第Ⅰ5節
千石は神戸に行って尹から四十万円を借りる。尹は交換条件は何もつけなかった。それどころか、回収した積荷をまとめて買ってもいいという。尹が買い取った積荷を、千石が改めて売る。そうすれば時間をかけて売れるから、差益金が大きくなる。その差益金から歩合を千石にやると言う。尹の事務所を使ってその仕事をすればいいとも言う。千石は、積荷を回収してからにしませんか、とその話を受け流す。尹は千石に損得勘定だけでなく、特別な好意を抱いているようだ。尹と千石の間には、明確に表現されてはいないが、かっての李応万と千石の間柄のように、商業上のつながりだけでなく、人間的な共感のようなものが流れていることが感じられる。前に引用した部分で、尹は「あなたが、また向うに帰りたくなる」と千石の今後を予見するようなことを言うが、志摩に続くものであり、千石と心が通う者には見えるということだろう。
借金の話がついた夜、千石は尹に接待されて、外国人向けのクラブに行く。そこで横に座った女に誘われ、女の家に行くことになる。女は尹から金を貰い、千石にサービスするように言われていたが、金を浮かすためにホテルに行かず、千石を自分の家に誘ったのだ。小説の中で名も与えられていない女だが、この女と千石とのやり取りを描いた一章(第六部11章)は印象深い。
女は千石に、「お客さん、奥さんは? 」と訊く。そして、「もし奥さんがいるとして、奥さんに間違いが起きたら、どうするかしらね? 」と言う。彼女は突然家に入ってきた進駐軍の兵士に犯されたのだ。女はそういう場合の夫の対応を、「女房をどうするかよ。いっしょに泣く? 慰めてやる? 」と千石に訊く。女が受けた対応は、「出ていってくれと来たもんだわ! 五日目によ。隣近所がうるさいんだって。それも事実よね。あたしの代りになったかもしれない隣の女房の奴、清浄でございますってな顔して、あたしを見たわよ。近所の男は、あの女は誰でもやらせるぞってな眼つきでさ。亭主は汚い女とは寝られませんと。警察に泣きついたら、強姦されたという診断書を出せだって。書いてもらったわ。ばかみたい、五日も六日も経ってね。外陰部異常なし。精虫証明し得ず。淋菌証明し得ず。内生殖器異常認めず。持って行ったら、これじゃなんにもならん。誰から強姦されたか証拠が出せなければ、米軍にかけ合うこともできんてさ。おまけに叱言までくったわ。災難は気の毒だけど、油断してなきゃ避けられる災難だって。いきなり入ってきて、亭主は慄え上ってしまっても、あたしだけは避けなきゃいけなかったってわけ。そのあげくに、出て行けなのよ…」ここには占領下、日本の女達をとらえた運命の一つが語られている。日本人の無権利状態も描かれている。見過ごせないのは、被爆者の場合にも共通することだが、この女のように被害を受けたものが周囲から白眼視されるという、現在も存在する日本社会の精神風土が抉られていることだ。それは加害者が抗い難い強大な権力を持っている場合に顕著になる精神傾向だ。被害者に罪があるというこの論理は、結局国民が、自分の持つ権利を自ら縮小させ、自らを無権利状況に追いやる作用をする。女は子供を連れて家を飛び出した。その女の子と千石は女の部屋に入ろうとする時対面する。「横手の半間の襖が、外開きに開いて、小さな女の子が夜の訪問者を見上げた。まだ学校へ上ってはいまい。かわいらしい寝間着姿である。体の半分ほどもある人形を抱いていた。大きな邸宅へこのまま移しても似合いそうな恰好であった。恰好だけが、そうなのである。女の子はひとこともものを云わなかった。黒い眸がまっ直ぐに千石を見ていた。千石は、眼をそらすか、ほほえむか、どちらかをしなければならなくなった。幼女の眼の色からは、感情が読めないのである。たじろがずに、ただ見つめているだけであった。」