第3節


 五味川の文学を「大衆文学に新しい視点と可能性をもたらした」(「新潮日本文学辞典」)とする評価がある。五味川文学を「大衆文学」の中に位置づけようとするわけだが、その「大衆文学」というのは、その同じ辞典によれば、「主として歴史的背景をもつロマンティックな物語」で、「伝奇小説を継承したロマネスクなものが多く」、「ユニークな性格の主人公が設定され、人間性を損なわれない稀有の人物として描かれるとともに、人生の葛藤とたたかう行動性が付与され」るとある。「ユニークな性格云々」の部分は白井喬二の『富士に立つ影』について書かれたものだが、吉川英治や大仏次郎などの小説の主人公についてもあてはまることだろう。『人間の條件』の主人公梶について、「スーパーマン的能力」(明治書院「日本現代文学大辞典」)、「スーパーマン梶」(東京堂出版「新版現代作家辞典」)などと記述されるのは、梶をそのような「大衆文学」の主人公と見做していることの表れと思われる。私は広く大衆に依拠し、大衆の生活、思想感情を広く、深く映し出すことこそ文学の本道と考えているので、そういう意味での大衆文学に五味川の文学が位置づけられるのなら文句はないのだが、前述のような、虚構的、娯楽的なものと性格づけされるような文学の範疇に加えられることには納得できない思いがある。五味川の文学は、虚構性は全体としてむしろ少なく、追求しているテーマは、現代を生きる人間が背負わなければならない今日性と普遍性を持った問題であり、従来のいわゆる「大衆文学」という範疇で括られることに馴染むものではない。『人間の條件』の主人公梶が直面し、苦闘する問題も、あの時代を人間の良心を失わずに生きようとした日本人なら誰でも多かれ少なかれ直面した問題であり、その意味での深さと普遍性を持っている。だからこそ戦争で深い傷を負った日本の大衆の心を打ち、広く浸透したのだ。確かに梶のような行動、特に軍隊組織内の慣行的悪習に抵抗するような行動をとった日本人は少なかったに違いない。しかし、その行為は常人の域を超えた「スーパーマン的能力」を必要とするものではない。必要となるものと言えば勇気だろう。梶の行動は彼自身に苦痛や犠牲をもたらすことが多いのだが、彼の人間性にはそれに怯まないものがあるのだ。その行為の前後の苦悩はまさにこの作品のテーマと関係する。梶をスーパーマンと見たのではこの作品を読む意味はなくなる。また、既述のように、梶の行動はそのほとんどが作者が現実に行ってきたことであり、その意味でも「スーパーマン的」であり得るわけがなく、そのように描かれてもいない。

 「大衆文学」の対極に「純文学」という範疇があるわけだが、私はこのような分裂にこそ日本の近・現代文学の貧しさが表れていると思う。「大衆文学」の意味するところが虚構性や娯楽性であり、「純文学」が私小説な、或いは個的な狭隘性をその本質的な性格とするのであれば、国民に真に開かれた文学はこの国には育たなかったのだ。私は大正時代から昭和の初めにかけて、この国の文学は国民と真に結びついた、社会性のある文学を生み出すべき時期に立ち至っていたと思う。しかしその機運は、プロレタリア文学が弾圧によってその発展を抑止されたことに端的に示されているように挫折させられた。真の国民的文学の形成が挫折したために、「大衆文学」と「純文学」という、どちらも不具な文学への日本文学の分裂が固定した。日本の近代化が奇形的だったことに照応して、日本の近代文学の発達も奇形的だった。この状況は克服されずに今日まで続いている。「大衆文学と文壇文学(=純文学)は同根であり、この両者を破壊することなしに国民文学は建設されない。」という竹内好の指摘(「国民文学の問題点」)は鋭いが、両者は国民文学の未形成という事態が育んだ奇形の双生児なのだから、真の国民文学が形成されていけば、衰微していくはずのものだ。

 もちろん、日本の近・現代文学の全ての作品がそうした奇形の烙印を捺されているわけではない。数は少ないけれども、そして文壇やマスコミからは無視されていることが多いのだが、奇形化を拒否し、撥ね返して、国民的体験と生き生きと結びつくことを志向した作品群がある。いわば国民文学形成の礎となる作品群だ。そして、五味川純平が生み出した諸作品はその有力な構成部分なのだ。

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