織田信雄・織田信孝、明智光秀に笑われる
六月二十六日、信孝率いる四万の軍勢と信雄率いる二万五千の兵が明智光秀の籠る安土城に到着した。
「安土城に籠る城兵に告ぐ!明智光秀は浪々の身から大名にまで自らの地位を引き上げてくれた織田信長に対し、自らの野心によって反旗を翻した忘恩の徒であり、天下の逆賊である!今からでも遅くはない、織田の旗の下に戻れ!さすれば光秀に加担した罪は一切問わぬ!」
まず信孝は、型通りに安土城の将兵に降伏を勧告した。
「世迷言を申すな!元々、この国の頂点に立つは京におらせられる主上様であり、武家の棟梁に立つは初代尊氏公以来二百余年にわたって室町幕府の頂点、征夷大将軍の位にある足利家である!
その足利家の現当主であり征夷大将軍である足利義昭公を将軍の座から追い、あまつさえ神聖なる帝すら脅かすとは人倫の道にもとる非道である!かような非道を成す織田信長を討滅するはこの国に生まれ禄を食んだ武士として当然の行為である!そなたらこそ今からでも遅くはない、帝と公方様の下へ馳せ参じよ!」
だがその勧告に対し、光秀はじかに嘲弄に満ちた返答を返して来た。
「……まったく、今更ながら信じがたいことこの上ないな……あの律義者の光秀が……」
「光秀は元から上様にそういう期待を抱いておったのでしょう」
改めて信じがたいと言わんばかりに問いかけた信孝に対し、秀吉は溜め息を吐きながら答えた。秀吉は元々が尾張のただの農民であり、その才覚を信長に見いだされ可愛がられ現在の地位を得た人物であり、彼にとって帝や将軍など信長や織田家に比べれば遥かに価値の劣る物である。
その点光秀は足利家の重臣である土岐家の一族であり、幼い時から斉藤道三に仕えてそれなりの生活をしていた。いくら道三が美濃の蝮と呼ばれる奸雄とはいえ光秀は血統書付きの名家の息子であり、彼が浪々の身になったのは道三が息子の義龍に殺された時からであり、すでに三十歳近かった。
秀吉も光秀も徒手空拳同然の身から信長に引き立てられた事には変わりはないのだが、秀吉が本当にただの農民・ただの足軽だったのに対し、光秀は武士として生まれ、武士として浪人となっていたのである。
ましてや光秀は将軍家にも繋がる名族だから、なおさら武士的、それも古武士的な志向が強くなるのは成り行きであった。光秀の信長に対する期待は、義昭を足利義満に、信長を細川頼之に見立てた物であったのだろう。
「とにかく、こうなった手前滅ぼすより道はない。筑前、兄上に使者を送ってくれ」
「ははっ」
「今からこの三七が攻撃をかけ敵を西側に集めるので、一刻後に南門を攻撃していただきたい……とな」
信孝の指示を受け、秀吉は小姓の石田三成を伝令として信雄の陣に放った。そして三成の姿が見えなくなるのを確認するや信孝は安土城のほうにキッと視線を向け、右手に握った采配を力強く振った。
「よし、攻撃を開始せよ!」
ついに、織田軍六万五千対明智軍三万による安土城攻防戦がここに開始されたのである。
「オラオラ出て来い、織田軍先鋒であるこの中川清兵衛と、槍を合わせる武者は明智軍にいねえのかよ!」
信孝軍の先鋒を任された摂津衆の中川清兵衛清秀は、槍を振り回しながら安土城に向けて怒鳴った。
「何だよ、無防備な上様や徳川殿を殺す事はできても、いざこうやって正々堂々と挑みかかって来られるとその弱腰振りかよ!何が明智軍だ聞いて呆れるぜ!」
自分の叫びに対する返答が矢玉だけである事に腹を立てた清秀はもう一回皮肉交じりに安土城に向けて吠えたが、やっぱり城方の返答は矢玉だけであった。
無論、矢玉の届かない位置から叫んでいるので被害はないが、気の短い清秀はじりじりして来た。
「あーそうかよ、どうしても出て来られないって言うのかよ、じゃこっちから押しかけてやるぜ!鉄砲隊に命じ一斉射撃の用意をさせろ!高山殿にも一緒に突入してくれるように誰か頼んで来い!」
清秀は今にも堪忍袋の緒が切れかかっていると言わんばかりの表情で、同じ摂津衆である高山重友共々一気に突入してやろうと考え、大声を張り上げた。
城門を一枚でも破れば大戦果であり、恩賞もおそらく莫大な物になるだろう。清秀はその先の栄光に思いを巡らせながら重友に伝令を放った。
「わかった、共に突撃すると伝えよ」
重友は清秀の伝令に対しあっさりと了解の意を示し、すぐさま攻撃の準備を整え始めたが、胸中の思いは清秀とだいぶ開きがあった。
(我ら少数の摂津衆で三万の明智軍を引き付けられる物か……?)
