第11節

 千石が朝鮮に行っている間に、レオニード・カチャーエフが自宅で逮捕される。ミチカは窓を突き破って逃亡する。

 朝鮮から帰ってきた千石が逮捕されたことを知ったヴェラは、公安局に行ったが会えなかった。二度目に行った時、千石の身柄はソ連側に移されていた。ヴェラは逮捕されたレオニードの娘が面会を求めることが千石の不利になるように思う。それで毎日昼休みに特務機関の建物の前まで行くのだが、決心がつかずに、引き返すか素通りした。ヴェラはイワノフに頼ろうと考える。彼女はイワノフに会い、千石と自分の父や弟とは何の関係もないことを力説し、千石を助ける方法はないかと尋ねる。イワノフは、千石の行動には疑われても仕方のないことが多く、また疑わしい事情が周囲にあると答え、調査機関が無実を納得するには長い時間が必要と言う。そして「あなたは彼と、どうするつもりなんですか? 」と逆にヴェラに問う。ヴェラが「結婚します」と答えると、日本人は全部日本へ送還されることになると言う。こちらに残ることは許されず、原則的には強制的に帰されると言う。また、ロシア人はロシアに帰ることになると言う。ヴェラは絶句する。「連れて行って、抑留しますのね! 私たちは囚人になりますのね! 」と言うヴェラに、イワノフは、「人によっては、そういう人もあるでしょう」「けれども、あなた方の大部分は、ロシアに帰って、職業につくはずです。もう亡命者ではありません。あなたがかねがね望んでおられたように祖国を恢復するのです。あなた方を必要とするのは、中国ではなくて、ロシアのはずですからね」と言う。「…必要とするって、強制することですの? 」とヴェラは身震いする。「…祖国を、私は憧れていました。持ちたいと思いましたわ。だから、あなた方が進駐して来たとき、私は中国人たちといっしょに、赤い旗を作って出迎えました。…祖国ですのね、私が持ちたかったときには、どんなにしても持てなくて、私がここにいたくなったときに、どこかへ連れて行ってしまうのが。亡命したのは私ではありませんのよ!ここで生れて、ここで育って、ここで、いまになって、やっと、いたわり合える人ができたら、その人を日本へ追いやって、私をロシアに連れて行く、そういう必要を、祖国が強制しますの? (略)愛し合っている人を失うことに、祖国が値するでしょうか…」「あなたにはおわかりにならないんですわ、すべてを保証された党員将校のあなたには。あの人がどうしても日本へ追い返されるんなら、私も行きます。祖国を失ったってかまいません。私が行くことを当局が認めてくれないんでしたら、私はあの人と密航してでも行きます。」こうしたヴェラの言葉に対してイワノフは、「あなたはよくわかっているんです。私たちが、まだ、国というものなしで生きて行くことのできるような世界を持ってはいないということをね。国は、いまの世界では、まだ、個人にとって、地方なのではなくて、血なのですよ。それを承知で、なおあなたは、いままで同様に、行く先き先きで、祖国からのあぶれ者と見られるか、さもなければ売国者と誤解される方を選びますか。(略)あなたの愛する人にきいてごらんなさい。あなたにほんとうに必要なのは、彼なのか、祖国なのか」と言う。ヴェラは身悶えして、「残酷です、あの人にそれをきけとは! 」と応ずる。恐らく千石は、「ヴェラよ、君に必要なのは、祖国であって、僕ではない。」と答えるだろう。「日本人千石がそう答えなければならぬときの気持を、このイワノフは知っているのか。」イワノフは日本人関係の責任者である少佐に話をしてみようと言うが、ヴェラはイワノフに期待したことを間違いだったと思う。ヴェラはこれから特務機関に行き、係の人間に自分の父や弟に不利益となる証言をしてでも、千石の潔白を証明すると言う。歩きだしたヴェラをイワノフが引き止める。「あなた方がどんなに悲劇的だろうと、僕がここにいっしょにいて、そんな自暴自棄の行為を見逃すことはできません」「いらっしゃい。家まで送ります。何も考えないで、僕の歩調に合わせて歩きなさい。」(第四部17章)この章にはヴェラの千石に対する強い愛情が出ているし、二人を取り巻く国家と政治の壁が浮き彫りになっている。

