第9節
3 恋の行方
それでは、この小説のもう一つの柱である千石とヴェラ・カチャーエワとの恋愛の軌跡をみてみよう。
ヴェラ・カチャーエワは千石の幼友達だ。千石の父の一平は、ヴェラの住む海辺の林の近くに別荘を持ち、千石は中学時代まで毎夏をそこで過ごした。ヴェラとは海辺で遊んだ仲だった。千石がそのヴェラと再会したのは敗戦の年の秋だった。絵道具の箱を肩にかけて写生に出かけた千石が、混雑した停留所から電車に乗り込もうとした時、中から慌てて飛び出してきた者があり、それを避けようと半身になった千石の道具箱が後ろの中国人に当たった。千石はそのまま押されて乗り込もうとして、その若い男に引きずり下ろされ、殴られる。「こいつが箱で人の頭をぶちやがって、知らん顔で、先に乗ろうとしやがるんだ」と男は周囲に聞こえよがしに喚く。千石が日本人だと分ると、「日本人のくせに大きなツラして」「張り倒せ!」と周囲から声が上がる。千石は「もう謝る気持はなくなっていた。」さらに「千石公司」の千石と分ると、「しこたま儲けやがった」「道理ででかいツラしてやがる」「この野郎は中国人を圧迫しやがったんだな」と群衆は一層騒ぎ立てる。その時、「この人が何をしました?私は見ていました。保安隊を呼んでいらっしゃい。私が説明します」と声を上げたのがヴェラだった。それがロシア人の女だったために群衆は静まる。赤軍進駐下のC市ではロシア人は支配者と重なる。千石はヴェラによって難を脱する。これがヴェラとの再会だった。ヴェラは「プログレス」という書店に勤めていた。この後、千石は街を歩いていて偶然その店に入り、二人は再び会う。そして恋に落ちる。 ヴェラは亡命した白軍の将校、レオニード・カチャーエフの娘だった。敗戦国民である日本人、しかも満洲生まれの千石と、白系ロシア人ヴェラとの恋愛が始まる。ヴェラの千石に対する気持は、「不思議であった。ヴェラは、日本人の威勢がよかったときには、どんな日本人の男にも気持を動かしたことはなかった。日本人の影がすっかり薄くなったときに、ある日突然に、その中の一人が意味を持ちはじめたのだ。この男は、物静かで、傲慢であった。ほとんどの日本人が気力を失った中で、きわ立って見えたのは、たぶんそのせいである」(第四部15章)と述べられている。
ヴェラを愛する千石の意識には、侵略し、敗戦した日本人としての引け目がわだかまっている。それはヴェラのそばに赤軍将校、カピタン・イワノフが現れる時、明瞭になる。千石がイワノフを初めて目にする場面は次のように描かれている。「プログレスでは、ヴェラ・カチャーエワの前に、ガラスのケースを挟んで、背の高いほっそりとした軍服の男が立っていた。ヴェラははなやいだ笑いを浮かべていた。男が、ケースの上にひろげた数冊の本を、あちこち指でさしながら、しきりになにか云っていた。ヴェラは、熱心に聞き入ったり、白い歯で笑ったりした。千石が来て、喫煙所の椅子に腰を下ろしてから何分か経っても、まだ気がつかないようであった。」千石は二人に遠慮して声をかけずに別のケースの方へ行く。その心理は次のようだ。「千石は惨めな気がした。仮りに、そのケースの前に、いつものように自分を置き替えてみよう。ヴェラはやはり熱心に聞き入ったり、白い歯で笑ったりするかもしれない。その絵と、いまの絵と、どちらが絵になっているだろうか。千石が仮りにその絵を描くとしよう。いまの背の高いほっそりとした男は、堂々としてはいないが、おおらかである。宿命を背負ったりしてはいないのだ。少なくとも、屈託がなさそうに絵に現れなければならない。そこへ置き替えられた千石は、どうか。彼はつとめて平静に振舞うだろうし、それはかなりの程度に自然らしく映るかもしれないけれども、絵は、彼が虚勢を張る代りにそうしているにすぎないことを、あるいは、意気沮喪した風情を隠すために平静をよそおっていることを、現さなければならない。したがって、ヴェラの熱心な顔も、その笑顔も、それなりにちがって来なければならない。つまりは、千石とその男の間には、それだけのちがいがあるということである。」(第二部17章)これはヴェラとの恋愛の初めの頃のことだから、恋愛の当初から千石にはこうした引け目意識があったことがわかる。こうした千石の意識はさらに次のように述べられる。「ヴェラがよしんば、カピタン誰それをではなく、正にこの千石を愛するとしても、なお、千石は、無数のカピタン誰それを怖れなければならないだろう。これは、人間の個人の問題ではなかった。千石は日本人なのである。現在のところ、地球上には日本という国はなかった。日本という地方があるだけであった。ヴェラの身の上も、これと似ていないこともない。それだから二人が相寄るというのは、それが事実であっても、甘いことにちがいなかった。千石は、戦争にも侵略にも少しの責任もなかったヴェラが、生れの宿命から脱して、これから幸福の世界へ踏み入って行くには、愛だけではもとでが足りないことを考えずにはいられないのである。つまり、千石などと愛し合っても、ろくなことにはなりそうもない予感がするのだ。けれども、それだから、千石は、たとえば今日はじめて見たカピタン・イワノフに対してさえも、敵意に似た対抗意識を持ったのかもしれない。俺は日本人だが、日本人であっては、何故いけない?日本人が白系ロシア人の女を愛しては、何故いけない?いけないとは、誰も云いはしなかった。いけないと云われるような気がするのは、誰のせいかと云いたいのだ。誰のせいでもなく、そういう関係だけがあるから、千石はカピタン誰それにヴェラを渡すことはどうしても承知できないのだ。」(第二部18章)こうした千石の引け目意識は侵略を非とする彼の道義感の裏返しであり、それがまた彼の自尊心を刺激するので、彼は二律背反的な心情に陥っていると言える。
