第Ⅰ7節

 千石はなぜC市へ向うのか。「なぜそうするのか、と、自分に問い詰めれば、充分な答えは用意されていないのだ。眼くるめく情欲の火花を放ってくれたヴェラもいなくなった土地へ、剣持第四郎に会いに行く。貴様などが革命のいたずらをする土地ではない。この土地の人々は早く貴様の正体を見抜くべきである。そう云いに行く。この土地は、やはり、どうしても、私の土地であった。なぜ私がいてはいけなかったのか、それを知りたい。そう聞きに行く。満洲二世千石研介は、アメリカ二世サージャント・カトやその他の者が祖父の土地を軽蔑したように、生れの土地を軽蔑しはしなかった。それは誰にも認められなかった。うわついた芝居を演じた一握りの日本人と、それを演じさせた一握りの中国人、それらの手がなぜ必要であって、千石研介はなぜ必要でなかったか、それを知りたいだけなのである。」(第六部28章)

 千石は故郷であり祖国である満洲と、恋人のヴェラを捨てて、日本へ引き揚げてきた。しかしもう一つの祖国日本は米軍の占領下にあり、そこで千石は生簀の中の魚のような状態に陥った。それはもとより千石の生きていかれる環境ではない。千石は日本を脱出するが、行く先は「どうしても、私の土地」であるC市以外にはない。千石は納得してC市を出てきたわけではない。むしろ追い出されたという意識が強い。千石をC市から追い出した最大のものは剣持に代表される「政治」だった。千石はまさにその「政治」を問いにC市へ向おうとしているのだ。この小説の大きなテーマである「政治」が、結末に近づいてはっきり顔を出した箇所だ。

 しかしこの時、C市では「千石には想像もつかない」異変が起きていた。千石が「問いただすべく目ざしていた剣持第四郎は、そのころ既に中国当局からのきびしい批判の前に立たされていたのである。仁礼が苦杯を喫したことのすべて、千石がその権威によって翻弄されたことのすべてにかかわる事項について、剣持が清算を迫られはじめていた」のだ。仁礼に続く剣持の失脚だが、この叙述を加えたことに、政治や革命というものをリアルに見つめる作者の冷めた目が感じられる。こうして、その意図が空振りに終わることが定められている行為を千石は決行することになる。

 出発の日、波止場に現れた千石は、所定の場所に自分の乗るべき船を探すが見当たらない。警官と私服の男が千石目がけて走ってくる。その後ろから、白い鉄棒をかぶったMPが大股に歩いてくる。千石は観念した。まさに日本は「生簀」であり、千石の行動は逐一米軍に掌握されているのだ。「お前はCへ密航する計画だったんだな? 」「お前が主謀者か? 」と私服の男が訊く。千石は肯定する。「共犯は誰と誰だ、ん? 」「いません」「いないことはあるまい。素直に認めたんだから、云ってしまった方がいいよ。どうせわかることだ。米軍の方ですっかり調べ上ってるんだから。ん? 」千石はニヤニヤして答えない。「立派な紳士が無分別なことをしたもんだったな」と私服はからかい半分に笑う。「どんな情報を持って行くところだったか、聞かせてくれんか」「…自分のための情報を取りに行くところだったと云ったら、信じますか」千石の顔には、冷やかな、刺すような笑いが現れ、「私は女に会いに行くところでした」と言う。これがこの長編小説の結末だ。千石の最後の言葉は私服の男に対する揶揄をふくんでいるとはいえ、それだけではあるまい。ここでの「女」はヴェラであり、C市へ向う千石の心にヴェラが存在していたことは確かだ。

