第7節
第三の特徴は、梶が戦争や軍隊という巨悪に対しても決して諦念に陥ることなく、具体的に闘い続けることだ。
梶は同期の小原が自殺した時、小原に私刑を加え、自殺の直前には女郎の真似をさせて嬲った吉田上等兵の処罰を軍曹に要求する。兵隊間の私刑は旧日本陸軍においても軍紀の上では禁止されていたようだ。しかし旧陸軍において初年兵が目上の者の処罰を要求するということは破天荒なことだろう。だが梶にはその方法しかなかったのだ。梶は隊長室に呼ばれ、「上等兵に私怨による復讐を企図しているのか」と訊かれる。既に梶の意図はそのように歪められている。梶は私怨ではないと答え、「内務生活の不条理がたまたま吉田上等兵に最終的な形で現れたから、吉田上等兵の処罰を要求した」と答える。小原の自殺を小原の柔弱のせいにする隊長に対して、梶は、「原因は軍隊であります」と言い切り、たちまち准尉と軍曹から集中的に殴られる。要求はもちろん取り上げられない。梶は、単独行動に訴えるほかないと考え、「吉田上等兵に云って下さい。梶に用心するように」と殴られながら云い続ける。梶と吉田の対決の機会は訪れず、逆に湿地帯の泥水に嵌まった吉田を梶が助け出し、吉田は手当ての甲斐もなく流行性出血熱という風土病で死ぬという結末になるのだが。
梶の言う「内務生活の不条理」とは、古年兵が初年兵を虐待する日本陸軍の悪習だ。彼はこれと闘い続ける。二年兵になった梶は、初年兵の小銃班の教育助手を任命される。梶の学生時代の友人の影山が教育担当の少尉として梶の属する中隊に赴任してくる。その影山少尉の任命だ。「友人としては、頼むんだ。俺を助けてくれ」と影山は梶に言う。梶は引受ける条件として、内務班の編成変えを要求する。要点は初年兵と古年兵を別個の班にして接触を最小限にするということだ。影山は「小さな革命」のような梶の提案に困惑するが、助教の下士官達の同意を得るよう梶に求める。梶は三人の下士官に話すが、同意を得られそうなのは一人だけで、否決となる可能性が高かった折、梶の提案を知った三人の古年兵が、「俺達を追い出して、てめえがお山の大将になろうてのかよ! 」と、梶に私刑を加える事件が起きる。そこを影山少尉が通りかかり、傷ついた梶を目にする。影山は、今回は見なかったことにするが、今後は五年兵と雖も許さんぞと言う。梶が隊長に上告して、事件が大きくなることを恐れた下士官達は、梶をなだめるために提案を受入れた。こうして梶は小銃班五十六名の初年兵の「おふくろ」となり、古年兵達の憎しみを一身に浴び、何度か私刑を受けながらも、初年兵を古年兵の虐待から守り続ける。
新城一等兵という三年兵がいる。彼の実兄は思想犯として刑務所に入っており、彼は隊内で要注意兵の烙印を捺されている。本人はそれにも甘んじてのらりくらりした態度で軍務に就いている万年一等兵だ。このあたりは『真空地帯』の曽田を思わせる。新城は兵隊の出す郵便物に准尉が捺す検印を盗用してはがきに捺し、その数枚を梶に与えた。それが軍曹の所持品検査で発覚する。誰から貰ったと訊かれた梶は自分が盗んだと答えるが、軍曹は納得せず、班の全員に体刑を課す。たまりかねた班員の一人が新城の名前を明かしてしまう。新城は白熱した火掻棒を大腿部に押しつけられる拷問を受けるが、梶にやったのは二枚だけで、自分では使わなかったと言い通す。梶と新城には対抗ビンタ五十回が科せられ、取調べは終るが、新城にはその後懲罰的に、糧秣輸送、石炭受領、衛兵、営外夜間巡察など、ろくに睡眠もとれない骨の折れる勤務が連続して課せられ、彼は疲弊する。そんな状況の中で新城はソ連領への脱出の企図を抱く。駐屯地からソ満国境までは四、五十キロの距離なのだ。新城は梶に、「何処かに人間を解放する約束の地があるとしてだ、それと、梶がしょっちゅう思い出している奥さんのいるところと」「どっちを取る? 」と訊く。梶は「女房と一緒にもう一度生き直す約束を、私はして来ました。どんなに過酷な戦争の下であってもです」と答える。その後、暫くして、「ものは相談だがな、梶は俺と行く気はないか? 」と誘ってきた新城に梶は、「苦しいから逃げるというのは、何か、変な気がする」「関東軍から逃げ出してきた男を、何に使います? 道具ですよ。(略)独自性を持たない、日本陸軍からはみ出て来た道具なんだ」と答える。しかし梶にも迷いがあった。
