第7節


 さて、ここで朝鮮から帰ってきた千石が突然逮捕された経緯に話を戻そう。

 中国人馬発財は、C市の革命政府が接収した元日本人経営の百貨店の経理(社長)に任命された男だ。その百貨店隆華社はC市ではソ連が接収している百貨店に次ぐ大きなものだ。剣持はこの馬発財に彼一流の接近工作で取り入り、馬の尽力で隆華社の隣りのビルの一角に裕民公司という商社を開いていた。それは剣持の覆面事業で、彼は生駒と変名してその商社の経理となっていた。

 剣持は陰で日本人組合の関係者を操っていたが、組合の生産部を預かっていた彼の腹心の部下が商法の原則を無視して購入食糧を分配したため、組合の資金に大穴が開いた。剣持はこの難局を仁礼に背負わせようとして、生産部の責任者になるように勧める。仁礼は断るが、組合の危機を傍観するのかと言われて、剣持が一切口出しをしないことを条件に就任する。千石が白禄寿を実行者とする計画を組合に持ちかけるのは仁礼が生産部の責任者となってからだ。仁礼の承認によって千石の計画は実行された。それを聞いた剣持は感情を害した。その理由は、一つには、千石のごときブルジョアの発案で組合組織を動員するからには、たとえ仁礼の権限内のことでも自分に相談があってしかるべきだということ、もう一つは、それだけ利益が上がりそうな仕事なら、職掌違いの組合などがやらずに、自分の裕民公司を通じて実行したかったという嫉妬だ。しかし剣持は「千石とかいう奴は、なかなか使えるじゃないか」と言っただけで、そんな気持は仁礼には表さなかった。そして千石の計画は白禄寿の背信によって失敗した。その後剣持は志摩を介して千石と会い、自分の考えている朝鮮貿易や対日ルートを貫徹する事業での提携を持ち掛けるが、千石に素気なく断られる。その千石が自分に無断で朝鮮に行ったことを飯倉という男から聞いた剣持は不快な気持になるが、一つの計画を立てる。彼は馬発財に会って、日本人の一ブルジョアが、革命政権の法を無視して営利行為を企んでいることが分り、黙認できないが、朝鮮人の解放軍部隊の利害関係も絡んでおり、どう処置したものか、意見を伺いたい、と言う。それは表向きの口上で、本心は千石が朝鮮から運んでくる荷物を自分と馬発財のものにする方法を謀りにきたのだ。馬発財も剣持の口上からその肚の内を見抜く。財務部に報告すれば、千石の積荷は押収され、馬と剣持の手には入らない。馬は千石を不法渡航者として公安局に逮捕させることに決める。公安局は積荷は扱わないから、馬が手を伸ばす余地があるのだ。

 千石が逮捕され、拘置されている間に、剣持は李応万と会い、提携して北朝鮮との交流を図りたいという話をする。剣持の話し振りに、彼が中国の高官や商社の経理を装った政治的実力者と親交があるらしいと察した李応万は、千石の救出と積荷の回収に力になってくれるのではないかと思い、窮状を話してしまう。李は千石を見殺しにはできないが、千石を救おうとすると中国当局と摩擦を起こすことになる。積荷の回収も中国当局との交渉が必要だ。「中国と摩擦を起こさない方法、ないですか?」と李は剣持に尋ねる。剣持は、「極く親しい中国人の同志」に口を利いてやろうと言い、積荷と千石の身柄について、一任してもらえれば「なんとかしてあげましょう」と言う。ただし、中国人の同志は「表向きは商売人だから、事は取引として運ぶ必要がある」と剣持は言い、謝礼が必要なことをほのめかす。李応万は頷き、朋子も同席していて、頭を下げる。

