第8節
剣持は結果から言うと、千石と馬発財の間のメッセンジャーボーイを勤めたに過ぎず、利を得ることはできなかった。綿糸を手放したくない、あるいは小元宝を売りたくない馬を説得するため骨を折っただけ損だった。剣持は千石に、「君は日本人全体の利益を犠牲にしてまで自分だけ儲けたいらしいな? 仁礼や志摩が君を買ったのとは正反対な人間だってことを、君は立証したわけだ。気がつくのが決して早くはなかったが、おそすぎなくてよかった。君のような日本人の残留許可は考えものだったよ」「君が利得しただけ同胞に具体的な損害を与えたってことを、忘れずにおいたがいいな」とその腹立ちを表す。「営利団体ではない組合がだな、切下げに備えるためにあまりガツガツしたところも見せられんから」剣持の裕民公司が組合に代って働こうとしたのに千石は非協力的だったと非難するのだ。これに対して千石は、「俺が日本人全体を犠牲にしたってのは、あんたの利益を犠牲にしたってことかね? 」「同胞って単語はたいてい集合名詞で、固有名詞の代名詞じゃなかったと思うんだが…」と皮肉る。そして、「ぼやきなさんな。みっともない。あんた馬発財と俺を手玉に取るつもりで、両方から振り廻されて一文にもならなかった。それだけのことだろう。あんたは、俺が思ってたとおりに動いたよ。回る車を与えられた二十日鼠のようにね。俺はあんたにひどい目に会ったが、あれが政治的実力のさなんだってな?だったら、今度は君が諦めるさ。何もぼやくことはない。これが商事的実力の差なんだよ。背伸びをしたって、男を下げるだけだぜ」と啖呵をきる。(第五部17章)それは千石の剣持への復讐だった。千石は剣持へのこの「ケチな復讐」の後、「おのれの胸のむなしさ」に気づく。「俄かに、することがもう何もなくなってしまったような虚脱感」に襲われる。 千石はヴェラに会い、投機の成功を告げたが、ヴャラは喜ばない。「今度の思惑では、あんたはすばらしかったかもしれないわ」「でも、それ、すばらしいことだったのかしら? 」「あんたは、少しお金持になった。あんたの仲間や敵は、あんたの腕を認めたでしょう、きっと。それが、結果のすべてだったんじゃない? 」「きちんとした仕事が必要でしょう? 朝鮮人との仕事だって、意味はあっても、永くは続かないと思うの。あの人たちがここで仕事をする必要がなくなったら、終りでしょう。定職がどうしても必要なのよ。ちがう? 」「ちゃんとした仕事について、いっしょに住めば、事実上の結婚が認められるわ」と千石が「ちゃんとした仕事」に就くことを求める。(第五部18章)千石自身も投機の最中から自分について、「虚構の立場に立っている」と感じていた。「千石研介は何者であるか。(略)彼は千石家から継承した経験と商業技術だけで、千石家の廃墟の上に幻を描いているにすぎない」(第五部11章)という思いを抱いていたのだ。
千石は「ちゃんとした仕事」、つまり「彼がこの街に存在する理由」を求めて、組合に仁礼と志摩を訪ねる。「剣持氏がどれだけ革命家として信頼に値するか、彼がこの土地にとどまるどれだけ正当な理由をもっているか、僕には大変疑問です。たいへんにね。彼はこの土地での生活を、栄達の手段としているとしか、僕には思えないんですが、それでも彼は僕より正当な理由を持っているらしいんですね。どうしてというと、あのかけひきで彼を翻弄したあと、僕はすることがなくなってしまったんです。彼の方は、大義名分の揃った野心を、今後もますます膨らませるでしょう」「僕の印象が誤っていないとすれば、野心のために残っている彼よりも、この土地を血肉化しているというだけの理由で残った僕の方が、人間的には正当だと思うんですけれども、こんな理由は誰にも通用しそうにありません。衣が必要らいしんです」「学生時代に、学校の食堂で、カツとは衣のことかというような衣ばかりのカツを食ったものでしたが、衣だけでも、カツはカツで通るんですね。無論、僕は衣で人をごまかすつもりはありませんが」と、千石は「衣」つまり人に弁明できるような仕事はないかと仁礼に問う。仁礼は、日本人組合と中国の職工聯合会とが協議・合作して経営する化学工業の、日本人技術者と中国側との連絡役の仕事を千石に紹介する。千石はその仕事を引き受け、「先代からの地盤から完全に離れて、この土地に千石研介という男が存在することを許す、これがはじめての機会」と心の昂揚を覚える。
千石は中国側から残留を要請されて残っている日本人の学者や技術者との接触を始める。彼等の間には残留をめぐって考え方に対立がある。潔く中国に協力しようとする者と、内心に批判を抱く者とである。この対立はC市の日本人一般を指導していた剣持と仁礼の対立の一変形であり、この二人をそれぞれ支持して働かせた中国機関の異なった部局の対立の影だった。千石はそれらの対立の緩衝器として動きながら、円滑に合作事業が進行するように努める。剣持はそんな千石に、遂に自分の「系統的の膝下に組み敷いたという満足感」を抱くが、仁礼が千石を使う気になったのは、「君を野放しにしておくと、あたら鋭い感覚を持ちながら、日本人の残留の意味を台なしにするようなことを仕出かしはせんかと気が気じゃないんだ」と言い、「君自身がテストされていることを忘れちゃいかんぜ。君は人民社会への忠誠を実践的に示す必要があるだろう。たとい君の残留理由が何であるにせよだ」「しかしうぬぼれるなよ。君は腕自慢だが、誰も君の商業的な腕前を期待したりしてやしないんだ」と得意気に説教する。
