第10節

 やがてヴェラは千石の子を妊娠する。それを告げられた千石は、「自分が途方もなく小さな細胞と化して、ヴェラの胎内に食い入り、膨らみ膨らみ続けてヴェラの肉体を同化してしまったことに、征服者のような誇りを感じ」るが、喜びの言葉は出てこない。ヴェラは千石に「困らない? 」と訊く。千石は「困りはしないよ」「自分がしたことだもの」と答えるが、「嬉しいことなのだろうか?千石三世が、いまのところはまだ血の塊のような状態で、この女の胎内に宿っているというのだ。なぜ、それは、選りも選って、いまでなければならなかったのか? なぜ、千石三世は、亡命者の娘、ヴェラ・カチャーエワの腹を借りなければならなかったかを、理解するだろうか?千石三世の存在は、ほんとうに必要だろうか? 」(第三部20章)という思いを抱く。千石は「敗戦国民、没落階級の男、店と財産を放棄した商人」であり、C市に残って生きていく展望をつかめないでいる。ヴェラの妊娠は白禄寿の件の失敗の後だ。千石は中国人が居住するスラムを見下ろしながら前途について考える。「彼は、帰って行けると思えるところがないから、帰りたくもなし、帰れもしないのではないか。その彼は、ここに住むことが許されるかどうか、確信をもって自分に答えることはできないのである。仮りに許されるとしよう。帰国したい者は帰国し、住みたいものは住めるとしよう。日本人のいなくなった土地での千石研介とは、何者であり得るか?彼の商法に、もし幾らかでも特色があったとすれば、それは日本人の傲りではなく、傲ってはならない矜持がしばしば算盤を支配して、結果的にはあまり誤算を犯さなかったぐらいのことである。その矜持は、日本人の間にいてこそ、特色たり得たし、ときには美徳でさえもあり得たのだ。日本人の支配は終り、日本人の去ったあとでは、千石流の矜持は一体何に値するのか! /さっき、千石は、石竹の茎に移ったヴェラの髪の香を嗅ぎながら、『やればなんだってできるさ』と云ったが、実は、できる範囲がきわめて狭いことを、むしろ皆無に近いことを、誰よりも彼自身が知っているのである。彼は強健であるし、数カ国語をどうにか操るから、何事かができはするだろう。けれども、彼が何もできないと思うのは、何かをするには、彼は彼の意志の外に出てしなければならなくなるということである。彼は日本人であるよりも満州人であった。彼は、しかし、満州人の前では、どんな日本人よりも日本人なのであった。彼は民族の平等たるべきことを信じ、そして平等の実在を信じられはしないのだ。彼は日本人の罪状をみずから認め、そして、認めることを強制する者の前では敢て認めようとはしないのだ。彼は彼の矜持によって栄え、彼の矜持によって滅びるにちがいない。」(第三部21章)千石という自意識家にとつて、戦後のC市は生き難い場所である。「ヴェラ・カチャーエワは、その男の子種を宿して、産むというのである。ヴェラは生活の享受を希っている。それが祖国への復帰につながることを希っている。だからヴェラは父と弟の無国籍の所業を憎んだのだ。その同じ女が、なぜ、無国籍の性格の持主、千石を愛して、孕んだのか。(略)/その子の父親は、その子の未来を少しも信じはしない。ただその子の母親を、彼女が亡命者の娘であり、したがって無国籍であるから、ことのほか愛したのだ。情欲の一致も、確かにそのことに因っている。他には何も頼るところがないという理由で、二人は互にそこから出発することを許したのだ。ヴェラは、しかも、何物かに到達しようとする情熱の閃めきを失わないかに見えるから、千石はますます愛し、貪り、浸ろうとするのである。/けれども、果して何事かが情熱の前に約束されているか? 」(同前)

 千石は「苦力と車夫と浮浪者と娼婦の街」であり、「汚穢と悪臭と頽廃と疾病の巣」であるスラムに生きる人々を眺めながら、「もし、いつの日にか、千石とヴェラがそのようなスラムにまで身を落とさなければならなくなるとしたら、生きて行けるかどうか、愛し合えるかどうか、少しも自信がなかった。」千石はヴェラに、「生んでもらっては困るんだ」と言う。ヴェラは反発する。「あたしの友だち、堕ろした人何人もいるわ。男がいつ本国へ帰ってしまうかわからないから。そのときが別れるときだって、きめてるのよ。あんたも、あたしにそう考えてほしいの? おしまいにしたいの? 」「…いいわ。負担はかけないから。あたしの勝手にさせてちょうだい」「あんたは命令で来てる兵隊じゃないの。ここで暮らそうと思えば、できるはずでしょ?うちのお父さんたちだって、外国人ばかりのとこへ流れて来て、生きてきたんだもの」(同前)しかし、結局、ヴェラは堕胎を受け入れる。

