北条氏直、真田昌幸に振り回される
六月八日、厩橋城に全くの無抵抗で入城した北条氏直・氏邦軍の元に、一つの報告が飛び込んだ。
「沼田城に六文銭の旗が翻っているだと?」
「はい、他の城は大半が空同然ですが、沼田と名胡桃と岩櫃にはそれぞれ兵がいるようです」
報告を聞いた氏邦はいささか顔をしかめた。その三城は上野の中でも比較的堅固な部類に入る城だからである。
「数は」
「沼田にはおよそ千二百、他の二城はおよそ千」
「それで、沼田には六文銭以外の旗はなかったのか」
「ございません」
「名胡桃と岩櫃には」
「岩櫃には丸に花菱、名胡桃には軍配団扇に笹の旗が翻っておりますが、他にも様々な旗が翻っております」
丸に花菱は内藤昌月、軍配団扇に笹は小幡信貞の旗印であり、いずれも一益に属していた諸侯である。
「ちょっと待て、すると沼田城だけ六文銭の旗のみが翻っているのか?」
「はい」
確かに真田昌幸の実力ならば千二百ぐらいの兵を集められるだろう。しかし、もし仮に北条の進行を食い止めようとするなら、一点に集中したほうがよっぽど有効である。こんなに兵を分散されては、数で押し潰されるのが落ちではないか。
(まず、第一の目標は沼田だ)
こういう時は、兵をばらしてそれぞれを囲むより、大軍で一気に押し潰してしまったほうがよい。ここに来るまであちこちの城に守備隊を残したが、北条にはまだ四万の兵が残っている。いくら三部隊に分けても一万以上の数を動員できるとは言え、戦いが早く終えられるのならばそれに越した事はないのである。
「沼田城に全軍を進めましょう」
氏邦の言葉に氏直も賛同し、ここに北条軍は沼田城攻めで一本化する事が決まったのである。
翌六月九日、北条軍四万は沼田城を包囲した。その過程で何らかの抵抗があるかと氏直も氏邦も身構えたが、昌幸は何もせず城門を閉じているだけであった。
「たかが千二百で四万相手に籠城して何があるというのか……援軍の当てでもあればともかく、これではただの自滅だぞ」
氏直が呆れながら溜息を付いていると、一人の兵士が氏直の面前に現われた。
「申し上げます。真田安房守殿が、降伏したいとの使者を送ってまいりました」
氏直は突然の急展開に、思わず吹き出した。
「何だ、すると要するに何だ、滝川左近に精一杯守りますといい顔をしておいて、今度は城ごと明け渡しますから北条よ私を守ってくださいか?」
「ですが」
「ですが何だ」
「投降の準備がありますゆえ、明日まで待っていただきたいと」
「それもそうだな、では成田と同じ条件で降伏を認めると伝えよ」
成田氏長に出した寛容な条件は、昌幸もとうの昔に知っているはずだ。その条件ならば、昌幸も頭を下げてくるだろう。
「滝川左近も不憫な男よな」
氏直の命により、結局その日戦は何も起こらなかった。
だが翌六月十日、沼田城から出てきたのは昨日と同じ真田の使者だけであった。
「何、まだ準備ができていないと?」
「ええ……それが重臣の一人が北条家への投降を渋りましてな……それで入牢してもらったのですが……その結果……」
「人心が動揺してか……止むを得まい。そんな状態では味方として当てになるまい。もう一日だけならば待とう」
真田はこれから味方となるのだ。その軍隊の心が乱れていては使い物にならない。その事を慮った氏直は、更にもう一日の猶予を与えたのである。それは、氏直の余裕がさせた反応であった。
だが翌日になっても、昌幸は何の返答も寄越さない。さすがにおかしいと思った氏直は、使者を沼田城に送り込んだ。
「まだ準備は整わないのですか」
「申し訳ござらぬ、実は我が主が急に発熱を……」
応対に出た真田の重臣、鈴木重則は北条の使者にこう言い返した。そんな言葉を持って返ったのでは、子どもの使いと何も変わらない。
「安房守殿に会わせていただきたい」
「しばらくお待ちください」
と言ったきり、重則は全然姿を見せない。
その上に二刻(四時間)も待たされた所で、食事どころか茶の一杯すらなかった。氏直の使者はさすがに怒り始めた。
「ふざけるのも大概にしろ!わしは北条の使者だぞ!」
と怒鳴っても誰も反応しない。真田の者を呼び付けて問いただそうとしても誰もが「さあ」だの「私にはわかりません」だの曖昧な返答ばかりでまともな答えは一つもありもしない。
「ああそうか、もういい!四万の大軍に攻められてから命乞いをしても知らんからな、この欲深の真田!」
結局未の下刻(午後三時ごろ)、使者は捨て台詞を吐いて沼田城を去った。
欲深とは、こんな危険な状況で北条を追い返せば、後で一益、ひいては織田家から褒賞をもらえるのであろうな、それを期待しているのだろうと言う使者本人の思いが詰まった言葉であった。
「おのれ、この北条を何だと思っている!一思いに揉み潰して、真田の名をこの地上から消し去ってやるわ!」
「ですがさすがに今日は……」
「わかっている!明日だ、明日を安房守の命日にしてやる!」
使者の言葉を聞いた氏直は激昂したが、どうにもこうにも戦を仕掛けるには時間が遅すぎた。その結果沼田城総攻撃は翌日という事になり、氏直は延々三日を無駄に使ってしまったのである。