「…隣は放っといていいのかね? 」と女の子を気にする千石に、「…よくこんなことができるなって云いたいんじゃないの? 」と女は言い、「食べる物も食べられなかったらなお不愉快だってことぐらい、子供だって知ってるわよ。こうでもしなけりゃ、おいしい物も食べられない、綺麗なおべべも着られないって」「…あたしが外泊するよりは、こうして帰って来る方がいいのよ。みんな何かしら置いて行ってくれるから…」「暮れにね、外泊が続いたことがあるの。昼間は帰って来るんだけどさ。そしたら、むずかってめそめそするもんだから、お正月に着るおべべが買えなくってもいいのって云ったら、泣かないから買ってねだって。買ってやったわ。かわいらしいフリルのついたのを。靴も帽子も。連れて歩いて、散財しちゃった。子供は大喜びだわ。またお正月になればいいねだって…」米軍兵士を客とする子連れの娼婦の印象鮮やかな生活描写が続く。名も与えられていない女だが重い存在感を持つ。この女の背後には同じような運命の変転を被った多くの日本の女達がいる。この娼婦はそれらの女達の典型として描かれている。五味川の作品で、作品展開の主軸から外れた傍系の人物が、その時代を生きる庶民の一典型として描かれた例としては、この他に、大作「戦争と人間」の第三部第八章の、失業中の労働者、村井半造の形象が想起される。五味川は骨の髄までの長編作家だが、味わい深い、完結的な短章を書く手腕も持っている。
千石が積荷を受取ることになると、達也が乗り込んでくる。達也は千石に提携しないかと持ちかける。積荷を売った金で千石商事を再建し、戦時中軍が持っていた物資を役人が特定業者にタダ同様に分配しているなかに割り込もうと言うのだ。他にも彼は大きな職場の組合に物資を売り込む計画も語る。千石に断られると、達也は中国に船を出すから金を出せと朋子に持ちかけ、これも断られると塩沢に会って、内々で米軍筋からの保証が取れるから一緒にやらないかと誘いをかける。このように達也は千石とは違って商人としての野心を燃やす人物だが、その戦略の根拠として日本の現在と将来について彼なりの見方を述べる。そこにも五味川の戦後の日本社会に対する見方が窺えるので引用する。
「左翼は伸びるよ。その伸び方がだな、左翼の連中が考えてるようなもんじゃなしにだ、池の中で魚を肥らせるようにだ。天下なんかは取れっこない。アメリカがキンタマを握っとる。池から出たらぶち殺すぞとやられてる。」「天下を望まん限り、下層大衆が左傾することは、形式上妨げない。ここが、アメリカが日本よりおとなだってところだな。左翼を飼い慣らして、革新勢力たらしめないところがだ。左翼の指導者はケンケンフクヨウせざるを得ないだろう。へたすりゃ首が飛ぶし、おとなしくしてりゃ、大部隊の指導者でいられるんだからな。この傾向は必ず定着する。俺の眼に狂いはないよ。大きな労組は、経済力だけは大きくなる。」(第六部12章)「穏退蔵物資がほとんど出尽した、あるいは納まるところへ納まってしまったいまとなっては、裸一貫でおくれて帰国して来た者は、米軍筋と特殊な関係でも結ばない限り、いつまでも同胞の下積みでいなければならない。」「アメリカは決して日本を手放さない。いずれ独立を認めるだろうが、第二の満洲国となるにすぎない。そうなった場合に、米軍筋と特殊な関係を結んでおいた者が期待できる利権は、莫大なものがある」(同前28章)その後の歴史を見ると、政治革新には無縁な、無害な左翼を育成するというアメリカの左翼政策への見方は正確だし、また「第二の満洲国」という表現が表している戦後日本の対米従属性の把握も正確だ。戦後の日本は真の独立国ではないという五味川の認識が強く感じられるところだ。