 日本に帰って以後の、千石のヴェラに対する気持をたどっておこう。

 米軍のカマボコ兵舎に勾留されている時、千石はスケッチブックにヴェラの鉛筆画を描いた。スケッチブックは先に釈放された朋子に頼んで差し入れさせたものだ。「千石はヴェラの絵を幾つとなく描いた。一つ一つ彼女の微細な点を思い出し、彼が見たことのある表情の変化のすべてを想い返した。この分で行くと、千石が釈放されるまでには、三百人ものヴェラが出来上るにちがいなかった。」(第一部23章)小説では、千石のC市での生活の叙述はヴェラとの再会を回想することから始まるが(それはC市を舞台とする出来事の叙述の始まりでもある)、その回想を引き出す役割をするのがこの鉛筆画だ。巧みな導入と言える。ヴェラとの恋愛を捨てて日本に来た千石だが、ヴェラへの思いは断たれていない。「俺は絵でも描きながらゆっくり考えてみるよ、千石研介てえ男は一体何者だったかをね」と朋子に言って描き始めた絵は、ヴェラの裸体画や肖像画ばかりだった。ヴェラの裸体画は千石に、それが生身でないだけに、「味気ない失望と、灼けるような渇望を同時に覚え」させる。その絵は「薄暗いだだっぴろい板敷の檻の中にいる一人の男に、息づまるような喘ぎとその切ない苦しみを味わわせるには充分であった。七百浬の海の向うに、その女がいるということが。その女は、いまそこにいるであろうし、かつてこの男を愛したにちがいなかったということが。それにもかかわらず、もはや、七百浬の海を隔てて、おそらく、いかなる力をもってしても、過ぎ去ったすばらしい日、少なくとも、すばらしいと見えた数々の刹那は、決して甦らないだろうということが。」(同前)ここにはヴェラへの愛惜の気持があふれている。さらに、「俺は、自分が行きづまってくると惚れた女からも逃げ出すような男だが」(第六部13章)という言葉もある。千石はC市を去ったことをヴェラから「逃げ出」したと自分でも思っているのだ。「なぜ捨てたの? なぜ逃げたの? なぜ! なぜ! /研介は胸が疼いた。取り返しのつかぬことである。愛欲のために一生を棒に振っても、取り返しのつかぬ後悔を味わいはするだろうが、いまのこの切ない甘苦しさからだけは、免れるだろう。もしいまヴェラをかき抱いて詫びることができさえしたら、そのひとときのために一生を支払ってもよかった。」(第六部15章)ここにはヴェラとの生活を捨てたことに対する悔いと懺悔が明確に出ている。千石はできるならもう一度ヴェラとの生活を始めたいのだ。

 C市へ戻るという志摩を止めた日の晩、千石は「途方もないこと」を考える。千石自身がC市へ向けて船を出すのだ。七十二時間後に船はC市の入江に入る。渚まで泳いで、山を越え、市外のはずれに下りる。そこからヴェラの家までせっせと歩けば一時間だ。窓を叩き、叫び声をあげるヴェラを抱き締める。それからヴェラを連れて海岸に戻り、入江から船を出す。こちらに着いたら二人はどうせ捕まるだろうが、それでもいい。「私は女を盗みに行ったのだ。純然たる愛欲の行為である。政治は介入しないでくれ。男と女が抱き合いたくて抱き合っているときに、アメリカがどうなろうが、ソ連がどうなろうが、知ったことか! 」しかし、窓を叩いた時、ヴェラのベッドから他の男、たとえばイワノフが起き出て来たらどうする。「それなら、それでもいい。なに、ちょっとね、気になっていたもんだから見に来たんだが、安心したよ。おやすみ。さようなら。それこそほんとうのさよならだ。はっきりわかりさえすればいいのである。満洲は既に、千石の家でも、女でも、幸福でも未来でも、なくなっているのか、いないか、はっきりしさえすればいいのである。/けれども、もし、ヴェラがいなかったら? 知らぬ人が出て来て、ヴェラ・カチャーエワはもうとっくにどこかへ行ってしまったと云ったら? 」(第六部20章)この時千石は、ヴェラの消息をもたらすことを条件に、志摩に五十万円を貸すことを思いつくのだ。

 帰ってきた志摩は、ヴェラは本国へ行ったそうだ、と告げる。「…連行されたのか? 」と訊く千石に、「そうじゃない。職があったらしい。志願したというんだ」と答える。これを聞いた千石は、「浜辺で戯れた異国人同志の少年と少女の物語は、二十年かかって今日終ったのだ。遠い、小さいものが、一瞬の間に途方もなく大きくなって、それが忽然と消え去ったよう」(第六部26章)に感じる。C市にヴェラはもういない。それを知っていながら、物語の結末に「私は女に会いに行くところでした」と千石が言うのは、千石のなかにヴェラが生き続けているからであり、千石の求める自由とヴェラが結びついているからだ。それはむろん「純然たる愛欲の行為」であり、政治の介入を拒否するものだ。この言葉はその意思表示も含む。千石にとってヴェラはその求める自由の不可欠の要素であり、「女に会いに行く」とは「自由を求めに行く」と同義である。しかし、千石の自由への旅立ちは、またも米軍の占領政策という政治の壁によって挫折させられる。「自由との契約」の未完を告げてこの長編小説は終るのだ。


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