第3節


 日本人と中国人の間の住宅調整が行われることになる。C市の五分の四の面積を二十万の日本人が独占していて、中国人六十万は五分一のところに押し込められている状態が日本の敗戦後一年たっても続いていた。住居面積では日本人一人当たり六畳なのに対し、中国人は三分の一畳しかなかった。この不平等を是正して、一人当たり大体二畳に平均化しようという政策だ。日本人の多くはこの政策に反発した。「正当なことが、迷惑でしかなかったのだ。民族的な贖罪を、個人の行為に分配されることが不服なのであった。雑居を承認する代りに何を与えられるという希望が、カケラほども見当たらなかったので、実はそれでもなお日本人と中国人の生活の隔差はかなり著しいにかかわらず、一方的に不利を強制されたようにしか感じたがらなかったのだ。」(第三部25章)

 元の千石商事で最古参の社員の野依が珍しく千石を訪ねてくる。近所に住んでいながら千石商事の解散以来、ほとんど姿を見せなかった男だ。用件は、町内の者が集って住宅調整の対応策を相談するので、その場所に千石の家を貸してもらえまいかというのだ。千石は応諾するが、出席は失礼すると言う。早晩実施される住宅調整に参会者は虚しい抵抗を試みるだろうが、その場に居合せて反対派の張本人と目されてはたまらないというのが千石の考えだった。一方、千石を住宅調整運動に対する防波堤に仕立てたい野依は、千石の欠席表明にあわてるが、そばから朋子が「逃げちゃ狡るいわ」「あなたの意見をきかれるにきまってるんだもの、あたしじゃどうしようもないじゃない」と言ったことで、「千石は逃亡を諦め」る。

 町内の集りでは、「侵略侵略って、俺たちが侵略したかや。俺は満助の高利貸から侵略されて、すんでのことに破産しかけたことだってあるによ」「大体だな、日本は戦争に敗けるには敗けたが、誰に敗けたんだってことをはっきりさせなかったのがいけねえんだ。そうでしょうが。日本は支那には敗けなかった。戦争が終る瞬間まで、重慶を圧迫してたんだ。」「そうですよ、われわれの家を明け渡せと云うんだって、これが相手がアメリカなら、確かに敗けたんだから仕方がないってこともあるが、八路に降伏したわけじゃないですもんな。」「そんなに日本人の家が欲しかったら、あたしたちを早く日本に帰してくれたらいいじゃありませんか。明け渡してあげますよ、ねぇ!」「ほんとに!いつになったら帰してくれるのかしら。国民党軍が支配してるとこじゃ、もうほとんどコロ島経由で引揚げさせてしまったってのに」という苦情が続く。これらの言葉には敗戦を迎えたC市の日本人の中国人に対する意識が集約的に表現されている。市政府に協力して住宅調整運動を進めている日本人組合に対しても矛先は向けられる。「組合のバカタレが!何十人も雁首を揃えて無駄飯ばかり食いやがって、引揚促進一つ面と向って当局に催促できないたァ、なんてざまだ!御機嫌取りですよ、この住宅問題は。奴らは私らを狭い柵の中に追い込めば、優秀な民主分子ってことになるんだ。そのためですよ!」

