第Ⅰ8節
5 まとめとして
この物語は戦後の歴史の激動のなかを、人間としての道義と誇りを失わずに生きようとした一人の男の挫折を描いたものだ。その男の人生には、敗戦、「満洲国」崩壊、引き揚げ、米国による占領という日本人の国民的経験が刻印されている。歴史の流れと作者自身の体験にしっかり立脚し、現実と切り結ぶ緊張感を持って堅固に構築された物語は、容易に覆し得ない重量感を持つ。
五味川は第一作の「人間の條件」以来、戦争という国民的経験を一貫してテーマに据えて追究した作家である。しかも彼は第一作以来、日本のいわゆる十五年戦争を侵略戦争と見る視点を貫いている。本作でも、主人公千石研介の形象を始めとして、その認識は太く流れている。日本の戦後の文学において、こうした視点で描かれた作品は希少だ。殊に本作が発表された戦後十数年という時点では、侵略戦争という明確な認識に立って描かれた作品は、少なくとも「文壇」文学の中にはなかったと思われる。ここに五味川文学の大きな先進性がある。
五味川の作品は、大枠としての歴史の流れの中で、人間的主体的に生きようとする主人公の苦闘を、具体的状況に即してリアルに描くのが特徴だ。本作においても、主人公千石研介の形象は現実に根を持ち、その行動の一つ一つは彼が置かれた歴史的具体的現実と噛み合う形で展開している。五味川はリアリズムに立つ作家だ。
千石は常に行為の人としてあり、彼の「自由」への模索は観念的に行われることはない。「文壇」的に評価されている戦後文学の主人公達が概して具体的行為に乏しく、思念と心情の域内にとどまるものが多いのとは対照的だ。価値あるものへの希求が人間の主体的行為として描かれることは「人間の條件」の梶と共通する。五味川文学は行為の文学である。それ故、千石の挫折は重い現実感を持って読者に迫る。千石のような志向を持ち、実践した人物が挫折していく過程のなかに、日本という国の戦中・戦後の歴史が批判的に浮かび上がってくる。
この小説のテーマの一つは「政治」だ。千石研介の人生を規定し、彼を挫折させていったものこそ「政治」であった。彼の前半生は、中国侵略、敗戦、「満洲国」の建国と崩壊という日本の政治の流れに規定されている。それは千石にとって望ましい政治ではなかった。日本の敗戦を迎え、彼は新たな望みを持った。それまでの軍国主義・帝国主義の政治ではなく、民族が平等な立場で協力協同する新しい政治が行われる社会が到来するのではないかという期待である。彼自身そういう時代に相応しい人間となるべく自己変革の努力を行うが、うまくいかない。彼を挫折に導くものは皮肉なことに、彼がそこに期待を寄せていた政治勢力、社会主義、共産主義を奉ずる勢力の中にいた。それは自己の栄達の手段として「共産主義」を標榜する者達だが、彼等がその勢力のなかで実権を握っているのだ。千石はその「自由」への模索において、彼等とも闘わなければならなかった。千石が彼等の行う「政治」についてどのような考えを抱いていたか見てみよう。
「彼は剣持を決して許すまいと心に誓った。剣持が千石個人に悪意を持つていたからだとは思わなかった。逆に、千石が剣持個人に悪感情を持っているからでもなさそうである。千石であろうとなかろうと、剣持は、彼の『政治的実力の差』にモノを云わせて、利用するにちがいない。千石のような有産階級の出身に限らない。同志であろうと、彼は彼の立場にとって有利な限り利用し、不利となれば、捨てて滅ぼしてかえりみないであろう。それが『政治』だと考えているようである。それが、革命の途上にある人間リアリズムだと信じているようである。千石が、しかし、剣持を許したくないのは、それが剣持の生得の性格らしいからではなかった。剣持に限らず、彼のような立場に立つ者は、そうせざるを得なくなるであろうし、そうすることを正当化するためには、どんな立派な口実でもととのえられるという仕組みが、許せないのであった。」(第四部26章)
ここには千石の政治に対する理想主義とも言える意識が表れている。彼は、剣持という個人ではなく、人間を利用できる限りは利用して、不用、有害ともなれば、捨て滅ぼして顧みず、しかもそれを美辞麗句で正当化できる政治の仕組みが許せない。千石の政治に対するこのような意識は、例えば、メーデーの会場で、朝鮮人、中国人、日本人の数万の民衆が、「朝鮮人同志、歌え! 」「歌うぞ! 中国人同志」「日本人同志、歌え! 」と革命歌や行進歌を次々と歌い、大合唱になる場面では次のように表れる。