それからまた暫く経って、美千子が千五百キロの距離を越えて、国境の駐屯地まで梶を訪ねてくる。夫婦は二人だけで一夜を明かすことを許される。抱擁の後、二人は語る。美千子のもとに時々顔を出す監視の憲兵は、「あなたがいまに脱走すると思ってるらしいわ」と美千子は梶に告げる。梶は「脱走したらどうする? 」「国境の向うへ」と美千子に問う。美千子は、「あなたはしないわ」「あたしがいるんですもの! 」と答えるが、急に啜り泣いて、「仕方がないわ。考えた上でのことでしょうから。待っています。准尉さんが、あなたは補充兵の最右翼だって云ってたけど、やっぱり狙われてるのね」と言う。梶は美千子の顔に顔を重ね、耳に囁く。「行かないよ、俺は。逃げはしない。やるだけやるんだ」。この時梶の気持は定まった。そして、「新城さん、あんたは間違っている。脱走するなら、最初からその計画で、するだけのことを隊内でしてから、何故決行しない? あのはがき事件以来酷使されるから、脱走する。それでは単に逃避だけになってしまう。何の抵抗にもなりはしない。あんたは間違っている。」という新城への批判が続く。ここには自分の持場で闘うことを決して諦めない梶の主体性が明確に表されている。また、その主体の形成に美千子の存在が大きな影響を与えていることも見て取れる。
梶が具体的な闘いを決して放棄しないということに関しては、次の箇所もその明確な表現だろう。「戦争とヒューマニズム、そもそもこいつが矛盾命題だ。阿呆らしい! お前も俺も、もう両足とも棺桶に突っ込んでるんだよ。生きていると思うのか? (略)お前はどうあっても美千子さんのところへ帰ると云ったな? その夢を実現したいんなら、方法は一つだぞ。真っ直ぐ脱走して行って、一夜の歓を尽すだけだ。それもないよりいいかもしれん。沖縄はもう直ぐ陥ちる。いいかね、梶、やがて赤軍の侵入がはじまる。青雲台はこっぱみじんだ。お前も俺も死ぬんだ。ここにいる限り! 古兵がどうの、初年兵がどうの、云えるのはあと僅かだ…」という影山の言葉に、梶は、「そうかもしれん」と呟くが、「それでも俺は云うつもりだよ。そして、帰って行くつもりだよ。戦争が全世界を蔽っている馬鹿でかい現実だとしてもね、所詮は人間が作為したことだ。人間が抵抗出来んはずがない」と答える。この態度こそ戦後派の作品の主人公と梶の主体性の決定的な違いだ。
第四の特徴は、戦争・軍隊に対する批判の鋭さ、的確さだ。例えば軍隊は次のように批判される。
「初年兵達は理非を質すことに関しては徹底的に臆病に仕込まれている。そう仕込まなければ、軍隊の不条理が、或は国家権力そのものの不条理が、それ自身の目的を貫くことが出来ないからである。臆病になった魂は、利己主義の中に潜り込んで、自分だけは不条理からの被害を避けたがる。大衆は、入営して一週間もすれば、分裂して個々の破片に還元されてしまうようである。建軍の精神はその弱点を見事に促えているのだ。利己主義で身を護った初年兵が、年次が古くなると、これはもう手のつけられない特権階級にのし上る。新しい初年兵に自分達が歩んだ通りの歴史を反復させる。こうして循環する」。
これは曽田の「真空地帯」論よりはるかにリアルに軍隊の本質を促えているのではないか。
また、この戦争が侵略戦争だという認識が梶には明確にある。例えば、「軍事的な意味しかないこの近辺に満人が部落を作って住んでいるということを、梶は最初の動哨の夜に不思議に思ったが、これくらい植民地主義の独善的な考え方はないと気がついてあわてたものだ。先住民がこの地域に生活を営んでいるところへ、軍隊が割り込んで来て軍事的ないかめしい意味を押しつけたに過ぎないではないか」と。
国境に上がる不審な信号弾の正体が分らず苛立つ隊長に対して、手柄を立てようと考えた上等兵が、夜、漁をしていた満人を犯人に仕立てて射殺し、隊長は隊長で、射殺された満人が犯人と信じたわけではないが、その男が犯人の一味で、男の住んでいた部落が一味の巣窟であるという想定は真実らしい形を備えているということで、それを事実と認定し、一個小隊に下知して部落の徹底した家宅捜索を行わせる。ちょうど米軍のサイパン島上陸の報道が部隊に広がり、南方への兵力動員の噂に兵隊の気持が動揺している時だったので、この捜索は戦場のような凶暴性を帯び、事実上、部落民への暴行強奪となる。作者はこういう事件も書きこむことで侵略軍としての日本軍の性格をきちんと押さえている。戦後派の作品には、主人公の意識としても、作品全体を見渡しても、こうした認識は皆無だ。
以上四点を、戦後派の戦争文学には見られない、『人間の條件』と、その主人公梶の特徴として挙げておきたい。 これらの特徴は、強靭なヒューマニズムの立場に梶及び作者が立っていることを示している。戦争・軍隊という非人間性が支配する巨大な暗黒のなかで、どれだけ人間らしく生きられるか、どれだけ「人間の條件」に堪え得るか、を問うたのがこの作品であり、梶という一人の男の苦闘としてそれを見事に形象化し得たところにこの作品の不滅の価値があると思われる。
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