第Ⅰ2節

 千石が思惑の成功を告げた時、ヴェラは喜ばず、千石に「きちんとした仕事」に就くことを再び求めるが、その時、「…イワノフさんは云ってたわ。あんたがそんなところで腕前を振るったのは、重大な間違いだって」と言う。それが千石のみじめさを突き刺す。「『…君の云うことは一々もっともだよ。インフレが深刻だから切下げが行なわれたのに、あべこべにそれで儲けた俺の行為は、反人民的だとイワノフは云ったんだろう。イワノフや通信技師の云うことを君が尊重するのは結構だが、俺に受け売りはやめてくれんか。あれは権力機関の代理店だって、みんなやったんだ。みんながやったから、俺もやっていいというんじゃない。知らずにいたら、どうだったかということだ…』/云えば云うほど、千石は体が慄えだしそうになった。気持が納まらないのである。ヴェラに感嘆してもらう必要はなかった。ちゃんとした仕事と思ってはいないのだ。なぜ、ヴェラが、それをことさらに云う必要があるのか。/これ以上云えば、イワノフか通信技師に対する嫉妬と聞えるに違いなかった。千石は彼ら個人に嫉妬しはしなかった。彼らが単にロシア人であることによって、千石よりも優越していることに、嫉妬しているのであった。」千石は「今夜は君のベッドに招待してもらえそうもないな」「…楽しくなくなってしまったな」と言ってヴェラの家に行くのをやめ、ヴェラを馬車に乗せて帰す。「男が和解のほとんど唯一の方法を求めようともしないし、送ってくれるつもりもないらしい」ことにヴェラは悔しそうに唇をかむが、「ヴェラは、馬車が走りだしたとき、ふり返ることをみずから禁じた。千石は間違っているのである。千石はヴェラの寝室まで来て、間違っていることを認めるべきなのである。ヴェラを妖しい感動へ導き入れて、あらたな決意と抱負を囁くべきなのである。ヴェラは、一年半前、電車の停留所で思いがけぬ出来事に当惑している千石をみかけたことを、なつかしむのと全く同時に、後悔した。あのときみかけなければ、どちらもこうはならなかったのだ。彼は恋人には不適当であった。女を愛するような男ではない。女から愛されることさえも、わずらわしがるようである。彼は男と女の双方の幸福などは、考えもしないのだ。彼は自分の存在を自分で承認したいだけなのだ。彼くらい傲慢な男はいなかった。彼ほど強情で頑固な男もいなかった。千石を愛したりするのではなかった! 」と思う。ヴェラは手の中の紙幣を握り締める。それは千石が思惑で稼ぎ、馬車に乗る時ヴェラに持たせた紙幣だ。「千石が唇を結んで、うなだれることを嫌って、ことさらに姿勢を正して夜の街をさまよっているのが、見えるようであった。その男は、いつも、昼も夜も、そうやって、一人きりで、黙って、知謀と精力を傾けて戦いを挑んでいるようであった。ときどきヴェラに向ける顔が、俺にはそうしかできないのだよ、と嘆いているようでもあった。ヴェラは、手を伸ばせば届く馭者の背までの暗い隙間に、自分が乳房を与えたときの男の渇えた、それでいて全く無防備な、頼りなげな表情を思い浮べて身慄いし、いよいよ手を握り締めた。その男とヴェラにとっては、そうした快楽が唯一の救いのようであった。そうしている限り、その男は敗けた国の国民でも、崩れ落ちた階級の男でも、故郷を失った人間でもなかった。ヴェラもまた、そのときだけ、亡命者の娘でもなければ、新しい信頼を得るために絶えず気がねし、しかもそれを人に見せないように快活に振舞ったりする必要がなかった。二人は、単に、男と女であった。それだけでは、すべてがあまのに不充分すぎることを、互に知り抜いていて、なおそれで充分だとしなければならぬようであった。/千石は、ヴェラがそうした状態から自分だけ脱け出たいために、千石のしたことにケチをつけたと思いはしなかっただろうか? /ヴェラは手の中の紙幣をもうそれ以上は握り締められなくなって、堰が切れたように馭者に口走った。/『引き返して』(略)『早く! 』」しかし引き返した街路には千石の姿は見えなかった。(第五部18章)ここからは二人の恋愛がセックスの快楽だけに慰籍を見出だすような、一つの行詰まりに陥っている様子が窺える。二人のそれぞれが負っている「宿命」が前途を厳しく閉ざしているのだ。

