第18話 冷たい炎
彼女は自分にとって無視できない存在で、軽く扱えないような気がしてならなかった。彼女と時間をかけて対面したら、もしかしたら自分の過去を思い出せるのではないか。そんな期待さえ抱いてしまっている。
ナルクは考える。そのためにも、このラグナを葬らなくてはならないと。そして、すでにそのための戦意は練られている。
「ナルク……」
月明かりに照らされたナルクは、ゆっくりと、そして静かに口を開いた。
「ナルク・シント。俺の名だ。早くイリアを置け。待ってやる」
「名乗った上に、気も使ってくれるか」
こいつ……元は騎士か? 彼の第一声から得た印象だった。
ナルクと名乗った男から、ただの街人では身に付けることさえできない気高さを感じ取った。ラグラは、イリアを家屋の外壁にもたれさせた。今すぐ危篤状態に陥ることはないが、出血が止まらない。長引かせるのはまずい。
「リコといいおまえさんといい、礼儀を重んじるんだな……なんて言うと思ったかっ!」
ラグナは叫ぶが早いか、ナルクに向かって駆け出した。常人離れした脚力に物を言わせ、あっという間に間合いに入った。月光を断ったラグナのナイフが、そのままナルクの胸元を疾走する。厚い胸板が肩までざっくりと斬り裂いた。
「ぐっ⁉」
ナルクが膝をついた。
「そういうのは、相手をナメてるってんだよ」
「きさま……勝負を侮辱したな……。無抵抗なコンシアの住人を虐殺したり、決闘に不意討ちを仕掛けたり、本当に卑劣な野郎だ」
「なに言ってやがる?」
怒りと侮蔑に燃えた瞳が、ラグラを刺そうと鋭く尖る。
ラグナはナイフを構えて攻撃に備えた。かなりの深手のはずだが、ナルクから発せられる闘気は些かも衰えなかったからだ。
「む?」
ラグナは異常に気がついた。斬ってやったはずの傷から、もう出血が止まっている。しかも、ナルクの体が一回り大きくなっているように見える。
そういえば……イリアが襲撃現場を目撃をした際、人間とデーモンが一緒にいたと言ってなかったか……? それに、カイルでは体のサイズが違うとも言っていたが、もし、それが今起こっていることの途中を目にしたものだったら……。
「ひょっとして……まさか?」
ラグナは、思わずリコを見やった。彼女は口元を歪めて笑う。その凄みのある笑みを見て、自分がとんでもない勘違いしていたのだと悟った。
カエナを襲ったのも、今しがたイリアを斬ったのも、武器の鉤爪ではなく、正真正銘、本物の鉤爪だ。爪が鋭く変化したものだったのだ。
俺は……五人のうちの誰かが人間を操っていると思っていた。イリアの村を襲ったのは、あの五人のうちの誰かと、そいつに操られている人間だと。こいつらだってそうだ。今の今まで、俺を倒せと強力な命令を受けて、襲ってきたのだとばかり思っていた。
しかし、操るどころではない。魔を感染させることで、デーモンを増やしている。こいつらは、もう人間ではない。かつて人間だった者だ。名乗りを上げたり、勝負を重んじたり、重傷のイリアを気に掛けるのも、人間だった時の矜持が残っているからだ。
ラグナが自分の迂闊さを悔いている間に、ナルクは見る見る自らの体を変化させていった。
「おお……?」
盛り上がった筋肉が、傷口を完全に塞いだ。もはや体格は倍近くにも膨れ上がり、全身が灰色の体毛で覆われた。狼と人間を掛け合わせ、さらにデーモンの要素を加えれば、こんな外見になるのではないかと思わせる姿だった。
「があああっ!」
変身を遂げたナルクの動きは驚異的だった。弓で撃ち出されたような加速で、ラグナに突っ込んでくる。
「速いっ⁉」
ラグナは上半身を捻りながら横に飛んだ。肩に灼ける痛みが通過した。手で抑えるが、生温かい血が指の隙間から溢れ出てきた。
「お返しだ。マヌケ」
砂煙を纏いながら、ナルクはすでに次なる攻撃態勢に入っていた。
「へっ!」
ラグナは流血しながらもナルクに突進した。ナルクは避けることなく、掌を目一杯開いてナイフを受け止めた。体ごとぶつかったのに、足が浮きもしない。地面を削りながら数センチ後退しただけだ。
「そんな玩具で俺を仕留められると思っているのかっ?」
「刃を交えてる最中にベラベラ喋ってんじゃねえっ」
ラグナとナルクは激しい攻撃の応酬を展開した。互いの刃がかすめ、どんどん出血する箇所が増えていくが、致命傷には至らない。しかも、ナルクの方は傷を負っても瞬く間に治癒していくので、長引けばラグナの方が不利になるのは必至だった。それにも関わらず、リコは二人の激しい戦いに目を疑いたくなった。
「なんてやつ……ナルクの動きについていってる?」
リコが驚くのは無理もなかった。獣と化したナルクの動きは、野生の狼以上。とても人間についていけるはずのないスピードだ。それなのに、ラグナの動きは勝るとも劣らなかった。
