第Ⅰ6節

 志摩が当初の予定通りC市へ戻ることになる。そのために五十万を貸してくれと千石に頼む。千石は「…くだらんのだ。実にくだらんのだ。あんたの忠誠は! 」と言って志摩を止めようとする。対日交易から利益を得ようとしている剣持に利用されるだけだと説く。「剣持が決してこころよく思っていない俺の船の出港の段取りをつけて、あんたを乗せたのは、そりゃ名目上はあんたに政治的な意味をくっつけはしただろうが、実際はそういう商売が成り立つかどうかのテストだったんだよ…」「あんたにこっちを偵察させて、うまく橋渡しがついたら、もう千石商事なんてブルを使う必要はない。政治的信頼の置ける仲間だけでルートを維持しよう。そういう肚だろう? 」「内戦は当分続くし、ほしい品物は日本にたくさんある。だから剣持を頭目とする日本人の徒党が日本へのルートを拓けば、剣持の株は上る。大義名分は立派なものだ。中国の革命に非常な危険を冒して日本人は協力した。その指導者は剣持第四郎であった。どうだね? 剣持ならずとも、食指は動くさ。危険を冒すのはそいつじゃなくて、志摩というお人よしや紺野というばか者だからね。おまけに、あんたがなにがしかの情報だのデータだのを持って帰る。剣持はテンホー、テンホーってわけだ」「うまく行って、あんたが向うに帰ったとしないか。いや御苦労御苦労だ。君の英雄的行為は賞賛に値するよ、だ。そのあげくに、あんたには密輸のヴェテランという箔がつく。そしてそれだけだ。危険な仕事のたびに、それは志摩がいいだろう。志摩にやらせよう。あいつは喜んでやるだろう。何度目かに、あんたは必ず玄海灘に沈むか、監獄の臭い飯を食うか、どっちかになる。」それに対して志摩は、「組織生活ってものは、あんたのように自由主義者の考えるようなもんじゃない。意味があるかないかは、組織全体の判断に属している。俺はその一部分にすぎん」「あんたの云うとおりかもしれん。それにしたって、その計画が支持される必要が向うにはあるんだからね。個人がどんな関与の仕方をするにしても、客観的に無意味なものなら、はじめから現れないよ。それが現れたとしたら、個人がどうあろうと、それにはそれだけの意味があってのことだ」と答えて意志を変えない。千石は、「一万円って金がどんな金だか、案内して見せてあげる」「子持ちの娼婦が一万円稼ぐために、こどものそばで何べんきわどいことをやらなきゃならんかね」と言い、じっと客を見つめる小さい女の子を連れた外人相手の娼婦の所へ志摩を案内しようかと言う。「自分の体で稼ぎもしないで、何十万円も海に放り込んで、節操を守ったと信じてる男に教育してやろうかと思ってさ」という千石の言葉に、さすがに志摩は腹を立て、借金は「頼まんよ」と言う。

 その翌日、千石は「アメリカ機関の者」と称する二世の二人の男からの尋問を受ける。尋問者は、千石が連れて来た志摩と石川の二人の工作員は大陸への密航の準備をしていると告げる。工作員など連れて来た覚えはないと千石は否定するが、相手は首を振る。そして二人の計画に千石が関係しているのかと尋ねる。千石は否定する。尋問者は、「今後、もし誰かが、あなたに、当然占領政策にとって問題になると考えられる計画の話をしたら、あなたは私に報告をしなければなりません」と言う。既に千石には「Sの一五三番」という番号が付けられていて、報告の際にはその番号を係に言えばいいと言う。千石が「忠実であれば、誰もあなたの自由と利益を害すること」はないが、そうでないなら、「自由と利益は、直ぐに、タダチニ、なくなるよ。どこにも! 何処へ行っても! 」と言われる。千石は米軍と一切関係を持ちたくないと言うが、アメリカによって保護されている日本の自由と利益はアメリカの政策に従属するから、千石も例外ではない、と言われる。

 戻された千石は志摩に忠告する。工作員と見られるようなことは一切やめること、C市に行くならもう帰ってこないこと、がその内容だった。そして、「俺はアメリカのために生きてるんでもなければ、ソ連や中国のために生きてるんでもない。ところが、いまやそういう生き方は通用せんのだな。俺は千石研介じゃなくて、Sの一五三番としてだね、あんたや石川や趙や、その他誰からでも、占領政策にかかわりがあると考えられる事柄で相談を持ちかけられたら、報告しなければならんのだそうだよ」と言う。志摩は「君の方が番号が若いな。俺はSの二七八だぜ」と笑い、「せっかくの御忠告だが、俺は行って、帰って来なくちゃならんよ」と応ずる。

 千石は結局、志摩に渡航のための金を貸すことになる。ただし、二つの条件をつけて。一つは元本を必ず返すこと、これには剣持や馬発財など、志摩の背後にいる者に無償の奉仕をする気はないという意思表示がこめられていた。もう一つは、志摩自身の目でヴェラのその後を確かめてくることだ。志摩は承諾した。

 千石が志摩に金を貸したことで、渡航の計画は実際に動き始める。趙(尹)が船と船員を手配する。趙は日本の側の責任は自分が負うが、向う(C市)のことは千石が責任を負うことを条件として求める。尹は志摩を信用しないのだ。「承認してくれよ。あんたには迷惑はかけん」という志摩の言葉に、千石は承諾する。尹が送る代理人も積荷の見返りも返してもらえない場合、千石は責任者としてC市に行かなければならなくなる。千石は密渡航の経験者として、尹と志摩にアドバイスをする。その後で千石は自分の本心を疑う。「志摩に金を貸したのは、米軍の機関に反発してのことだけではないにちがいなかった。千石自身が船を仕立てて行きたいのではないか。それをあえてしないのは、剣持やその背後の権力筋から利用されるとわかっているからだけなのか。どのようにか変っているはずのヴェラを見るのが怖しいのではないか。だから、志摩に見届けて来てもらって、終ったものは終ったものだとはっきり心を仕切りたいのではないか。それともまた、引揚げて来てアメリカの生簀の中に落ちてみて、向うを捨てて来たことを内心では後悔しているからなのか。」(第六部24章)ここで千石が理由として挙げていることは全て彼の心のなかにあることだろう。志摩に金を貸すという行為が千石のなかに潜在していたC市への思いを起動させることになる。