 ヴェラとの結婚に対して千石は次第に消極的になっていく。その最大の原因は、日本のブルジョアという古い自分からの脱却を目指す企図が既述のように挫折し、前途への展望がなかなか切り開けないということである。他には、侵略し、敗北した国民であるという引け目意識も絡んだイワノフとヴェラの関係への「邪推」も作用していよう。

 千石が自分とヴェラとの隔たりを強烈に意識する場面がある。ヴェラの家の近くで、ロシア人達がバラライカとアコーディオンの伴奏で踊りに興じる場面だ。千石は仁礼の紹介で「ちゃんとした仕事」が見つかったことをヴェラに伝えにきたのだが、ロシア人の輪の中で、「花模様のスカートをひるがえして、独楽のように回っては、きまり、またリズムに乗って回っては、ぴたりときまって見せている女が、ヴェラなのであった。」ヴェラは桜色に顔を上気させていたが、「千石は、まだ、こんなに輝いた女の顔を見たことはなかった。それは、二人きりの、互に激しく奪い合った恍惚境でも、見せたことのない顔であった。満ち足りているというよりは、底抜けに陽気で、豊富で、単純な顔であった。ヴェラだけではない。どの顔もそうであった。千石は熱気のような昂奮に捲き込まれながら、それとは全く反対に、絶望的に滅入りはじめた。どうあがいても、とても及ばないという感じなのである。踊りが特異なせいも確かにあった。けれども、千石にはそれが踊れないというからではなかった。ことは、むしろ逆のようであった。よしんば踊れたとしても、この熱気のなかに溶け込むことができようとは思えなかった。ヴェラが何のためらいもなく、少しのわだかまりもなく、踊り興じていることが、実は、そこに千石がいないからのことのように思えてならないのだ。」そこにはイワノフも来ていた。イワノフは千石に「…どうです? 仲間に入ってみませんか」と声をかける。千石は「よした方がよさそうです」「ヴェラ・カチャーエワは楽しそうです。私の方は怯じ気づいています」と答える。イワノフはヴェラから千石の就職について頼まれていた。彼は千石に「どうも、専門技術者以外の日本人を使うところはなさそうなんです」と告げる。千石は「帳簿係にでも私を推薦して下すったんですか?」と厭味をいう。そして、自分は仕事を見つけ、それをヴェラに伝えに来たが、踊りを見ていて気が変ったと言う。「…なぜですか?カチャーエワさんは安心するでしょうに」と言うイワノフに千石は伝言を託す。「…私からは言えないのです。ヴェラ・カチャーエワにこう云って下さいませんか? 君は、ほんとに、あの日本人と幸福にやって行けると思っているのかって。(略)ヴェラと私がこうなったのは、あなた方の進駐直後のことです。そのころは、女を肉欲の玩弄物としか見なかった気の立った兵隊たちに較べれば、私は立派に見えたでしょう。私は萎縮しないために虚勢を張っていましたから。虚勢も、そのころは、美徳の一つでした」千石がこんなことを言うのは、ヴェラの踊りを見ていて、「私はやっぱり外国人の居候なんだ」と思ったことと、前途の開けない自分よりはヴェラの将来は幾分かは明るそうだからだ。「ヴェラ・カチャーエワには、いろんな可能性が出てきたようです。少なくとも、表面上はね。レオニードやミチカのことも、いい按配に彼女の致命傷とはならなかったようです。たぶん、あなたのお力添えもあってのことと思いますが」「…私の方はというと、私は段々保守的になってきました。なりたいわけではないのですがね。可能性が鎖されてくるからでしょうか…」「こう云ったからって、イワノフさん、私はヴェラの未来のために身を退こうなどと考えているわけではありませんよ。ただ、ヴェラが、ほんとうにどう思っているか、です。自分の本心なんて、自分にわかるものではありません。たいてい、相反したものが二つとも、同居しているものです。ちがいますか? はたから見て、どちらが…」と千石が言うと、イワノフは「あなたから見て、どうなんです? 」「カチャーエワさんにとって、あなたは有益な存在なのか、有害なのか…」と言う。千石は「有益と有害と、二つしかありませんか? 」「二つは、それぞれ別個のものですか? 」と問い、イワノフに「あなたに必要なことは、私をやりこめることではなくて、どっちを選ぶかということでしょう? 」と言われると、「選べれば、行動しますよ、いずれにしてもね」「私に云えることは、イワノフさん、好きな女から憐れまれたくないということです。虚勢は既に美徳ではなくなりましたがね。私は、こういう云い方をすればあなたがきっと軽蔑なさると思いますが、ヴェラ・カチャーエワという女の肉体を愛しているだけかもしれません。少年のころからの幾つかの夢が、たつた一つだけ実現しました。」と言う。(以上第五部22章)この場面にはヴェラとの恋愛、あるいは結婚に自信をなくした千石の姿がある。「外国人の居候」である男とヴェラは本当に一緒になる気なのか、それでいいのかという気持ちである。