「千石は仲間から追放された獣のように、移動する大群の外郭を一人きりで歩きながら、砂を噛むような思いを噛みしめていた。これは全く彼一人の気の持ちようであった。大群は決して彼を疎外しはしなかったのだ。入って行きさえすれば、どこの隊列でも彼を巻き込んでしまうはずであった。彼にはそれが見えていながら、孤立から敢て出ようとしなかったのは、祭典が盛大であればあるほど、割りきれぬしこりを意識せずにはいられなかったのだ。彼は、不思議なのであった。たとえば、彼と剣持とに、この祭典は同じ歌を歌わせるということがである。また、たとえば、あの白禄寿の背信の件では、あれほど非友好的だった朝鮮人が、いまは互に歓呼しあい、声を限りに日本人と合唱しているのである。あの契約書の条項は、李応万の犠牲と彼千石の苦痛とによってしか満たされなかったということは、もはや全然問題ではなくなったようなのである。千石のような人間の心の狭さだけが、合唱を妨げるにすぎないのだと、それは高らかに笑っているようでさえあった。」(第五部23章)
千石が意識する「割りきれぬしこり」とは何か。それはうわべの「連帯」が隠している不正や不信や不和だ。千石はメーデーの大群衆の歓呼の中でも、いや、歓呼の中だからこそ、そのことに目を閉ざすことができない。千石は非政治的な人間ではない。それは日本人組合の活動への協力、献身、活動家仁礼や志摩、李応万らとの交流が示している。ただ彼は潔癖なほどに虚偽や不正や不信によって成立している政治を憎むのだ。千石は一言で言えば、人間的な道義に立脚した政治を求めていると言える。ところがそのような政治はC市にもなければ占領下の日本にもない。権力者が行う政治は常に不道義なのだ。そこに千石の政治への不信が生まれ、政治に対して一線を画す態度が生まれる。彼は政治の束縛を拒否し、自分の主体性を保持しようとする。剣持やアメリカ占領軍への抵抗がそれを示している。彼が密航を繰り返すのも自分の行為を政治権力によって束縛されたくないという意志の表れだ。小説の結末で、「どんな情報を持って行くところだったか、聞かせてくれんか」と問う警察の男に、「自分のための情報を取りに行くところだった」と千石は答える。自分はスパイという政治の走狗ではなく、逆に必要とあらば、政治の規制を無視して動くほどの主体性をもった人間だという宣言だ。そしてその主体性は「私は女に会いに行くところでした」とヴェラにつながる。もちろん一個人が政治権力に抗えるはずもなく、千石の挫折は定められているのだが。
千石、志摩、仁礼、ヴェラ、その他様々な登場人物達の生きざまを通して、この小説からは道義ある政治とはなにか、という問いかけが基調低音のように聞こえてくる。そこには戦争を告発し続けたこの作家の、道義に立たぬ政治こそが戦争を生み出すという認識がある。
この小説のもう一つのテーマは男女の愛の問題だ。本作に限らず、この作家にとって男女の絆の問題は戦争と並ぶ大きなテーマだ。「人間の條件」では、それは梶と美千子との夫婦愛のありようとして追究された。本作でも、千石とヴェラ、あるいは朋子の関係として追究されている。男女の結びつきに、人間のつながりの原基を作者は見ているようだ。また、その結びつきのなかに、男女それぞれの人間としての本質が表れると考えているように思われる。政治的権威や権力にたいしては剛直な抵抗を示す千石が、ヴェラとの交渉のなかでは、傷つきやすい、ひ弱とも言える内面をさらす。逆にヴェラという可憐な女性が境遇の困難さに対峙して千石に勝る剛毅さを示す。二人の恋愛は実らないが、この二人には民族や国家を越えた、男と女の本質的な差異も表れているように感じる。
五味川は男女のつながりを社会状況と切り離しては描かない。男女の愛情の有り様は、その男女が置かれている具体的な社会的状況に密接する形で描かれ、追究される。本作においても、満洲生まれの日本人と亡命ロシア人の娘という二人の社会的設定は、その恋愛の始まりから破局までをリアルに規定していく。五味川にとって男女の結びつきはその個人の一大事であるとともに社会的事象だ。
歴史的事実を踏まえ、重たいテーマを追究しながら、五味川の小説は面白い。その要因の一つは登場人物のキャラクターの魅力だ。五味川の作品の主要な登場人物はそれぞれが存在感があり、個性的だ。本作であげれば、千石に近いところで、ヴェラ、朋子、志摩、李応万、敵役的な剣持、山口、そして達也、野依春江、狂言回し的な役割をする立花女史、白禄寿、劉猶棟、尹、塩沢、イワノフ、日系米人で千石を尋問したサージャント・カト、ロシア人メロニンコなど、それぞれが独特な個性と雰囲気を持っている人物群だ。さらに言えば、これらの人物のなかの多くが、その背後に同種のたくさんの人間の存在を感じさせる形象になっている。つまり同種の人間類型の代表、即ち典型として形象されているのだ。このことが小説の世界に具体的な幅と厚みを与えている。