 志摩はC市に着くと先ず剣持に会い、到着を告げた。彼は趙の代理人として船に乗り込んだ楊の身柄とその積荷を然るべき中国商社に引受けさせる手配を剣持に頼んだ上で、組合の仁礼のもとへ走ろうと考えていた。千石から借入れた資金で積んだ荷を組合を通じて捌くつもりだった。ところが剣持は志摩をホテルに軟禁した。志摩がのこのこ出歩くと、日本から密航してきたスパイの嫌疑でソ連にパクられると言うのだ。千石や志摩の日本への出港はソ連の了解なしで行われ、中国の幹部も一部しか知らないことで、日本から船が来たことはすぐ知れ渡るから、志摩が出歩くと当局は一応志摩を逮捕しなければならず、悶着のもとになるというのがその理由だった。志摩が千石に出資させた荷物を組合に入れたい、それが千石の意志でもあると言うと、剣持は「君に商売人の真似をしろと誰が云った! 」と許さない。志摩は仕方なく従い、仁礼に自分の帰来を伝えてくれと頼む。ところが仁礼は既に失脚し、組合にはいなかった。

 中国側は日本人技術者の残留を求めた時に、三カ月ごとに給与を三分の一ずつ引上げて、前年末には倍にすると約束していた。第一回目の引上げは行われたが、国民党軍の厳重な封鎖のため生産再開が予定通り進捗せず、二回目以降の引上げは不可能になった。残留者中の不平分子はその不満を利益代表の立場にあった仁礼に集中した。仁礼は中国側に対して不利な状態に陥る。それは剣持にとってライバルを失脚させる絶好の機会であり、一方、仁礼の側では、彼の見識と人柄を高く評価していた有力な中国人幹部がこの時期に他所に転出するという不運も重なっていた。仁礼は非協力分子に対して妥協的であるとか、プチブル的偏向があるとか、民族主義的組合指導に欠陥があるなど、剣持一派からの攻撃は急を加えた。仁礼の形勢が悪くなると、難民救済の時期に仁礼が立てた物資購入と分配、資金獲得の企画についてまで、すべて営利行為であり、仁礼は革命同志にもあるまじき経済主義だという批判が行われた。仁礼の身辺には中国の保安隊の監視の目さえ光りはじめた。絶望に近い諦めが仁礼を捉えた。反動的人物と目されている技術者宅に仁礼が出入りしているという誤報によって、彼の家は保安隊に捜索され、仁礼は現職に留まる理由も希望も悉く失った。

 志摩はこういう事情は知らなかった。軟禁状態の彼は仁礼に会いたい旨を伝える使者を密かに送るが、使者が用心して志摩の名前を言わなかったため、志摩の帰来を知らない仁礼は、自分を陥れる罠かと警戒して動かず、志摩は仁礼に会えず終いになる。

 志摩は軟禁されて動けず、荷物の捌きは全て剣持が行った。そして剣持は日本へ帰る船に、中国商社と取引した楊の荷物以外は積ませなかった。剣持は志摩が乗ってきた船を千石が出したものと考え、楊の素性を調べた結果、国民党系の中国人であるということから、千石は国民党と手を結んだと判断した。そんな船に貴重な物資を積むことはできないというのが理由だった。

 荷物を積んで帰れなかった志摩は千石に借金を返す手段もないのだが、入港後すぐ千石のもとへ行き、楊に頼んで返すと釈明する。千石は志摩の話を聞いて、「あの船は怪しいから、貴重な物資は積めないと云ったんだな?」「荷物を積めない船に、人間の命は積めたのか。しかも、国民党の人物といっしょに、同志とやらの命をだ」と問う。志摩は答えられない。

 帰ってきた船は警察とMPに押さえられる。志摩は千石のもとへ、楊は趙のもとへ知らせに走ったため、残された船員達が停泊中の船の中で酒を飲み、女をひっぱりこんで騒いだのだ。船内は捜索され、処分していなかった海図も見つかり、密航はばれてしまう。志摩は免れたが、雇主、荷主として名前の出た趙(尹)は逮捕される。

 この件で生まれた剣持への新たな怒りが、千石にC市への密航を決意させる引き金となったように思われる。

 千石の密航の意志を知った志摩は自分も行きたいと言う。積荷は没収され、千石からの借金を楊に頼んで返すこともだめになった志摩は、責任を意識しないわけにはいかない。それに志摩には確かめたいことがあった。「俺は剣持に手玉にとられたのか。剣持は内地の若干の情報と商品がほしかっただけではなかったのか。行く必要もないところへ、俺はばか正直に行ったにすぎなかったのではないか」、それは千石が事前に志摩に言い、志摩が肯んじなかったことだが、それを自分で確かめる必要が志摩には生まれていた。千石は志摩の申し出に、「…腐れ縁だな。しかし、向うへ行ったら、俺のことに口を出すなよ。あんたはあんた、俺は俺だ。俺は、あんたたちが認める権威を、認めないんだから」と答える。だが、志摩に告げた出航の日はわざと一日ずらしていた。千石には志摩と行動を共にする気はなかった。

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