 釈放され、対決しに行った剣持に、「政治的実力の差だよ」と言われた千石は、敗北感を抱いてヴェラの家に向かう。そして、戸口でイワノフとヴェラが別れの接吻らしき動作をするのを見る。戸を閉めて、歩いてくる男に、千石は木立のなかに隠れようとしかけたが止め、イワノフと向き合い、平静に話を交わす。ヴェラとベッドで抱き合った後、「…来る途中で、カピタン・イワノフに出会ったよ…」と千石は告げるが、ヴェラはイワノフが家に来ていたことについて何も言わない。ヴェラはイワノフのことを隠していると千石は思う。しかし、ヴェラとイワノフの間に特別の関係があるわけではなかった。イワノフに千石を助ける方法はないかと尋ねた晩、イワノフに送られて帰ってきて、玄関先で別れる時、ヴェラは自分からイワノフの頬に接吻した。それは「イワノフの心づかいに対する感謝もあったし、一人きりになる淋しさからでもあった。」父は逮捕され弟は逃亡して、ヴェラは家で一人だった。千石が二人を見た夜は、ヴェラにミチカが捕まったかどうか調べることを頼まれたイワノフが、まだ捕まっていないと報告に来た「帰りがけに、静かにヴェラの額に口づけしたのを、ヴェラは拒まなかった」のだ。ヴェラはしかし、「千石がそれを知ったらヴェラの体をはね返して、さっさと起き出てしまいそうな怖れ」があって口にできなかった。「千石は見ていたとしても、邪推してはいけない。別に何でもなかったのだ。イワノフは親切なだけである」としても、このことは事情の分からない千石の心にはしこりとして残るはずだった。(第四部25章)

 千石は赤軍の司令部に行き、イワノフに会って、ヴェラとの正式な結婚はできるかと尋ねる。イワノフは、日本の戦後処理が未解決だから、千石はロシアにも中国にも帰化できず、ヴェラもまたソ連、中国どちらの国籍も持っていないので、結婚を認める法律がなく、正式な結婚はできないと答える。千石がヴェラを連れて日本に引き揚げ、米軍占領下の日本がソ連軍進駐地区からのロシア人の入国を認めるとすれば、法律上の結婚は可能かも知れないと付け加える。そして、既に事実上の結婚をしているのだから必要ないだろうと言う。また、忍耐力があるなら、結婚はいつか正式に成立するだろうとも言う。イワノフは軍関係以外のロシア人の問題を処理している将校の所に千石を連れて行く。その将校はヴェラの父親がレオニード・カチャーエフと知ると、五年後にまた来いと言う。「亡命者の子弟は再教育される必要がある」と言う。五年ほど待たなければ正式な結婚はできないということだ。ヴェラはこの結果を聞いて、「あんたは耐えられる? 」と千石に訊く。千石は答えない。「あたし、日本へ行けないかしら? 」とヴェラが言う。「…行けないね。ここを出してくれないよ。よしんば潜って出ることができるとしても、日本へ入国できない。戸籍じゃ、僕は独身だからね。あんたは共産圏から来た女スパイと疑われるのが落ちだ。そのあげくに、あんただけ、日本から追い返される」「じゃァ」「あたしといっしょにロシアへいきましょう? 」「今度は僕が抑留されて、追い返される。」日本の講和を待つにしても、アメリカは日本をロシアに対する最前線という形で独立させるだろうから、そんな日本をソ連や中共が承認するとは思われない。だから「僕のようなさまよえる日本人は、依然として未解決な人格にとどまる…何十年も経って、僕たちが白髪だらけになったころ、事実上の帰化が認められるのかな…」と千石は投げやりな口調で言う。しかしヴェラは挫けない。「いいわ! 」「あたしたちを再教育しなけりゃ信用できないというんなら、どんなことにだって耐えてみせるわ。その代り、この結婚だけは認めさせるんだ」と言う。それに対して千石は、「あんたはすぐれたソ連人として認められるようになるよ」「そうなると、しかし、ますます困難になるな。僕は逆立ちしたって、なれっこないんだから…」と呟く。「どうして! 」「どうしてって…僕はいろいろやっているうちに、ブルジョアの千石二世とは段々人間が変って行くだろうと思ったがね、そうしてその気持はいまだってあるにはあるんだが、それとは反対に、とても駄目だ、連中とはとてもつき合いきれんという気も、段々しかけて来ているんだ…」と弱音を吐く。「なんてこと云うの! 」「さっきからおかしな云い方ばかりして! どうでもよくなったみたいだわ」とヴェラは千石の腕を掴んで激しく揺すぶる。「不利な立場に立っているのは千石だけではなかった。ヴェラだとて、不信と誤解の中を生きなければならないのだ。それも、いつになったら信頼されるという保証はないのである。けれども、あるいは、それだからこそ、(略)必ずうまく行くようになると無理にも思い込むように自分を嗾しかけている」のだ。ヴェラは気落ちしている千石を励ます。「ねぇ、あたしたちの未来は、二つしかないんだわ。没落するか、新しい時代に追いつくかしか。そうでしょう? いつかは、あたしたちだって、これでよかったんだと思うときがあってよ。そう思わない? 不利な負い目を悔んだりせずに、背負い通したら、誇りに思うことだって許されるでしょう! それで充分じゃないの! 」黙ったままの千石は、「ねぇ、それで充分だと云ってよ! ね、そう思うでしょ? 」と促されて、「それで充分だよ」とかすれた声で同意する。(第五部1 章)

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