 白禄寿の件を解決するため、李応万の代理人として朝鮮に船出する前日、千石はヴェラと別れのデートをする。道を歩いていて、日本人の引き揚げの第一陣が収容所へ向かう行列と遭遇する。「まちまちの、汚れた服装をして、背負えるだけの物を背負」い、「埃をかぶって、せっせと歩いて」いく行列には、「待ち焦がれたにしては、嬉しそうな顔はほとんど見当たらなかった。」行列が「ひどく乱雑で、汚れて見えるのは、これが極貧者と査定された人々の集団であるからだけではなくて、これはどうしても失意の群なのである。」その隊列に添って、「五十は過ぎていると思われる、身なりの貧しそうな」中国人の男が、嬰児を抱いて泣きながら歩いているのに二人は眼を留める。男は「ずっと泣き続けて来たのだろう、顔じゅうに埃の縞ができていた。」その男の横の、「汚れて変色した手拭で顔を蔽っているモンペ姿の女が、その男との間にその児を産んだ女にちがいなかった。」女は「ときどき、もう涙と洟水で濡れてしまっている手拭の端を噛みしめては、またたまりかねて顔を蔽った。」男の「おろおろと泣く声」は、隊伍が千石達の前を通過しても聞こえ、行列の「後尾が過ぎ去ってしまっても、まだ耳に残っているようであった。」ヴェラが「いっぱいに溜った涙の玉が、落ちようとして、落ちずにキラキラ揺れ」る眼をして、「…どうして別れるの?」と千石に尋ねる。千石は「僕は知らん…」と答えて涙を隠すように太陽を仰ぎ見る。そして、「…女は食えなくて、男に縋ったのかもしれん。女は亭主がいるのかもしれん。亭主は戦争に行ったのかも知れん。亭主は生きているのかもしれん。女は帰らなければならない事情があるんだろう。…僕は知らない。あの男は子供を引取るんだよ。女と生き別れさせるから泣いたんだ。子供に謝って泣いたんだ。別れを怨んで泣いたんだよ。別れなくちゃならないことは、怨むことしかできないからね。誰も怨みようがないから、おいおい泣いて怨むんだ…」と言う。ヴェラは、「…あんたは? 」「あたしたち、あんなことにはならないわね…? 」と千石を見上げる。千石は、「ヴェラを見下ろし、見つめ、射すくめるように見入っ」て、「僕は行かない。望みもしない。僕はここの人間だよ、誰がなんと云っても、誰が認めなくても」と答える。(第三部30章)この場面は引き揚げという歴史的出来事が包含したはずの無数の悲劇の一つを印象深く伝えるとともに、千石とヴェラの前途を暗示することにもなっている。

 ヴェラは豊満な肉体の持主である。例えばその水着姿は、「臆面もなく屹り立った乳房が、一歩ごとに、ずっしりと揺れ動いた。くびれた細腰の下では、逞しいまでに発達した臀部が、一足ごとに、いまにも水着からはみ出ようとしていた」と描写される。五味川の小説には女性の官能的表現がちりばめられている。それは「人間の條件」から、大作「戦争と人間」に至る一貫した特徴と言える。それが作品に興味と熱気を与えているのは確かだ。女性の豊満な肉体の官能的表現は五味川の女性観、あるいは女性への願望の表れであろう。また、それは「何を書くにしても、それが物語であるならば、面白くなければならない」(「人間の條件」まえがき)という自らの要請に応えることでもあっただろう。しかしそれが単なる読者サービスに堕さず、人物形象の一要素として生かされているところに五味川の作家的力量がある。ヴェラの肉体的魅力は千石が彼女に引かれる大きな要素になっている。ヴェラと海辺で遊んでいた頃、千石には忘れられない思い出があった。砂の上に体を投げ出した千石の鼻の先で、水着姿のヴェラが仁王立ちになっていた。彼女は千石に砂を振りかけようとしていたのだが、「彼は、直ぐ眼の前で、少女の股間が蛤の貝殻を伏せたように盛り上り、充実しているのを見た。そのときには、そこだけしか見えなかった。それは堂々としていた。物凄い雄弁さで、秘密の一切を無言でまくし立てているようであった。千石は、もう一秒したら、そこを手で掴むだろうと思った。あるいは、食いついたかもしれなかった。千石は跳ね起きて、林の方へまっしぐらに走った」(第一部22章)という思い出だ。それ以来、ヴェラの仁王立ちの肢体は、千石にとって女性の体を思い描く時、必ず浮かぶイメージになったはずで、「私は、こういう云い方をすればあなたがきっと軽蔑なさると思いますが、ヴェラ・カチャーエワという女の肉体を愛しているだけかもしれません。少年のころからの幾つかの夢が、たった一つだけ実現しました」(第五部22章)と千石はカピタン・イワノフに語るのだ。

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