 その時、一人の若い男が口を開く。「住宅調整はたいへんな運動ですけれど、政府当局が決意するまでに一年の時間があったということは、僕たちみんなの中に、いまここでお話に出たような不満があるってことを、充分に考えたんだと思います。でなかったら、単に中国人を喜ばせるだけのためにやるんだったら、もっとずっと早くに、日本人の物を奪え、日本人の家を取れとやれば、簡単にできたでしょう。そうしなかったのは、一般日本人を敵とは考えていないということじゃないですか。僕たちは命令で戦争に狩り出されましたが、敗けたとたんにいままで僕たちに命令していた人たちから放り出されっぱなしになりました。偉い連中は何処かに隠れてしまうか、さっさと内地へ逃げ帰ってしまったんです。その僕たちがですね、自分たちの力でどうにか平和に暮らすことができるようにするのには、ここでは中国の人たちと協力する以外に方法はないと思うんです。」人々は驚いて一瞬黙るが、すぐに反撃が始まる。若い男に、組合の人間か、独身か、家は何処にある、と質問し、彼が独身で中国人の家に置いてもらっていると判ると、「じゃァ、この人はなんとでも云えるわけだ」「満助の味方もしたくなるさ!」「あんたねえ、世帯を背負った上で、この問題と鉢合せしてごらんなさいよ」と言い始める。「その人をそういうふうに攻撃して、何かのたしになりますか?」と千石が、「これは彼自身がほとんど言葉を選びもしないうちに、言葉の方から飛び出て来たように」言う。「その人が何処に住もうが、何をしていようが、独身であろうがなかろうが、いま云ったことの道理に間違いはないでしょう?あってくれれば、みなさんは反対する必要はなかった。ないから反対しなければならなかった。ちがいますか?」と千石は続ける。ここには「道理」を重んじる千石の考え方が明確に出ている。人々は黙るが、「慴伏したのでは無論ない。」「あわよくば、正面に押し立てて、売れた『顔』の義務を負担させたかった人物」が裏切ったのだ。やがて攻撃が始まる。「千石さんは、いまのお若い人と同じ意見で?」「家を立退かされるのが、仮りにあなたであってもかまいませんか?」「畳の上に住めもしないチャンさんたちが、土足でズカズカ上って来るのも平気ですか?」「生業は立たない、引揚はいつになるやら見当もつかない。家はあけろが、この若い人が云うような道理で、正しいんですな?」と質問を浴びせ、千石がいずれも肯定すると、「じゃァ、日本人はお先まっ暗で、どんな無理でも聞いていなくちゃならんとおっしゃるんですか?」と畳みかける。

 その時、「この人は戦争中は大ブルジョアで支配階級の代表選手。敗戦と同時に看板を塗りかえて、従業員を目腐れ金でおっぽり出してさ、店ごと支那人に売り渡して尻尾を振った人。いまじゃ協力分子のチャキチャキよ!裸になりました、なりましたってな顔して、二十万円もする宝石を売ることのできる裸なのよ!」と大声を張り上げて言ったのが野依春江だった。「…野依さん!」と腰を浮かした朋子を千石が「黙って聞きなさい」と抑える。春江は、「千石さんのために云ってあげるわ。千石さんを見そこなわないでちょうだいって。みんな気がつかないんですか?千石さんはね、住宅調整があったって平気なのよ。この家はとっくに朝鮮租界になってるんだから。租界の中で朝鮮人の御機嫌をとってりゃ安全なのよ。頭のいい人はちがうんですって!」と続ける。「…それだけかね?」と千石が自分を抑えた声で言うと、「もっと云いましょうか…」と春江はさらに息巻こうとするが、その時「朝鮮人がどうしたか」と李応万が姿を現す。李は「ここは私の部隊が市政府から正式に借りたんだ。千石さんの家ではない。千石さんは私との契約によって、私の共同経営者だ。千石さんをこの家で罵倒することは、私を罵倒することです。誰か、まだ私を罵倒したいですか?」と言う。声のない動揺が一座を支配する。この白面の青年に開き直られると、誰からも立ち向う気力は消え失せたようになる。千石が李応万から救われるのは白祿寿の件で朝鮮人達と対立した時に次いで二度目だ。白祿寿の件の場合は朝鮮人の民族的なエゴイズムと対立したのだが、今は日本人のそれと千石は対立しているのだ。いずれの場合も千石が立脚しているのは人間的な道義だ。ほっとした千石は、「忽ち、にがい、ほとんど絶望に近い悲哀に落ち込」む。李の一声で沈黙してしまった一座の様子が、千石を含めて「日本人が置かれている正確な位置」を示しているからだ。(第三部19章)  

 昭和二十一年の秋の終り、C市在住の日本人約二十万人の引き揚げが発令される。これによって住宅調整運動は中絶される。「やっとのことで助かった!と大多数の日本人がそう感じたのは事実である。その限りで、中国人には多大な教訓と成果をもたらした巨大な経験の、その全く同じ面から、日本人があまり多くを学ばなかったのも事実であった。」千石は残留することにした。その思いが叙述されている部分を引用する。