 千石は中国当局から尋問され、次にはソ連側に身柄を移されて尋問される。彼は年を越して漸く釈放された。        

 積荷は六割ほどしか李応万のもとには戻ってこなかった。二割が「極く親しい中国人の同志」、つまり馬発財への謝礼となり、さらに二割が剣持の裕民公司によって売られることになったからだ。朋子は李応万に積荷の件での剣持との約束の内容を質してそれを知り、千石は「無駄働きをしたんだわ」と言って李応万と口論となる。「お立派ですわ、革命家は!御自分たちで仕でかした不義理を、あの人一人に尻拭いさせて、その上何だかだとおっしゃいますこと。無駄働きでなくて何ですか!千石はね、李さん、あなた方が白禄寿のあと始末をしないから、黙って、身ぐるみ剥いで自分でしようとしたんですのよ。そんなこと百も承知のくせに、気がつかんような顔するなんて、卑劣じゃありませんか」と言う。李応万は餉台を殴りつけて、「李応万がどうするか、見てから云え!君たちまで朝鮮人を馬鹿にするか!絶対に許さんぞ!」と怒鳴る。この言葉が李を縛ることになる。経過を考えれば朋子の言う通りである。しかし、六割の積荷しか戻ってこない状況では、千石の取り分だけはどうしても赤字になる。日本人組合への弁償金を控除して、本部への送付をやりくってみると、かなり窮屈になって、本部から督促がくるのは間違いない。稼ぎが悪くなって本部から呼び出された上に、督促に応じられなければ、李は解任される可能性があった。李は迷うが、「李応万がどうするか」を黙って見ているらしい朋子を意識し、また「僕はコムミュニストの名誉にかけて、この問題を解決しますよ」と千石に言った自分の言葉を思えば、自己と民族の誇りを守る決意をしないわけにはいかなかった。李応万は自分の首と交換になるかも知れぬ弁償金を持って組合を訪ね、仁礼に返済する。

 釈放された千石はすぐ店に行って積荷の帳簿を調べ、自宅で落着くことなくそのまま、売掛商品の清算を求めて裕民公司に向かう。途中、飯倉と会い、自分の逮捕が剣持の差し金であったことを知らされる。剣持と対面した千石は、「日本人ブルジョア一匹の値段は幾らだった」と押し殺した声で剣持に迫る。剣持は「まぁ待て」とそれを抑えて、中朝関係、さらには中ソの間にも誤解と紛争を起こしかねない事件を、自分と「中国人の同志」が重大化させずに解決してやったんだと言う。大上段に振りかぶった剣持の議論に、千石は欺瞞を感じながらも戸惑い、うまく反論できない。剣持は千石の「政治的訓練」「政治的実力」の無さを嗤う。商品の清算については「俺は李応万と取引してるんだ」と突っぱねられる。千石は「李応万は俺を助けたさに、商品の四割がとこがうやむやになりそうなのを、黙って見ている。組合に弁償したのも、手持ちからだ。商品の流用も政治意識で説明がつくのかね?せめてあんたが流用している分の中から組合に代って取り立ててくれたんだったら、俺は黙っているつもりだった。(略)ともかく、帳簿ははっきりさせてもらおう。むやみやたらに同志的帳簿を振りまわさんでくれ。」と言って、裕民公司を出るが、うちのめされた、間抜けな自分を感じる。

 山口が千石を訪ねてくる。千石に日中間の密貿易の片棒を担がないか、と誘いにきたのだ。山口は以前にも千石に同じような誘いをして断られている。千石に断られた山口は、組合の了解を得るという面倒な手続きを放棄し、馬発財に取り入った。山口は多数の資産家の支持を得て、馬発財の援助のもとに、堂々と隆華社の一階に日本人余剰物資委託販売所を開設した。便宜をはかった「馬は馬で、山口ら日本人資産家連中の社会的信用を利用して、夥しい日本人の財貨を、彼の隆華社へ集中させようとほくそ笑んでいたのだ」「山口たちが日本人の金を集める。馬発財がそれを吸収する。その間に立って、剣持が馬発財に代って日本人資産家の動向を監視するという形式で、機会があれば途中から我が田に水を引く」(第二部15章)という関係に三者はあった。その山口が千石を訪ねたのは、自身が引き揚げ船で帰国することになり、信頼が置けて、馬発財などとも渡り合える千石のような人物を片棒としてC市に置いておく必要があったからだ。山口ほどの資産家がそんなに早く引き揚げ船に乗れるのはおかしいので、千石が「山口さんが、よくこんなに早く乗れますね。」というと、山口は「そりゃ、あんた、ぞうさもないことです。私はソ連将校の家族に母屋の方を貸しているんでしてね。これが、あんた、いつでも船に乗せてやるというんで。まぁ、私も、大体仕事は終ったから…」とニタリとほくそ笑む。仕事が終ったというのは「馬発財の隆華社一階に開いた日本人余剰物資委託販売所で、しこたま掻き集めた」ことを意味する。