一方のヴェラはどうか。彼女の父親は亡命した白軍の将校であり、ソ連からは反革命の嫌疑を常にかけられる立場にある。その状況は、ヴェラの言葉を引けば、「私たち、長いこと、国のない乞食みたいに思われていたでしょ。赤軍が入って来ました。私たちは、少なくとも私は、ほんとうの気持で赤い旗を作って迎えたわ。赤軍の人だって、私たちを同胞だと云ったわ。だけど、同胞じゃないのね。いつも監視されてるのよ、何処かで。プログレスだってそうだわ。私に責任のないことで、いつも私が監視されてるのよ」(第一部32章)ということである。父親のレオニード・カチャーエフは、「いいかね、共産主義は民族の退化を招き、阿片麻薬は人類を滅亡さすんじゃ。そう思わんかね。われわれが光栄ある祖国から流氓しなくちゃならんかったのが、その証拠だ。しかるに、あのバカ娘は、共産主義の学習とか云いおって!」とヴェラと対立している。親娘は言い争う。「お前が生れる前に、わしとお前の母親は亡命して、あちこち渡り歩いた。乞食同然の姿でな。やっと落ちついたところがここだ。すると、今度はロシアがここまで来た。わしらは他に行くところはないのだぞ」「あたしにはあるわ。ロシアを知らないあたしは、ロシアに帰りたいとは思わないけど、祖国は祖国だわ。祖国から親の罪まで問われたくない。お父さんはいつだってロシアをなつかしがってるくせに、いつか帰れるようにどうして心を持ち変えないの!」「わしは心を変えたりはできん。する必要がない。してはならんのだ。わしの方が正しいんじゃからな。いまは奴らが威張り返っとるが、見とってみなさい、アメリカと中国の国民軍が連合して、いまにここまで来る。そういう情報が入っとる。奴らを北へ追い上げる。追い散らす。わしらの亡命の復讐は世界がやってくれるわ。わしらが祖国へ帰るときは、あ奴らが叩き潰されたときだ」「叩き潰されるのはあんたの方よ」(第二部19章)弟のミチカは定職のない不良青年であり、軍用物資の横流しなどをして反革命の容疑を受け、逮捕される。ヴェラ自身もそれに関連して特務機関に連行され、尋問される。しかし、彼女はそうした不利な境遇を撥ね返し、労働者としての自立を目指して努力を続ける女性として描かれている。
ヴェラは書店の店員として働く傍ら、カピタン・イワノフを交えた学習会に参加し、共産主義について学ぼうとするし、後で部屋を貸す通信技師からも技術を学び、「あたしは工場の経理みたいな仕事、覚えたい。学校で勉強もしてみたい。何でもやりたいわ。どこへ行っても、何かができる女になりたいわ。浮気性なのかしらね?」と将来への意欲を燃やす。そして千石に、「あんたにちゃんとした仕事についてもらいたいわ」「いっしょに住めなくってもいいから。お互いにきちんとした仕事を持っていて、こうして会うだけでもいいから」と言う。またヴェラは、二人の恋の行方に関して見過ごせないことも言っている。「浮気性なのかしらね?」という言葉に千石が、「ついでに男も変えてみるかね?」とわざと言うと、「「変えさせたくなったら、そう言いなさい。捨てないでちょうだいなんて、頼まないから」と応ずる。さらに「あたしに飽きたり、あたしが重荷になったりしたら、あたしのためにだとかなんとか云わないでね」「あたしは知ってるんだ、あんたがここの生活に負けたら、そんなこと云い出すだろうって」と言う。(第五部11章)これは千石の冗談に応じたものだが、ヴェラの予感と覚悟が窺われる。
結婚について、「愛情だけでは不充分だから」と言う千石にヴェラは、「愛は目的じゃなくて、幸福の設計技術と考えたらいいわ」「そうよ。あんた、勇気出ない、あたしは、いつか、馬車の中で泣いたでしょ。近ごろはちっとも泣かないわ。お父さんやミチカが何をしたって、あたしには別の生活があるもの。誰かが、何か云ったら、日本人の千石を愛したら何故いけないか、理論的に証明しなさいって云ってやるわ。理論的によ!あんたが日本人なのも、あたしが白系ロシア人なのも、どっちも責任のないことだわ。責任のないことで、責任を負わされるなんて、理屈に合わないわ!司令官にだって云ってやっていいのよ。タワリシチ・コマンジール、あなたのおっしゃることは、全然理論的でありません」(第二部26章)このヴェラの主体的な強さに対して、千石の側の弱さが結局は恋の行方を決めることになる。
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