第4節


 千石は残留手続きをするために日本人組合の支部を訪れる。支部長の柏木が対応する。「残ってどうするんです?」と訊く柏木に、千石は「やれることをやりますよ」と笑って答え、引き揚げの第一船が出る期日、持ち込める荷物の程度、そして引き揚げ順位に特例を認めるかどうかを尋ねる。「認めんこともないが、千石さんなんかは駄目だな。あんたたちは戦争被害者じゃなくて、戦争利得者だ。引揚完了までには何億って金が要りますからね。あんたたちにはせいぜいカンパしてもらわにゃならん。」「この区には千石さんみたいな奇特な人がいるから、安心してるんだ。」と柏木は笑う。「柏木さんは戦地へ行きましたか?」と千石は訊き、「僕の兄貴は生死不明です。被害者なんでしょうな、これは。柏木さんは被害者のような顔はしておられない。僕は、兄嫁を早く帰してやりたいんです。お願いできませんか」と言う。柏木は「…急ぐことはないでしょう」と不愉快そうに笑い、「どうせあんたたちは、春になったら最後の船で帰国させられるんだ。客観的に残留の必要が認められんだろうからね。必要があるとしたら、侵略の罪科をできるだけ清算することですよ」と言う。「…清算はしてもいいが、僕は残ります」「僕にとっては、満洲は外国じゃない。生れ故郷ですからね。半分だけ祖国ですよ」と千石は応ずる。「半分というのは?」「満洲の方で僕を外国人として扱うという意味です」「そりゃァ仕方がない」と柏木は嘲笑し、「日本の帝国主義的侵略は、きっぱり終止符を打ったんだから。千石家はちょっとした財閥だから、それ相応に歴史の負担を負わなきゃならないからね」と言う。「そう書いてありました、何かの本に」と千石は「切実な気持を裏返しにして」冷やかに笑う。「僕は百万長者千石一平の次男です。八月十五日以後は、没落階級の先達になりました。それが正しいと思ったからだけじゃない。僕の生れた土地がそれを要求したからです。つまり、僕には、ここより他には、いるところがない。仮りに、僕が出稼ぎに来て、儲けて、終戦になったのならね、僕はあなた方組織の人たちや、中国の権力筋がどんなに僕を監視したって、僕は自分の財産を一物残さず日本内地へ運ぶことを考えますよ。そして成功したでしょう。そうしなかったのは、僕がこの土地の人間だからだ…」

 千石は自分が千石商事の財産を放棄したのは、そうするのが道義的に正しいと考えたからだけではなくて、生まれた土地の要求でもあったからだと言っている。この土地以外にいる所のない彼にとって、土地の要求には従うほかはないのだ。侵略を非とする道義観と満洲を我が土地とする意識、この二つが千石と他の多くの日本人が異なっているところだ。

 すると、「へえー、そうしなかったんだって?」という女の声が千石の後ろから飛んでくる。見ると野依春江だ。千石が組合の建物に入ってきた時、柏木と隣合せの机から若い女が黙って別の机に移ったが、それが春江だった。住宅調整に反対した人々の中で「もっとも濘猛に千石に噛みついた女」が、組合支部の机で働いている所を千石に見られては具合が悪かったのだ。けれども春江はそんな気恥かしさを乗り越える逞しさと敵愾心を持っていた。「柏木さん、千石さんくらい要領のいい人はないわよ。あたし知ってるんだから」「…たとえば、あのネクタイのことは、どうしたんですか!」「…未解決だが、失敗は認めるよ」「失敗ですって、冗談じゃないわよ。大成功でホクホクでしょう!」「柏木さん、千石さんを知っている人の間ではね、こういう解釈をしてるのよ」春江が言う「解釈」とは、「千石さんがその後朝鮮人の関係者に対して強い態度に出ないどころか、なんにもしないのは、先方との間で内々の示談が成立したんだって」「さっき、千石さんの兄さんが生死不明だって云ったでしょう。そうじゃないのよ!朝鮮人が会って来てるんだから。それでね、白なんとかって人が朝鮮で温めてある分から、内地の兄さんのところへ分け前を持って行くってことで、こっちで和解したんだって。千石さんは、朝鮮経由で兄さんから受け取ったって報らせを待ってるらしいのよ。報らせがなかなか来ないもんだから、気が気じゃないんでしょう、だからこそ、朋子さんを第一船で帰して確かめたいんじゃない?」「朋子さんて、誰だ?兄さんの奥さんか?」と柏木が訊くと、「戸籍上はね」「どんなことになってるんだか、わかりゃしないけど、そんなこと知る必要もないわ、要するに不潔だわよ、男女関係だって金次第でどうだってなるんだから。こないだも宝石二十万も売ってたけど、あれはサントニンかモンサントに換えた方が、内地じゃ率がいいから…」ここまで言ったところでさすがに千石が、「知ったかぶりのでたらめは、いいかげんにしたまえ」と止めるが、柏木や野依春江の言葉には千石を包む無理解と敵意の層の厚さが感じられる。千石がその活動に協力している組合の内部にこうした人物が少なからずいることが千石の前途の困難を示してもいる。柏木は「野依君が云ったことが事実かどうか知らんが、事実だとしたら、人民裁判にかけなきゃならんよ」と言う。「かけたらいいだろう」「そう開き直ったって立派には見えないよ」柏木は幾分蒼ざめて笑う。そして「僕は、この際だから、あんたに注意を促しておきます」と改まり、「あんたがどんな示談をやったかは別問題としても、あんたが組合組織を利用したことは事実なんだ。あんたは、貧困化して行く大衆の心理を巧妙に悪用した。少なくとも、結果的には、そうではなかったという線が少しも出て来ない。僕がこの区に来てからだって、あんたの甘言に釣られて現物出資した大衆からの苦情を、どれだけ聞いているかしれない。他の区でもそうだそうだ。大衆は組合がペテンにかけたと思っている。そう思わない者は、組合を一介の商人に云いくるめられたバカの寄合い世帯だと思っている。(略)われわれは、いずれ、あんたの釈明を正式に要求するし、あんたを軽率に信頼した組合の偏向分子をも徹底的に追及しなければならない」と宣告する。(第三部27章)千石にとっては最も言われたくない言葉だった。白碌寿の件について千石の家で朝鮮人達との話し合いが行われたのが夏だったが、冬が訪れようとしているその時まで、事件は未解決のままだった。千石はこの問題を自分で解決しようと決意する。

