五味川純平の文学

坂本梧朗

「人間の條件」論

第1節


 五味川純平の第一作にして出世作となった『人間の條件』を読んだのは三年前のことだ。私はこの作品に感銘を受け、この作家に強い関心を抱いた。以来、五味川の作品を入手できる限り読んできた。現在、彼の作物の九割方は読了し得たと思う。ここらあたりで、五味川純平という作家とその作品について、私が感じたこと、考えたことを文字にしておこうと思う。まずはやはり『人間の條件』から始めよう。

 この作品については、実は読むずっと前からその存在を知っていた。私が子供の頃、この作品がテレビドラマとして放映されたはずで、思い出そうとすると、テレビの白黒の画面がぼんやりと浮かんでくるような気がする。ストーリーも内容も覚えてはいないのだが、戦争や軍隊のむごたらしさ、陰惨さを描いた、見ていてやりきれなくなるような作品だという印象だけはとにかく強く心に残されていた。日本が起こした侵略戦争の問題、その是非さえもが国家・国民レベルで明確にされていないこと、そのことが戦後、現在までの日本の政治、思想、文化状況に暗い影を落としていることを考えるようになって、あの『人間の條件』を読んでみようという気になったのが三年前のことだった。読み始めると、たちまち作品の世界に引き込まれていった。私は三千枚といわれるこの長編を三、四日で読み終えたように思う。そこには梶という一人の主人公の内外の状況を通して、戦時下の日本及び日本人の状況、日本軍というもの、戦闘の実際などが極めてリアルに描かれていた。人間的良心を失いたくない者にとって、その状況がいかに生き難い、非人間的なものであったかが、的確な、具体的、肉感的表現によってよく理解された。日本人の作家によってこんなヒューマニスティックな戦争文学も書かれていたのかと私は思った。私は『人間の條件』を読んだ後、比較する気持ちで、野間宏『真空地帯』、梅崎春生『桜島』『幻化』、大岡昇平『俘虜記』『野火』など、戦争・軍隊を描いた作品として文壇的に評価されている作品を読んだが、どれも『人間の條件』ほど迫真的に戦争・軍隊というものを伝えてはこなかった。それらの戦後派と呼ばれる作家達の作品は概してスタティックな小世界における個人の心理を叙述しており、その心理は虚無意識や諦観などによって特殊に限定された思念の枠の中に閉ざされている。社会的な広がりや人間相互の有機的なダイナミズムに欠けていた。それに対して『人間の條件』では梶という主人公の内面の苦悩をリアルに描写しながらも、それが閉塞状況に陥らず、彼を取り巻く社会的な諸状況、人間関係と有機的に連結されいるのだ。こういう骨格の太い文学作品が日本人の手によって書かれていたことは私には一つの驚きであり、発見だった。

 この小説は三一書房という新興無名の出版社から出版され、文壇でもマスコミでも喧伝されることなく、地域の文学サークルなどの口コミで数十万の読者を獲得していき、隠れたベストセラーとして「週刊朝日」で紹介され、さらに読者層を広げたという小説である。三一新書版だけで発行部数は四五〇万部を超えているという。単行本などを加えると一千万部を超える超ロングセラーなのだ。これはこの作品の大衆性を証明する。作者は「まえがき」で、「何を書くにしても、それが物語であるならば、面白くなければならない、(略)私がここで云う面白さは、練達の文学者達からは『通俗』だと誹謗されそうな面白さである。もし大衆の健康な欲望が求め、親しみ易いと感ずる面白さがそういうところにあるのだとしたら、私はそれを探したい。それが追随主義になるかならないかは、面白さのせいではなくて、主題の質の問題である。私はせいぜい面白く書こうとした。」と述べているから、大衆性は意識的に追求されているのだが、「主題の質」は決して大衆向きと通常考えられるようなものではない。反対だ。この小説ほど旧日本軍の非人間的実態を暴いた小説はない。例えば、陸軍内務班において慣習的に為される初年兵への虐待。それは「皇軍」の本質を示すものだが、主人公梶は初年兵をかばってその慣習と闘う。梶の行為は彼の人間的良心が命ずるものだが、彼はそのために古参兵から憎まれ、しばしば私的制裁を受けることになる。この小説におけるような内務班生活のリアルな描写と告発は先に上げた戦後派の小説には見られなかったものだ。それを可能にしたのは、根底的には作者自身が身を以てその非人間性に抵抗した人間であったという事実だろう。「皇軍」である日本軍の持つ非合理性、非人間性を厳しく告発する作者の精神は、主人公梶の行動、思念によって肉付けされる。この主人公のように意志的な主人公は日本文学のなかでは珍しいのではないか。しかもその意志の方向が近代的ヒューマニズムにあるという例は。梶は軍隊内においても、或いは植民地支配下にある中国人との関係においても、また戦場という極限的状態においても、人間的であろうと欲し、実際そのように行動する。思念の中ではなく、それを阻む社会的現実に向き合っての実際行動において人間的であろうと苦闘する主人公というのも、これまた日本文学のなかでは稀有な例だと思われる。そしてこのような主人公が設定されたことで、その対立体としての日本軍隊の非人間性がアクチュアルに照射されることになったのだ。先にあげた戦後派の作品では、主人公や登場人物が、表れ方には違いがあっても、戦争や軍隊組織という巨悪の前に、既に抵抗精神を失って一種の諦念の内にいるため、この作品のようなリアルな描出や告発ができないのだ。この小説は戦争という非人間的状況に置かれた一人の人間が、いかに人間としての良心を失わないように生きようとしたかを描いた、重苦しいとも言える真摯な主題を追求した小説だ。こういう小説が自力で数十万の読者を獲得したという事実は、大衆は愚かで、刹那的な享楽だけを求めていると考えたがる者の思考の粗雑さと空虚さを鮮やかに照らし出している。

 竹内好は河出書房新社版『現代の文学33・五味川純平集』の「解説」で、「この小説の最大の眼目は、私の見るところ、軍隊の批判にある。この場合の軍隊というのは、日本社会の縮図または投影としての軍隊ということである。」と述べ、野間宏の『真空地帯』と比較して、「『真空地帯』は名のごとく軍隊を全体社会の真空部分として、人間不在の場所としてとらえている。つまり、日常性から切り離された実存的人間の実験場となっている。ところが『人間の條件』での軍隊は、日常性から連続している。というよりも、ここでは軍隊そのものが全体社会である。この軍隊が全体社会と重なり合うという認識は、非常に重要であって、それを取り出したのはこの作品の不滅の功績」であり、その意味で「『真空地帯』以上だと私は思う。」と述べている。私も賛意を表する。この小説が「日本社会の縮図または投影としての軍隊」を描くことができたのは、作者の批判が、その軍隊を生み出し、侵略戦争を引き起こした日本の政治・社会状況そのものにまで向けられているからだ。梶は軍隊組織とだけ闘ったのではない。入営する前から、自分を戦場と死に駆り立てる国家社会との暗闘の中にいた。逆に言えば、彼にとって軍隊とはそんな国家社会の悪を凝縮して体現したものだった。この作品の後、いわゆる「十五年戦争」という惨禍を生み出した日本の政治・社会及び意識状況の批判的究明が五味川文学の最大のテーマになっていくのだが、この第一作において既にその問題意識は作品の底に流れている。

 

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