しばらくして中国側の責任者になった周という男から、資産家出身で、技術者でもないのに生産再開活動に参加した千石に関心を持ったのか、面接をしたいと言ってくる。千石は面接試験に合格した後のヴェラとの生活を空想し、一方で「空想どおりに現実が展開したことがあったか」と自分を戒めながら面接場所に出かける。周は千石が過去において、中国人使用人を虐待して解雇し、退職金も与えなかったことの「担白」を求める。それは劉猶棟(同姓同名だが、千石が檻房で知り合った人物とは別人物)という青年で、達也が千石商事の主人だった頃ボーイとして雇われていて、釣銭をごまかして達也に殴られ、解雇されたのだ。その劉が日本が敗戦し千石商事が解散した頃千石の前に現れ、解雇日から閉店の日までの給与と退職金を求めてくる。千石は払おうかと思ったが、劉が「俺は、やろうと思えば、この家を没収することだってできるんだぞ」と脅し文句を吐いたことに反発して払わなかった。翌日、千石は保安隊に呼び出され、事情を訊かれるが、劉が脅迫したことを中国人の保安隊員も認めて、千石には何の処分もなかった事件だ。千石はもう済んだことと考えていたのだが、周は、千石が先ずその過去の罪を進んで告白し、反省を示すこと(担白)を求めた。周は、「私たちは日本人が真剣に協力してくれることを希望して」いるが、「担白しないで真剣さを認めさせようというのですか? 」と言う。千石が「私が真剣でないときめることがおできになるのですか? 」と反問すると、周は自ら千石の罪を告発した。しかしその内容は劉猶棟の言い分を一方的に認めたものだった。千石は明らかな中傷であり、よく調べてほしいと言い、劉猶棟に会わせてくれと要求するが、周はその必要はないと突っぱねる。結局、「あんたが正しいとすれば、私が全部間違っていることになる」と周が言い、「そうです」「あなたは間違っておいでです」と千石が応じて話は決裂する。周は、「私は日本人の組合が、よく思想調査もせずに人を送ってきたことを、非常に残念に思います。(略)あんたのことでは職工会の趙さんから話があったからといって、ここで働いてもらうわけには行きません。お帰り下さい」と言う。千石は、「本来なら、あなたの誤解を解くように努力すべきでしょう。私に多少の価値を認めてくれた人のためにもね。しかし、もう、ほとほと愛想が尽きました」と言ってその場から出て行く。この件について、後で千石は志摩に、「仁礼さんやあんたには申しわけないことにしてしまったが、しかし実際、連中の独善ぶりには愛想が尽きたよ。周といい、剣持といいだ。どうも勘繰りたくなるんだが、合作だの何だのという大看板の裏でね、そんなものとは縁もゆかりもない指導権の争いみたいなものがあるんじゃないのかね? 」「…たとえば僕なんかの失策を利用して、僕を庇ってくれた勢力をおとしいれようとするような、ね。どうも、そんなふうにお膳立てができていたようだ。そこへ、たまたま劉猶棟なんて奴の飛び入りがあったから…」と語る。つまり、剣持が己の指導権を確保するために、仁礼の推薦した千石の経歴や思想に不適格の烙印を押し、仁礼を批判する材料としたというのが事の真相というわけだ。
千石は満洲が故郷であり、血肉であり、祖国であるが故に引き揚げずに残り、再生の道を模索してきた。千石が目指したのは、侵略者としての罪を認め、それを償い、被侵略者である朝鮮人や中国人と真に協力共同して新しい社会を作っていく方向だった。千石の前には具体的には二つの道があった。一つは山口に代表されるような日本人資産家としての生き方である。それは中国で稼いだ財産をそっくり日本へ持帰って千石商事の再建を図り、また戦後の混乱、中国の内戦に乗じてさらに儲けようとする生き方だ。千石は出自からすれば最も自然なこの生き方を拒否した。もう一つが日本人組合の仁礼や志摩の活動に沿う道だ。千石の方向はこちらに傾いていた。組合を通じて朝鮮人や中国人と協同する道を模索し続けた。しかしこの道には障害があった。最大のものは共産主義を立身出世の道具としている「共産主義者」の存在だった。剣持がその代表格だが、彼等が千石の企図の実現を阻む。民族間の対立感情、千石の出自も足を引っ張る作用をする。最後の望みだった就職もだめになり、千石はC市にとどまるための「衣」を失う。千石はC市を離れるべく、追いつめられるのだ。
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