第2節


 作者はこの小説の発想について、「全滅したソ満国境陣地で生き残った私は、タコ壺の中で、私が鉱山に入った前後から、この全滅の日に至るまでの、戦争の消耗品でしかなかった男の物語を書きたいと思っていた。」と記している(『五味川純平著作集』月報20連載「追憶」17)。ここでこの作品の内容に関係する作者の経歴に触れておこう。

 五味川純平(本名・栗田茂)は昭和十五年に東京外国語学校を卒業し、満洲の昭和製鋼という国策会社に就職した。(在学中に、読書サークルや研究会活動をやっていたという理由で検挙、投獄を経験している。)五味川は満洲生まれの満洲育ちであり、故郷に帰ったわけだ。彼の仕事は生産計画の基礎資料の調査だった。熱心に仕事をして、職場になくてはならぬ人間になる以外に兵役を免れる可能性はないということで、五味川は仕事に精を出した。仕事の関係で、彼は各国の戦略資源の存在状況や重要物資の生産高の資料を入手できた。昭和十五年度の資料によると、石油、銑鉄、鋼塊など重要物資の日米の生産高比較の算術平均値は一対七四だった。とても戦争ができる数値ではないので、まさか日米開戦にはなるまいと五味川は見通しを立てた。軍部や企画院や商工省にはもっと精密なデータがあるはずだから、日米交渉では強腰を見せても、決定的瞬間には、いかに軍部でも戦争は回避するはずだと彼は考えていた。ところが開戦の報に接して五味川は衝撃を受けた。「如何に軍国主義と雖も、最後的に下す政治的判断はもっと客観的であり、冷静であるにちがいないと思っていた。私はおそらくファシズムの論理に晦かったのだ。」(同前「追憶」16)と記している。真珠湾奇襲に、既に米国に勝利したかのように興奮している同僚達に、五味川は、もう日本はおしまいだ、勝てる道理がないではないか、と口走った。それで上役から呼び出され、「戦時下のインテリの責務は楽観的な流言を流すことであり、悲観的な話をもらすことではない」と戒告されている。この年の早春に、前途を遮る戦争に不安を覚えながらも、結婚して社宅に新居を構えていた五味川にとって、日米開戦の報は平穏な新婚生活の継続という願望を打ち砕くものだった。

 当時、鉄、石炭をはじめとする戦略物資が極端に不足していて、関東軍は五味川の勤める昭和製鋼所に鉄をもっと出せと何度も請求してきた。しかし、溶鉱炉は計算通りにしか動かない。鉄分含有量何%の鉄鉱石と、灰分、硫黄分、燐分何%の骸炭をそれぞれ何トン入れれば、出てくる銑鉄は何トンと計算で決まっている。しかし関東軍はそんな説明では承知しない。なぜ昭和ではもっと出せないのか、精神力で出せ、と言ってくる。軍に出向いて説明しなければならないのだが、相手はどんな説明をしても納得するはずはないので、お偉方が行くと責任をとらされることになる。それで五味川が説明に行かされて、怒鳴られて帰るということが何度かあった。そのうち彼は計算通りにしか動かない物資の数字をいじくりまわすことが嫌になり、もっと人間臭い労務事情の勉強を本業の傍らやり始めた。満洲では労働事情が逼迫していた。満洲の労働者は圧倒的に中国人だが、就業者数が極端に少ない。根本的な原因は日本の戦争に中国人が労働者として協力する必要はないという意識だが、植民地の常として中国人の労働条件が極めて劣悪であることもその理由だった。昭和製鋼所の所有する鉄鉱山の就労率は特に低下しており、五味川はその原因を調べて、中国人を人間として扱わない労務管理に問題があり、労働条件の改善を計る必要があるという主旨の論文を書いた。これが上役の目にとまって、彼は本社から百キロ近く離れた鉄鉱山へ労務管理者として赴任することになる。それが「その後の私の生涯を変えてしまうことになった」(同前「追憶」17)。

 日本軍は当時、「清郷工作」(日本軍占領地の特定区域を限って、その中の敵性分子を徹底的に討伐し、そこに経済建設を行って模範地域を作り、それを漸次、全占領地に拡大していこうとする計画)で狩り集められた反満抗日分子を、「特殊工人」として各地辺境での要塞築造などに酷使していた。そして、さんざんこき使われてボロ雑巾のようになった彼等は、民間会社に払い下げられた。五味川のいる鉄鉱山にもそんな「特殊工人」が払い下げられてきた。伝票の上では六一二人が送られてくるはずなのに、貨車から降りてきた人数は六〇〇人を割っている。調べてみると貨車の中で不足した数の人間が死んでいる。そんな状態だった。五味川は所長に、こんな工人は就労させられない、体力を回復させるために宿舎に入れて、二ケ月休養させなければと掛け合い、それは期間を一ケ月に短縮されて認められた。工人達はメキメキ体力を回復したが、体力が戻ると、逃亡し始めた。日本人が中国を侵略する戦争のためにこき使われるのは真っ平だという彼等にすれば当然な思考の結果だ。五味川のような寛大な管理者の存在は逃亡の絶好のチャンスととらえられたのだ。工人が逃亡するたびに五味川は憲兵隊から文句を言われた。やがて彼等を鉱山に就労させることになり、特殊工人たちは宿舎から金網で囲まれた道路を通って現場に送り込まれた。そして、五味川はそれを恐らく作為されたものと考えているが、現場で逃亡事件が起きた。九名が逃亡をはかったというのだが、彼等は外には出ていず、現場監督に追われて構内を逃げ回っただけだった。しかし逃亡が相次いでいる時だったので、憲兵隊は見せしめのため九名を斬首刑にすることを決めた。そして処刑の立会人に、彼等が中国人に甘いと睨んでいる五味川を指名した。五味川はこの時のことを、「最初から止めに出る勇気を無理にでも出せば、私のそのごの人生も変っただろうし、苦しみもずっと少なかったに違いないと思いますが、私は五名も斬らせてしまった。一名でも斬らせてしまっては、あとで何をやっても駄目なんです。決定的瞬間というものは取返しがつきません。なぜそのとき、それが自分の人生の決定的瞬間だということを性根に据えなかったかという悔いがいまでもあります。おれの人生はどうだっただろうかという気がするんです。」(三一書房『極限状態における人間』所載の座談会「〈十五年戦争〉の意味」)と語っている。また前出『現代の文学33・五味川純平集』に付されている「回想的略歴」にも、「一九四三年、鉱山労務管理に従事して『特殊工人』の処刑に立会う。もはや人生の逆転はできない。終生消えることなくみずからを汚染する。」と自己を断罪する言葉が記されている。こうした鉱山での体験は、「普通なら私の中に蓄積されることはなかったであろう文学的テーマの蓄積」(前出「追憶」17)をもたらし、作家五味川純平を生み出す原点となった。 五味川は処刑の中止を求めたことで憲兵隊に連行され、「さんざんにやられました」(前出座談会)。鉱山に赴任することを条件に「産業要員」として召集免除となっていたのがこの一件で取消され、昭和十八年十一月に召集される。それから約二年、兵士として東部ソ満国境を転々とする。昭和二十年八月十三日、戦車を先頭に国境を越えて侵攻してきたソ連軍と戦闘。所属部隊は全滅。一五八名のうち生存者は四名。五味川はその四名の中の一人だった。その惨烈な全滅戦を生延びたタコ壺の中で『人間の條件』は発想されたのだ。この小説は以上述べてきた作者の実体験をほぼなぞる形で成立している。「プロットとしてはほとんどノンフィクション同然」(前出座談会での五味川の発言)なのだ。

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