 こうした千石のヴェラに対する隔たりの意識はヴェラの理解できないところである。ヴェラはイワノフから千石が絶望的になっていると聞いて、「…あたしがあんたを憫れんだりしたことある? 」「あんたに安定した仕事がないと、あたしの気持が変るとでも思ってるのね? 」と千石に訊く。そして「…やるだけやって、どうしても駄目なら、あたしを日本へでも、どこへでも、連れて行けばいいわ」と言うのだ。

 しかしこの後、前述のように、千石は中国人周の面接を受けて採用を断られ、C市での生活に展望を失い、C市を離れる決意をすることになる。

 ヴェラをどうするか、千石は迷う。千石は劉猶棟から船を買い、志摩に出港許可を取ってくれるよう頼む。志摩は自分を同乗させ、日本に着いてから四カ月ほどただ飯を食わせるという条件で承諾する。志摩は剣持が計画している対日交易ルートの整備を目的に行くのだが、日本からまた引返して来るという。「どうやって? まさか、俺にまたやらせるわけじゃあるまいね? 」と千石が言うと、「あんただって、またやる気になるかもしれんじゃないか」と志摩は笑いながら言う。千石は「…僕は、決行するとすれば、それは旅へ出ることなんだよ、自由を求めてね」と冗談を言う顔付きで返す。志摩は心得顔に、「だから、あんたはやるだろうと云うんだよ。自由がない方へ自由を求めに行くんだから」と言う。千石が日本を離れる時は「自由を求めて旅に出る」時なのだ。この会話は今後の展開を暗示している。

 千石はヴェラを連れて行くかどうか「同じ悩みの円周内を堂々めぐり」する。「ヴェラの未来のためには同行しない方がいいと判断していて、その判断に彼の官能が抵抗して」いた。ようやく出港許可を取った志摩は、「乗り組むのは日本人に限ると念を押されてるんだよ」と千石に言う。それがヴェラについての千石の煩悶にとどめをさした。

 明日C市を離れるという夜、千石とヴェラは一緒に映画を見る。ヴェラが見たいと言った映画は、皮肉なことに独ソ戦のなかで愛を貫いた夫婦の物語だった。「すばらしいわ、あんなに愛せたら」とヴェラは言う。二人はホテルで抱き合うが、千石は遂に翌日の出港のことをヴェラに告げなかった。


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