「ナルクッ! 遊んでんじゃないっ」
リコの叫び声に、イリアの遠ざかっていた意識が引き戻された。
「あれは?」
ぼやけた視界に映ったのは、人間ではない何者かと激しい戦闘をしているラグナの姿だった。
「……あれは、デーモン? 援護しなきゃ……」
しかし、杖を握っていないことに気づき、周りを見渡す。傍らに置かれていた杖を引き寄せ立ち上がったが、すぐに転んでしまった。とても魔法を発動できる状態ではない。
「……あのデーモン、見たこと、ある?」
そう。ラグナと対峙している異形には、見覚えがあった。再び意識を失うまいと、イリアは必死に目を凝らして戦いの行方を追った。
ナイフと爪が拮抗し、二人は同時に一歩退いた。そのまま向き合い、互いの動きが止まった。その一瞬の隙を突き、ラグナは魔法を発動させた。
「我が言霊はグリトニルの鍵っ。地獄を目指す天使は重き扉を開けっ!」
ナルクの足場が流砂となり、飲み込んでいく。ロロミカたちを屠った魔法だ。
「うおっ⁉」
「砂で遊んでろっ」
「ふざけるなぁっ!!」
ナルクの咆哮が空気を割った。
「俺はきさまを殺して、コンシアに帰るっ。きさまの首をみんなの墓の前に放り投げて償わせてやるっ!」
「さっきから、いったいなんのことだ⁉」
ナルクは前屈みになった。信じられないことに、まだ流砂となっていない地面を両手で蹴った。
まだ完全に堕ちていないとはいえ、膂力は人間のそれを遥かに上回っている。ナルクは腕の力だけで跳躍し、流砂の戒めから脱出した。
その脱出劇は驚嘆ものだったが、イリアにはそれ以上に驚くことがあった。
「あのデーモン、私の故郷の名を口にした。そして帰るとも……」
跳躍したナルクが、ラグナに襲い掛かる。
「そこから脱出するのは織り込み済みよっ!」
ラグナは砂を掴むと、ナルクに向かって投げつけた。
「バカがっ! 目くらましのつもりかっ?」
「我が言霊はバベルの階段っ! 神々の焔を纏いて頂きを目指せっ‼」
「ラグナッ。だめっ!」
直感が走り、イリアは叫んだ。しかし、彼女の制止を無視して、ラグナの魔法は炸裂した。
「おおっ!」
魔法詠唱の完了と同時に、宙に舞った砂が紅蓮の炎と化した。圧倒的な熱を持った牙がナルクに襲い掛かる。
「ぐおおおっ!」
完全に意表を突かれ、しかも空中では避ける術などない。まともに炎の洗礼を受けたナルクは、なす術もなくあえなく落下した。地面を転がり身悶えるが、纏わりついた炎は一向に消える気配がない。
「そろそろ夜が冷える時期だ。よぉくあったまんな」
「バカな……」
リコは戦いから目が離せなかった。隙あらば加勢してやろうと考えていたが、ラグナの駆使する魔法に圧倒されてしまっていた。
砂を炎に変える魔法など、噂ですら聞いたことがなかった。炎を発生させたり、より強力な火力に増大させるならわかる。四大元素の一つである火に宿る精霊の魔力に、人間が研究し獲得した技術を重ねれば可能だ。しかし……。
「変換だと? 魔法の理をいとも容易く無視している。いったいどんな力なのだ? あいつは精霊とではなく、悪魔と契約を交わしたとでもいうのか?」
リコが手をこまねいている間に、ナルクは悶絶することもできなくなった。やっと炎は鎮静したが、もう反撃することも叶わない。醜悪な姿から徐々に人間に戻っていく。
一部始終を見ていたイリアは、デーモンの変身に愕然とした。あれは、間違いなく幼馴染みのナルク・シントだった。やはり、この街にいたのだと思った。しかし、彼女には理解できなかった。なぜ、デーモンの姿をしていたのか。なぜ、ラグナと戦っていたのか。
「……いったい、なにがどうなっているの?」
イリアは疑問を抱きながらも、一気に緊張が高まった。ラグナがナイフを手にナルクに近づいていく。
「ラグナッ。その人を殺しちゃダメッ」
イリアは思わず叫んでいた。
「こいつはもう、人じゃねえ」
「イリ……」
ナルクはイリアに向かって手を伸ばした。ナルクが気づき、同じように手を伸ばそうとする。しかし、互いに動けない二人の距離は、あまりに遠かった。
ラグナは氷よりも冷たい目で、ナイフを振り下ろした。
「ラグナァッ!」
イリアの必死の制止も虚しく、ラグナのナイフはナルクの延髄を刺し貫き、刃先は地面に達した。
ナルクは大きく目を見開いたまま事切れた。その視線は、母に助けを求める子供のように脅え、イリアを凝視していた。
「あ……」
ラグナの容赦のない仕打ちは、イリアの悪夢となって刻まれた。必死に張り詰めた意識の糸は断ち切られ、イリアはそのまま気を失った。
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