 山口の引き揚げにはおまけが付いている。彼は引き揚げの日のために面倒を見てきたソ連の将校に軍票で五万円払い、「馬発財の眼を掠め、組合の眼をくらまして、選りすぐった財貨」をトラックで船に運び入れてもらう手筈にしていた。山口は夥しい荷物を多数の人間に分散して引き揚げ船に持ち込んでいたが、それだけでは満足できなかったのだ。出港の時間が迫り、甲板に立った山口は通用門を見つめ、トラックが入ってくるのを待ち焦がれる。一番銅鑼が鳴った後、トラックは入ってきたが、船の真下で監視兵とトラックの将校との押し問答が始まる。二番銅鑼が鳴り、掛橋が吊り上がり始める。「興奮して、大仰な身ぶりで息巻」く将校の旗色がしだいに悪くなる。三番銅鑼が鳴り、「山口は手摺りに腹を載せて体を突き出し、浮き上った足をばたつかせた。」船は動き始め、岸壁との間に青黒い海の溝ができる。「瞬間、跳び出して水に落ちたら船が停って、その間に再び掛橋が掛け渡されるかもしれぬ」と思った山口は、「誰ぞ飛び込んでくれんか」と呟く。「山口は最愛の女にさえも見せたことのない、おそらく一生にたった一度きりのやるせない眸をトラックの方へ投げた。将校が彼の方を見上げて、手をひろげ、肩をすぼめた。」こうして山口のもくろみは失敗し、「…馬発財め、邪魔をしくさって!」と力のない小声で罵る。山口という資産家の強欲さがくっきり描出される場面だ。

 逮捕、留置されるという苦い目に会って、千石にも心境の変化があるだろう。朝鮮人や中国人に利用されるのはこの辺でやめて、日本人資産家らしい行動、即ち日本人の富を日本に持ち帰り、中国人や朝鮮人を利用してもうけるという事業に加わるよう山口は勧める。千石は、「せっかくですが、私はいま別のことを考えています」と山口の誘いを再び断る。 

 千石が考えている「別のこと」とは投機だった。彼はそのための準備をすでに始めていた。身辺を整理し、金になるものは売って資金を作った。朋子に「みんな処分してどうするの」と訊かれた千石は、「勝負するんだよ。勘だが、そういう時が来そうな気がする」と答える。千石は自分の予測を確かめるために中国人商店街に行き、劉猶棟に会う。劉猶棟は留置された監房で知り合った中国人だ。監房で劉は、二気筒五十馬力の船を持っているが、千石が日本に帰る気なら安く譲るし、自分を日本へ連れて行くなら船を提供すると言った。千石はそんな話に関心はなかったが、劉猶棟という男には興味を抱いていた。千石は劉猶棟に会って、全満洲からのソ連軍の撤兵に伴い、ソ連軍の軍票がC市に流入し、インフレが近く起きる情勢にあることを確認する。インフレが昂進すれば市政府は軍票を新紙幣に切り替え、軍票の切り下げが行われる。その間の相場の変動をうまく思惑すれば、巨利を得られる。

 千石が投機を実行する機会がやってくる。李応万がやはり経済工作の失敗の責任を問われて解任され、曲という男が後任としてやってくる。その曲が千石に、「いい仕事を何か考えないかね?金はあるよ」と持ち掛ける。曲は自分が前任地で集めた、本部も知らない金を持ってきていた。千石は曲に金を換物することを勧める。それがきっかけだった。千石はソラ豆状の小金塊である小元宝を劉を通じて多量に買い始める。曲は千石の勧めに従うことを決断して、千石に小元宝買いを依頼する。小元宝の相場は上がり、千石の思惑は当たる。利益の匂いを嗅ぎつけて、剣持が千石の前に現れる。小元宝をいくらでも買うというのだ。剣持は裕民公司を大きな中国商社のブローカーにして、手数料を稼ぐ肚だった。千石は小元宝を売ってやる代りに、剣持が顔のきく隆華社などから綿糸を千石のために買うことを要求する。金よりも綿糸の方が騰貴率が高くなるという千石の読みは当たる。剣持は今度は中国商社の先棒を担いで綿糸の買付けに狂奔していたが、遂に千石の前に再び現れ、「売ってくれんか?商売は相身互いということがある」と言う。千石は今度は小元宝となら交換してもよいと答える。剣持は小元宝は通貨の安定後に統制品目に入れられて価格が抑制されると脅かすが、千石は動じない。剣持は仕方なく千石の条件を呑む。千石は天井相場で小元宝を売り、これもほとんど天井で小元宝を買い戻したが、綿糸の方が騰貴率が高かった分だけ確実に儲けた。軍票の切り下げが実施されると、千石の読み通り、小元宝の相場は堅実な動きを見せ、最大限の換金能力を保全した。千石は最後まで思惑に勝ち通した。曲は莫大な新紙幣を手に入れ、悦に入ったが、千石は私財を投じた分から獲た利益と曲から支払われた手数料で、C市の日本人が高粱や粟に替えるために脱ぎ捨てた和服を、中国人商社の倉庫から買い漁る。C市の二十万の日本人は既に引き揚げていて、和服の巨大な山が置き土産として残されていたのだ。

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