第2節
白祿寿の野心と、千石の将来への希望を乗せた機帆船がC市の港を出たのは、アカシアの花が初夏の前触れとして市街を甘く蔽った頃だった。千石は契約が成立した瞬間から不安感に苦しみ始める。失敗した場合の大衆への責任を思うからだ。白の出港後、日が経つにつれて不安の影は濃くなっていく。南朝鮮から幾つとなく船が入り、その中には白が行った仁川からの船もあったが、白の動静は不明だった。千石は恋人のヴェラ・カチャーエワにも不安を語る。「以前の僕ならね」「まかりまちがえば、自腹をきればすむとたかをくくっていられた。だから何でも度胸よくやれたんだな。いまはそうは行かないや。逆さにふっても弁償できない」「商人同士の取引なら、こんなことは問題じゃない。損して相手が文句を云ったら、仕事じゃないか、儲けそこなったからって泣言を云いなさんなですましてしまう。今度のは善意で大衆を欺したことになるかもしれんからね。そういう結果になったら、弁解の余地はない。しかもだよ、僕は、欺した事実なんか絶対に認めたくないからね」(第二部23章)
不幸なことに千石の不安は的中する。千石は朝鮮人商人から、日本人の組合の品物を持っていった朝鮮人が帰って来ているという情報を得る。調べてみると、白は中国人商社の船に手ぶらで乗って、こっそりC市に帰ってきていた。朝鮮人の船が入港した場合は朝鮮人民主連合会に連絡があるのだが、中国人商社の船は主権者の威厳をもって連合会への連絡の義務などは認めないのだろう。だから千石には情報がつたわらなかったのだ。千石はその中国人商社に出向き、支配人と会う。支配人は白が南朝鮮で大当りを取ったと自慢していたと言う。白の宿所は不明だった。千石は白が乗った船を宰領していた朝鮮人を探し出した。その朝鮮人は、白は失敗して無一文になって、もう一度勝負をしたいから乗せてくれというので乗せたまでだと話す。白の宿所はもちろん聞けなかった。千石は全ての朝鮮人商社を訪ね、朝鮮人商人たちの溜り場もほとんど見てまわったが、何処へ行っても、白の顔は見掛けるが、今日はまだ来ない、いつ来るかわからないと言われる。そんな折、料亭と宿屋を兼ねている店の女将格の女が偶然千石に誘いの声をかけたことで、その店に白が客として居ることが判明する。千石はその部屋に乗り込む。白祿寿は街から連れてきた二、三人の女を侍らせて、数人の仲間と話に花を咲かせていた。千石を見て白の顔色が変わる。「おいでになるのを待っていましたが」「しびれがきれて押しかけてまいりました」と千石は皮肉を言い、「どうでした?当てたという評判でしたが」と急所に話を向ける。白は肚が据わったように、「当てたことは当てたんですが」「売掛金をごっそり持ち逃げされましてね」と答える。「それで、こちらにおいでたのは、その報告にでも…?」と千石が斬り返すと、「仕事もせずにそいつを追いかけていたんじゃ、こっちが飯の食い上げになりますからね」と開き直った。「回収する見込みはありますか?」と問う千石に、白は「なければ僕が困るじゃないですか」「しかし野郎も生きものですからね、もしも野郎が金を使ってしまったら、こっちはいいツラの皮だ」と答える。「つまりどういうことですか?白さんは回収するつもりなのですか?」と更に尋ねられて「回収したいですね」と一歩引いた言い方をする。「できない場合には?」と千石はたたみこむ。ここで白の本音が出る。「やるだけ僕はやったし、これからもやるんですよ。しかしね、センコクさん、これは人間同士の商売だ。思いがけない事故はどうにもしようがないでしょう。当ったんだが、ケツが割れた。こんなことは、お互い、考えてもいませんでしたよ。センコクさんみたいに、どうする、どうすると詰め寄られても、どうもできないときは、仕方がないですよ」と逃げを打つ。「仕方がないでは困るな」と千石は「ほんとうに困ったときの笑いを浮かべ」損失は日本人労働組合と、白祿寿及び朝鮮人民主連合会が折半して負担するという契約条項を引いて、白の対応を尋ねる。白は、払わんとは云わない、金ができたら払う、と言うが、「いつ?」と訊かれると、「それはわからんね」と答えて、仲間の方を助けを求めるように見た。それに応ずるように仲間の朝鮮人の一人が、「白君は払うと云ってるじゃないか。払えばいいんだろう、払えば、え、払いさえすれば文句はないだろ」と言う。千石は「黙りたまえ!はたの者がつべこべ云うことはない」と怒鳴ってしまう。それが朝鮮人達を刺激する。白の仲間の一人が、「君は日本人だろ!そんなでかい顔、いつからできるようになったんだ!」と叫ぶ。千石と朝鮮人達とは和睦を図る途なく対立する。千石は「無残な幻滅である。計画は間違っていなかった。何かが間違っていた」と思う。(第二部28章)