こうした個性的で存在感のある人物達が、具体的な状況のなかで互いに対立し、憎しみ合い、あるいは愛し合う。その様が生彩をもって描かれている。これが五味川の小説の面白さの核心をなすものだ。小説の面白さとしては正統的だ。
登場人物の対立は時に肉体的な格闘に至る。本作で例をあげれば、千石と水夫吉野との格闘(第一部10章)、李応万とロシア人との衝突(第五部7・8章)などがある。人間と人間が肉体的にもぶつかり合う、こういう活劇的展開も小説の面白さの一部だが、作者はそこに至る必然性を十分に描いている。心理的にも克明だ。「活劇」は登場人物が抱える対立の発展としてあるのであって、読者の興に迎合して付加されたような印象は受けない。先に五味川文学は行為の文学と書いたが、五味川の小説の登場人物は皆切実に行為をしている人間であって、思惟の世界だけで浮遊しているような人物はいない。その素地があるからこそ、行為と行為のぶつかり合い、即ち格闘も生まれるのだ。五味川文学は人間の行為がよく見える文学であり、形象の鮮明な文学である。
もう一つ、五味川の小説の魅力としてあげられるものは、既に触れたことだが、官能表現だ。人間の官能的な把握は小説における人間把握の重要な要素の一つだと思うが、五味川の場合、特に男女の関係を描くとき、それは必須となる。セックスの場面の描写を一例として挙げよう。
「千石は、女が男に対して誇ることをやめない白い胸の二つの丘を手掴みにした。それは手にあまって、別個の生き物のようにはみ出ようとした。そこからなだらかにひろがっている豊沃な、決して男が知り尽すことのできない腹のうねりを見た。彼はヴェラの大腿を抱き、撫ぜさすり、頬をつけ、口づけをした。一方そうすればするほど、他の一方が、同時にはどうしても味わえぬ魅惑のまるみと、豊かさと、やわらかさを、彼の眼の前に打ちふるわせて、彼を焦燥と狂熱の淵へ引き込まずにはいなかった。そのすべてが、いつも自分のものであって、決して自分のものになりきったという証拠を残しはしない。それは、その都度、すべてをさらけ出しながら、決してそれがすべてだと思わせはしない。いつも嵐のような喘ぎの中を、頂上までのた打ち続けながら、決してこれが頂上の涯ということがない。」(第四部26章)
この官能表現は展開される愛欲の世界に読者を引き込むだけでなく、行為の後の男女の心理の機微に触れるところまで読者を導いていく力を持っている。
私は「人間の條件」を読んで、日本軍の内務班の具体的様相を初めて知ったし、日本軍の中国侵略の状況についても初めて具体的イメージを持つことができた。私が手にした大手出版社発行の近代・現代文学全集に収載されている作品のなかには、少なくとも私が目を通した範囲では、「人間の條件」ほど形象として鮮明にそれらを伝える作品はなかった。また、私は本作で、中国大陸で敗戦を迎えた日本人の引き揚げまでの状況、引き揚げの具体相を文学作品として初めて読んだ。そして思うことは、戦後の日本文学には、戦争・敗戦という重大な国民的体験を真正面から描いた作品がいかに少ないかということだ。五味川の作品は、日本人が決して忘れてはならない歴史的な体験を、日本文学には珍しい大きなスケールで、多様な登場人物の立体的な絡み合いの中に、しかも一貫した太いヒューマニズムの立場から再構成して描き出した日本文学の貴重な収穫であり、遺産だ。そこでは本作においても示されているように、主人公とその周辺を描くだけではなく、同時代を生きる日本人の様々な姿が広い目配りで捉えられ描出されており、まさに国民文学と呼ぶにふさわしい広がりを有している。日本の既成「文壇」はこの作家を「ほぼ一貫して、無視、黙殺しようとした」(川村湊「満洲崩壊ー大東亜文学と作家たち」)のだが、その理由の一つは、「文壇」の主要なメンバーが戦争推進に協力・荷担した過去を持ち、それが未だに清算されていないことにあると思われる。五味川の存在を無視することは五味川の作品を支持した多くの国民を無視することであり、日本文学を国民との活きた交流を欠いた、貧血性の枠の中に閉じ込めるものだ。日本文学の逞しい発展のためには、こうした狭隘な枠は打破されなければならない。
了
五味川純平の文学 坂本梧朗 @KATSUGOROUR2711
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