また、達也は千石の今後についても予告的な言葉を述べる。彼は朋子に千石について、「云っとくが、そいつはお前さんからも逃げ出すぜ。毛唐の女から逃げ出したようにだ。そいつみたいな男の生きて行かれる世の中じゃない」(同前13章)「研介は早晩アメ公の云いなりにならなきゃならなくなるって。それも、なまじ欲得を離れたような顔をするから、しまいにはどっちかで身を滅ぼすって。向うでスパイ扱いされてぶち込まれるか、こっちで占領政策違反で重労働何年かをくうのは間違いない」(同前24章)と語る。戦後の日本を前述のように見ている達也の目には、千石の生き方はこのように映る。それは客観性のある見方であり、作者もまた肯定しているのだ。
達也と会った同じ日、千石は佐久間という男の接触を受ける。この男は以前、朋子に会いにF(福岡を指すと思われるー筆者注)へ向かう汽車の中にいた千石に、満洲でお目にかかったことがあると話しかけてきた男だ。千石はその得体の知れない雰囲気に、「お人ちがいでしょう。私は満洲に住んだことはありません」と突っ撥ねたが、男は、「…知っていますよ。あなたは千石さんでしょう? どこかでまたお目にかかりますよ、重大な用件でね」と言い残して去った。その佐久間の二度目の接触だ。佐久間は千石に、「…千石さんはあちらへ船をお出しになるでしょう? 」と問い、「おやりになるんなら、こちら側の安全を保証する手段を提供します。向うへ着いてからのことはどなたかがおやりになるでしょうからね」と言う。千石が「藪から棒の話じゃお相手しかねるが、あんたが一口乗って、こっちで便宜を提供する代りに、向うでの便宜を図れというんですか」と問うと、「話の次第によっては、そんなことになるかもしれません」と答える。千石はそんな話には興味がないと断る。佐久間は「没収された荷物を、なぜ回収できたと思いますか?千石さんは懸命に奔走なすった。それでうまく行ったと思っているのですか? 」と問い、力では総理大臣以上の者が関与していることを告げる。その有力者は「あの品物を千石さんの兄さんの方へやらせることも、他の業者へ引取らせることも、しようと思えばできたのですよ。無論、誰にもやらないようにもね。いまからだって、決ったことを中止させることもできる人」だと言う。「…米軍だな」と千石が言うと、「シビリヤンです」と佐久間は応ずる。そして、「千石さんが御自分の安全を図りたければ、その有力者の構想に順応すべきじゃありませんか? 」と言う。「…僕に船を出させて、何をやらせようというんだ? 」と千石が訊くと、佐久間はニヤニヤして答えない。「スパイかね」と千石が言っても相手はまだニヤニヤするばかりだ。そして佐久間は、「私の連絡先です。将来のことは保証します。前途はひらけますよ。もし御協力願えればです」と言って千石に名刺を渡す。「協力しなかつたら? 」「さあ、どうなりますか。切札のエースはこちらの手にあるんでしてね。せっかく手に入れかけたものを、ふいになさらんことです」千石は「…切札のお手並拝見しょう」と言って、佐久間の名刺を四つに裂いて足もとに落とす。そして「あんたの前に立っていると、僕は自分が愛国者のような気がしてくるよ」と言い残して佐久間の前を去る。
佐久間と会ってから数日後に千石は積荷を無事に引取った。佐久間がほのめかした妨害はなかった。
千石は積荷を受取ると、ブツでもらうという山口への謝礼分を残して、尹に引渡した。尹は検分し終えると代金をすぐに調達した。千石は石川の分を控除して、残りを三等分した。達也と朋子に送るためだ。この後、荷物の取り分や朋子の処遇について達也と話が合わなかったり、山口の子分の枝松と謝礼の額についてもめたりしたが、積荷の件は一応落着した。千石は当分の間、尹の品物を売って利鞘を稼ぐ生活をすることになる。
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