千石の家で話し合いが行われる。白祿寿と李応万、他に朝鮮人民主連合会から七人の朝鮮人が来た。日本人は千石一人。話し合いの雰囲気は始めから、日本人が朝鮮人をとっちめるとはけしからんというものだった。「君は朝鮮人を信用しないのか?したくないんだな?」「朝鮮人をドロボウだ、云うか!」と朝鮮人達は千石の言葉に感情的に突っかかり、冷静な話し合いはできなかった。連合会側が感情的な対応に出たのは、民族意識の他に、理詰めで話をすれば契約上連合会が責任を負って債務を支払わなければならなくなるが、そんな金はないという事情もあった。千石は自分と連合会との間にあって沈黙している李応万を意識しながら、「あんたたちは連合会の看板を掲げて、コムミュニストみたいな恰好だけはしておられる。他の場合、他のことでは、そうなのかもしれません。しかし、いまの、この席上でのあんたたちは、全然コムミュニストなんかじゃアない。あんたたちは視野の狭いナショナリストだ。朝鮮人は日本人から迫害された。いまは立場が逆になったが、主義の看板があるから復讐するわけには行かない。そこへ持って来て、白という朝鮮人の失敗を、憎い日本人である僕から追及されるもんだから、朝鮮人として腹が立つだけのことだ…」と言う。座は騒然となる。李応万が、「千石の云い方に適当でないところもあったが、俺は、忠実な仲間として、千石を支持する」と言う。C市では東北民主連軍の青年将校は大きな権力を持っていた。会合は李応万の主導権の下で、連合会は決して責任を回避しないが、善処するには時間が必要だから、その旨を諒解するように千石から組合に説明してほしいという結論を出して終った。李は去り際、千石に、「僕はコムミュニストの名誉にかけて、この問題を解決しますよ」と言った。(第二部30章)
翌日、千石が組合に行き、仁礼に報告して不始末を詫びると、仁礼は「それは却ってあなたにお気の毒でした」「こっちでも適当に対策を考えますから、どうぞ御心配なく」と困惑の色を見せず、あっさり了解する。側にいた志摩が、同志的に解決できると言う。千石は金がない時に「同志的に解決する」とは「同志的に諦めろ」ということになるのではないかと思うし、李の言葉についても「コムミュニストの名誉」が金を生むとは思わない。千石の計画に乗った仁礼や志摩が「経済主義だの冒険主義だの」という批判を組合関係者から受け、失脚する恐れのあることも知る。しかし、このときの千石には、仁礼や志摩が置かれている「組合の内部も背後も、組合を取り巻く力関係も、ほとんどわかっていなかった。」ただ「自分の善意が原因となって、自分を傷つけ、他人に迷惑をかけるということが、許せない」千石は、「自分の善意が正当な結果に到達するまでは、相手が誰であろうと、争う」決意を固める。(第二部31章)
ここで描かれているネクタイと食糧品の交換という計画は、五味川自身が実際に同様のことを行ったようだ。当時、大連で「日僑勤労者消費組合」の営業部長をしていた高橋庄五郎氏は、「著作集」の「月報12」で、「栗田君(栗田茂・五味川の本名ー筆者注)は商売を持ち込んできたのである。(略)彼は北朝鮮から明太子のからし漬を千樽ぐらい持ってきたが、やはり高価なものであったから、私は百樽買って、これ以上はいらないと断った。私が一番困ったのは朝鮮の塩鯖とネクタイの交換だった。ネクタイ一本に塩鯖一本の交換ということで、日本人のネクタイを集めて渡したのだが、待てど暮らせど塩鯖は入ってこない。ネクタイを五本、十本と出した人たちからヤイノ、ヤイノの催促である。私は腹を立てて朝鮮人商人と会った。結局はトラック一杯の塩鯖を受け取っただけで、あとはネクタイ一本を三十円か五十円にして朝鮮人商人が現金で支払った。日本人のほしかったのは塩鯖であったから、栗田君のアイディアは実現しなかったわけである。」と書いている。この計画は実際にもうまくいかなかったようである。先に引用した石堂清倫氏の「解説」には、「われわれ(消費組合のことー筆者注)が食糧調達で五味川氏を通じてある経済機関を一つのルートとしていることは誰にもわかっている事実である。」とか、「われわれが必要とする食糧は、主として職工総会系の組織を通じて調達できた。しかし、それで不足な部分は、ソ連機関と五味川氏らの機関で補わなければならなかった。」と書いている。これらを読むと、当時五味川自身が大連在住の日本人と朝鮮などを結ぶ経済活動に従事していたことが推測される。小説の叙述はこうした作者の体験を下敷きにしているのだ。
この後、千石の恋人であるヴェラ・カチャーエワが、その弟の関係でソ連の特務機関に連行されるという事件が起き、千石はソ連の官憲筋に顔がきく立花女史に二十万の金を渡して、ヴェラと弟のミチカを釈放させる。その二十万は兄嫁の朋子には秘密で、千石が李応万から借りたものだった。持ち物を整理すればできない金額ではなかったが、朋子に知られてしまう。理由を説明しても朋子を納得させることは絶対にできないことだった。千石は無報酬で合作商社のために働いてきたが、もしブローカーとしてブローカーレージを受け取っていたら、そのくらいの金額になるはずだった。しかし千石は李に必ず返すと約束する。白祿寿の件で被った損害の一部を自分から回収しようとしているのでは、と李に思われないためだった。朋子は千石が李から借金した事実を宗から聞き出し、ヴェラへの嫉妬に心を焼きながら、千石に隠して自分の宝石を売り、二十万の金を作って李に返す。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます