぜ襲ってこない? すぐに飛び掛かってくれば、致命傷だって与えられるというのに……? おかげで、こうして治癒する余裕まである。まさか、遊んでいるわけではあるまい。いったい?
疑問が脳天まで達した時、閃きが全身を駆け抜けた。
そうか……そうかっ。
そもそも、俺の姿を捉えているなら、一撃離脱なんて戦法を取る必要なんかない。リコは、大体の位置しか把握できないんだ。そして、その方法は、聴覚でも嗅覚でもない。触覚だ。空気の流れを肌で感じ取っているのだ。この霧の微妙な流れを鋭敏に読み取って、俺の行動を先読みできるんだ。わかってみれば簡単なことだ。この濃霧の中を自在に動けるのなら、忍び寄って喉を掻き斬ればいい。それなのに、襲う前にわざわざ挑発したり、迫ってくると思わせる音を出したのも、俺をびびらせて移動させるためだ。
謎さえ解ければ、脅威はひっくり返って好機となる。
ラグナは一番近くにあった木の幹に手を当て、詠唱を始めた。
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