「真田の欲深め……」
偶然ながら、氏直も使者と同じ言葉をつぶやいた。自分たちがこんな所で時間を喰っている内に、滝川軍は着々と美濃に向けて退却しているのであろう。例えここで全滅したとしても、北条軍を足止めした真田の功績はかなり大きい。その恩賞に預かるためにこんな無茶をやっているのかと思うと、氏直は腹が立つと同時に呆れた。
「もはや許さぬ、真田の名を地上から消してやる!」
六月十二日、氏直は四万の将兵に沼田城への総攻撃を命じた。
「真田昌幸め、泣いても謝ってももう許さんからな!」
氏直の顔は、怒りと屈辱で真っ赤に燃え上がっていた。
だが――――――その顔の赤さが、一瞬にして消えた。
ズガガガガガガガガーン。
「うわっ!」
「ぎゃーっ!」
凄まじい銃声と共に、悲鳴が鳴り響いた。
真田のではない。三つ鱗の旗を掲げた北条の兵たちのである。
「な、なんだ、どうしたのだ!?」
「大変でございます!真田が鉄砲で一斉射撃を加えてきました!」
「あんな発砲音を出せるほどの鉄砲が真田にあるか!我が北条ではないのか!」
氏直は、違うとはわかっていてもそう叫ばずにいられなかった。
「いえそれが……安く見積もっても五百挺は下らないと考えられます」
「馬鹿な……」
無論、鉄砲について何の警戒もしていなかった訳ではない。
だが信州の小大名である真田が持っている鉄砲など、多く見積もってもせいぜい百挺だと氏直を含む北条家の主要人物は考えていたのだ。五百挺という数は、氏直らに衝撃を与えた。
「もちろん五百挺と言っても我が北条よりはずっと少ない……だがこの一斉射撃は敵ながら見事な時期にやってくれたものだ……」
沼田城と言う所は、北に薄根川、西に利根川を擁し、侵入路が限定されているだけになかなか攻めづらい。数を頼りにした力押しもしにくいのである。
そしてさあこれからが本番だ、一気呵成に突撃するぞと言う所でありえない事態が発生したため、驚愕と恐怖で兵たちの士気がいささか萎えてしまった。
「やむをえん、退け!昼食を取ったらやり直す!」
氏直は撤退を命じた。こうなった以上、中途半端なことをしても意味がないというのである。数を頼りに押し潰す、とすればこれ以上の方法はない。
「北条も弱くなったな!早雲殿もあの世でお嘆きあろう!」
「真田め必ずその首頂くからな!」
当然の如く、北条軍の背中から真田の辱めの声が飛んで来たが、氏直も氏邦も北条の将兵も屈辱に耐えながら復讐を誓う事にした。
「午の下刻(午後一時ごろ)に再び総攻撃をかける!我ら北条の鉄砲隊を一点に集め、小賢しい真田の鉄砲を全部黙らせてしまえ!」
巳の下刻(午前十一時ごろ)氏直は、軍団長たちを呼び集めて指示を出した。
「よし、昼餉はしっかりと取らせよ!腹が減っては戦はできぬからな!」
「はっ」
軍団長たちが視界からいなくなると、氏直は溜息を付いて床几に座り込んだ。
「それにしても五百もの鉄砲を一体どこから集めたのか……滝川左近から借りたにしても数が多すぎる。左近にとっても虎の子と言って良い鉄砲をそんなに貸すはずがない……」
確かに一益は織田家の中でも屈指の鉄砲術の達人であり、その一益直属の軍勢とあらばあの絶好の機会での一斉射撃ももっともである。だがこんな死地と言ってもいい場所に、少なく見ても四百もの鉄砲を置き捨てていくものだろうか。
「まあ、それより今は沼田城を落とす事が先決。鉄砲の出所など後でゆっくり調べればよい」
鉄砲がどこから出て来たかなどどうでもよい。今、大事なのは五百挺の鉄砲に守られている沼田城を陥落させる事なのだ。
そのための対策を練ることが自分の役目であり、今一番重要な事なのだと、氏直は冷静であった。
だが、気を取り直したように氏直が握り飯にかぶりついた途端、凄まじい金切り声が北条の陣内に響き渡った。
「なっ、何、どうしたのだ……うっ!」
驚きの余り握り飯が喉につかえあわてて胸を叩いている所に、血相を変えた北条の兵が現われた。
「一大事です!地蔵橋が燃やされています!」
「何だと!?」
地蔵橋は沼田城の西側にかかる、利根川を渡るための橋であった。ここが燃やされたとあっては、利根川方面への移動は不可能となる。
利根川を挟んで対岸にある川田城は一応北条が抑えてはいたが、それでも一日や二日で橋を架け直すのは無理だろう。
要するに、北条軍四万は事実上沼田城周辺の地域に閉じ込められてしまったのである。
もちろん、川田城の城兵も地蔵橋が焼かれるという大失態を黙って許していた訳ではない。
だが、許さざるを得なかったのである。
実は川田城から今井峠を挟んですぐの中山城には、一益及び昌幸に味方する上野諸侯の兵、千余りが潜んでいたのである。
中山城には軍旗がなかっただけでなく三の丸に火がかけられており、北条が抱える優秀な忍び・風魔でさえそこに兵が埋伏されている事に気付かなかった。
そして北条は川田城にせいぜい三百しか置いていなかった。そこに千で仕掛けられては防戦で手一杯であり、地蔵橋にまで手を回す余裕はなかったのである。
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