 千石はこの時まで問題を放っておいたわけではない。彼は「組合が大衆に対して負っている分に相当するだけの金額を、朝鮮人側に弁償させるために、利益の上る仕事を考え出」そうとしていた。「この仕事は、利益が上るだけではいけなかった。利益が、日本人の組合に対する損害賠償の形で、必ず支払われる仕組でなければならなかった。約束だけでは駄目なのである。千石はもう信じはしないのだ。相手の民族性をではない。支払い能力のない商人たちとしてである。利益が上るとしても、安心はできなかった。少しばかりの水を汲み上げることができたとしても、それを乾いた砂の上を通してはならなかった。決して水を吸わないパイプが必要であった。そのパイプには彼自身がなるより仕方なさそうであった。それが、しかし、実は困難なのである。仕組としては、朝鮮人側がそのために仕事をし、儲け、そして組合に弁償したことにならなければ、意味がなかった。千石の一人舞台では、幸にしてそれができるとしても、組合が受け取る筋でもないし、千石が支払う筋でもないことなのだ」「千石の考え方としては、これは、弁償さえ行われれば済むことではなかった。あれが成功したとすれば、両方の民族にとって、小さいことながらもすばらしいことであるはずであったのだ。失敗に帰した今日では、誰かがどうにかして穴埋めをすればいいというものではない。千石は古い階級の商人である。彼の犠牲において問題が解決するのでは、問題は彼の中にそっくり未解決のままに残るにちいない。」(第三部17章)「この仕事」のこうした複雑さが千石が具体的な方策を立てることを困難にし、日が過ぎていたのだ。しかし、柏木に非難されて、これ以上問題を放置しておくことはできなくなった。                                

 千石は関税のかからないソ連の船を使うことにし、再び立花女史と接触して、その手筈を整えはじめる。しかし、まだ千石の考えは自分が乗り込んで船を出すことに固まってはいなかった。そんな折、李応万が朝鮮の本部に行くことになる。経済工作の稼ぎが悪くなって、本部に釈明に行かなければならなくなったのだ。その話を李応万から聞いて、千石の計画は急に具体化する。本人が行くと過重な任務を背負わされそうな李応万に代って千石が行くことになる。ただし、千石は朝鮮から持帰る品物の一部を千石個人の所有物と李応万と本部が認めることを条件につけた。彼はそれを日本人組合への弁償に当てるつもりだった。李応万には砲金を買えるだけ買わせた。千石自身も持物や朋子の衣装などを売って砲金を買い、李応万に預けた。持帰る積荷の一部を千石のものと認めさせる代償である。李応万がソ連側と乗船契約を結んだが、李応万の部隊がロシア人の食料買付に責任を持つ代りに、帰りには李応万側の積荷を必ず積むという交換条件だった。千石は李応万の代理人、朝鮮人の李千石として乗船した。

 出港して三週間後、千石は計画通り、大量の食糧品を積んでC市に帰ってくる。

 「所期の目的は果したと云ってもよさそうであった。巨体をゆるがして休みなく海を割っているこの船の腹には、千石が出発のときにひそかに予想したよりも遥かに多量の積荷が詰まっている。千石に一切を托した李応万の仕事は、本国からの輸血で持ち直すだろう。千石自身の願望も満されるにちがいない。彼は当然の権利をもって、白碌寿の不始末に相当する金額を、日本人労働組合に対して弁償させることができるはずである。千石はもう頭を痛める必要はない。彼のために、仁礼や志摩が仲間から弾劾されることは、防ぎ得たようである。(略)彼は依然として最後の資産家の一人だが、その出身を理由として彼を敵視する人々の手から、みずからを護ることにも、ほぼ成功したもののようである。」「彼は、組合に弁償し、朋子に補償しさえすれば、成果のすべてを李応万に与えてもかまわないのだ。ただ、それ以後の彼は、全く自由であらねばならなかった。そう。自由に、誰に対しての負い目もなく、単に一人の男として、一人の女の下へまっしぐらに駆けつけるようでありたかった。」(第四部1章)

 これがC市のソ連埠頭に着く直前の千石の思いだった。「一人の女」とは恋人ヴェラ・カチャーエワだ。ところが上陸した千石がソ連埠頭を出た途端、事態は暗転する。彼は中国の官憲によって逮捕されるのだ。


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