「千石家の場合でも、初代の一平が日露戦争の終りごろに渡満したときには、故郷の人々から『三千円掴んだら帰って来なされや』と励まされたものだし、当人もはじめはその気でいただろう。その一平が『満蒙』を墳墓の地と心得るに至ったのは、『満蒙』が隆々と発展するにつれて、山口たちよりは一時代前の数少ない草分けの一人としての誇りが、その後に続いた『出稼人』たちとは異なった気質を形作ったもののようである。千石二世たちは、初代のこの気質の影響を受けずにはいなかった。むしろそれしか知らずに育ったと云っていいだろう。千石二世にとっての故郷という概念は、盆景のような内地の風物とは結びつかないのだ。それは、涯てしもない平野であり、赤土であり、禿山であり、夕方になると地平線の彼方を血の色に染める巨大な赤い夕陽であった。いま、この千石二世、千石家の三代目の当主が、(略)内地を帰って行く場所とは決して実感することができないのは、彼にとっては既に内地こそが異邦でしかなくなっているということである。」(第二部14章)

「千石研介は、その意味では、千石一平の亡霊に過ぎないのかもしれなかった。彼は、千石一平の繁栄の歴史の裏返しを、祖国に追い返されるという形で果たしたくはないのである。祖国は敗残者となったが、研介は敗残者でも流氓二世でもなかった。父一平たちによって拓かれたこの土地が、彼の存在にとって汚辱の母胎となってはならなかった。彼は知らない祖国に帰るために生れたのではなかった。この土地の営みによって生れ、この土地の生長を生長としたのである。彼はヴェラがレオニードから承け継がされたであろうようには、一平から祖国を承け継ぎはしなかったのだ。満洲二世は、汚辱と悲劇の子ではなかった。彼は地大物博の祖国を持っていた。祖国は、ここであつた。」(第四部26章) 「僕が引揚げなかったのは、日本人だから引揚げなければならんということが、承服しかねたんだと思います。千石商事は植民地利潤で太ったからけしからんというのであれば、千石商事の三代目の僕は日本という後ろ盾なんかなくてもやって行けるんだということを人にも自分にも見せたい気持がありました。」(第五部20章)

「虚栄にすぎんとあんたは笑うかもしらんが、僕は、引揚者収容所に集結させられて、誰かが決めた配船の日時に乗船させられて、満洲よさようならとは云えんのだ!日本人が満洲に生まれたのが間違いだったのなら、その日本人は満洲から出て行くが、輸出される家畜のようにクレーンで巻き上げられたり、ドラの音にせき立てられて狭いブリッジをすごすごと渡ったりはしない。ここは俺の家だよ。生れた瞬間からそうだった。そこへ、あとから誰かが来て、ここはお前の家ではないと云った。調べてみたら、おやじが人から奪った家だとわかった。仕方がないからあけ渡すが、すみませんでした、私を軒の端にでも寝かせて下さいとペコペコできるかね?俺はロシア語や中国語を、それで飯を食うために覚えたんじゃない。ここで誰とでも同じ空気を呼吸するためなんだ。あとでこじつけた理窟じゃない。日本の日本人が満洲を匪賊の巣と思っていたときに、僕は中国人の子供と山でバッタをとって遊んでいたんだ。中国人のおとながキリギリスを火に焙って食ってるのを見て、僕はうちから金を盗み出して食い物を持って行ったことがある。真剣だったよ、僕は。僕がなぜお坊ちゃんで、彼はなぜキリギリスを食わなきゃならんのかとね」「夕方になると、中国人の子供達は山の裾の部落に帰る。僕は街に帰る。なぜちがうんだろうと悲しい思いをしたもんだが、でかァい夕陽が笑っていてね、あしたもまた遊べばいいんだと思い直したよ。(略)子供のころのままに育てば、僕は中日人民を結ぶかけ橋の桁の一つぐらいにはなれたかもしれんな」(第五部29章)

 こうした千石の思いには、自身が満洲生まれの満洲育ちである作者五味川の思いが色濃く投影している。五味川は「著作集」の「月報」に連載した「追憶」のなかで、「学校を卒業して、満洲へ『帰って』、大きな製鉄会社のサラリーマンになった。『帰って』としか言いようがない。満洲は外地で、日本の属領では決してなかったが、私にとっては生れ故郷で、そこで育った土地なのである。日本内地こそは私にとっての外地であった」(「月報16」) と書いている。まさに千石の思いと重なる。

 千石の満洲に対する思いは彼の自己認識に関わるもので、彼の生き方を規定する重要な因子だ。それで長い引用になったが、これらから分かることは、千石にとって満洲は正に彼の血肉であり、故郷であり、祖国であるということだ。そうだからこそ彼はC市に留まり、そこでの再生の道を模索し続けるのだ。一方では侵略民族の一員であるという負い目を重く引き摺りながらではあるが。

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