清秀が従えている兵は千二百に過ぎず、重友の手勢を含め、他の兵をすべてかき集めたところで、摂津衆の合計は三千に届くかどうかと言う所である。たかが三千の兵で三万の兵が守る安土に攻撃をかけた所で、城壁に一個の生卵を投げ付けるのとまるで変わりはしない。
本気で敵を引き付けたいのならば、一万六千を数える秀吉の軍勢を惜しまず注ぎ込むべきではないか。ましてや秀吉の下には主・家康を殺され復讐に燃え上っている徳川の遺臣たちがいるのだ。
彼らを少しあおれば先鋒に持って来させる事はたやすいはずであり、烈火の如き勢いで一万六千の軍隊が攻めかかれば、光秀とて守りを厚くしない訳には行くまい。いや、秀吉軍が惜しいとしてもせめて宇喜多軍か丹羽軍を使うべきではないか。
「高山殿、光秀は絶対に切支丹が大嫌いだぜ!俺にはよくわかんねえけど、光秀が勝ったらあんたやばいんじゃないのか!?」
その清秀だが、重友を引きずり込むべく一番気にしている事を大声で叫んだ。
そうなのだ。
そもそも重友がここにこうして来ているのは、謀反人・明智光秀を倒して莫大な手柄を得たいという気持ちと共に、光秀が勝てば自分の信仰が危なくなるのではと言う危惧もあったのだ。開明的な信長に対し光秀はいかにも古い考えの持ち主でありまたそういう考えの人間と親しく、光秀が世の中心に立てば切支丹である自分に対し良い態度をとるはずがない事は明白だった。
そういうわけで放たれた清秀のこの殺し文句とも言うべきセリフに、重友はさすがに気合が入った。
「よし、全軍攻撃を開始せよ!」
「よし来た!高山殿が加わわりゃ完璧だぜ!」
だが攻撃を指示したものの、重友はどうにも浮かれ上がる清秀との距離を感じずにいられなかった。確かに己が信仰を守る事は大事であったが、清秀のような猪武者ではない重友には、どうにもこの作戦の成功が信じられなかったのである。
「それがしの兵だけでございますか……?」
「うむ」
摂津衆が安土城西門に向けて攻撃をかけている頃、信雄は滝川一益に対し滝川軍でのみの南門攻撃を命じた。
「そなたの兵は一万を数えるのだろう?不足とは到底思えぬが」
「しかし……」
「安土城が三日や四日で落ちるものか。緒戦から全力を注ぎ込んでは息切れするぞ。我らは二万五千しかおらぬのだからな」
信雄軍二万五千の内、信雄直属軍は一万に過ぎず、五千は尾張・美濃から集められた小領主の手勢であり、それに滝川軍一万が加わって二万五千となっていた。
信雄の動員力ならもう一万ぐらい集められそうなものだが、大和・伊賀に備えるため伊勢に兵をかなり残したため、結果的に斯様な編成になったのである。
「それはわかっておりますが」
だが実際に、安土城を一万で落とせと言うのは無理な相談である。実際、信雄軍の攻撃目標である安土城南門には光秀の寵臣である斉藤利三が三千の兵で守っていた。
「左近、そなたが父に従い多大な戦果を挙げた事はよくわかっている。だがこの軍隊の指揮官はわしであってそなたではない。ましてや、そなたは父の死を聞くや北条に対し何もできずに厩橋から逃げてきたのではないか。そなたは今、犠牲を払ってでも名を挙げねばならない立場なのだ。その事をとくと、肝に銘じておいてもらいたい」
なんと、信雄はあからさまに一益を敵前逃亡者呼ばわりしたのである。
一益もそういう評判が立っていることは知っていたが、大局的に見ればほんの昨日占領したばかりで自分たちになついていない信濃や上野の民より、織田家の中核たる信長の仇である光秀を討つほうが重要ではないか。
ましてやそういう評判が立っていた所で、一益や兵たちの気持ちを傷付けぬ為にこんな所で口に出すべきではないはずだ。
「わかり申した」
と一益は答えたものの、信雄に対し絶望を感じずにいられなかった。
確かに自分は敵前逃亡と取られても仕方ない事をやったし、その後に残された真田昌幸らが北条を木っ端微塵に打ち砕く大勝を成し遂げ、自分の立場がなくなっている事はわかっている。
だが、仮にも織田軍団の一翼を担い続けてきた存在なのだ。それなりの配慮があってもよいはずではないか。自分が非難を受けるのは諦めるにしても、これでは信雄と言う人物に対し世間がいい印象を受けるはずがない。普段から暗愚であるという評判をたびたび耳にしていたが、この非常時ともならばこれまで発揮できなかった才覚を見せてくれるのではないかと言う一益の淡い期待は、この時音を立てて崩れ去った。
※※※※※※※※※
「筑前や左近が大将でない事こそ、我らにとってまさに天佑だ」
安土城の天守閣で、光秀は楽しげに笑っていた。片方の門に敵を引き付けもう片方の門を突破すると言う策は悪くはない。だが、今の織田軍の攻撃はとてもそれが成就されるようなものではなかった。
「あれでは摂津衆や左近に死ねと言うのと変わらぬ。もはや織田家の寿命は尽きたと言う事だ」
信孝が自分の方に防備を向けさせるというのならばもっと大軍を注ぎ込むべきだし、信雄も三千の兵が守る城門を落とすためならばもう五千ぐらいの兵を注ぎ込むべきだろう。
要するに、信雄も信孝も自分だけが多大な犠牲を払って、もう一方が得をすると言う展開になるのが嫌なのだろう。この戦で光秀の首級を挙げた方が織田家の跡目にぐっと近付くと言うのは子供でもわかる理屈であり、ゆえに織田家の家督を継ぎたい両者にとってもう一方にだけは光秀の首を取られたくないのである。そんな情けない理由で仲間割れを演じているようでは、この安土を攻め落とせるはずがない。
「見よ、これが織田家の現実と言うものだ!早くも我らの勝利が揺るがぬ事は明白となった、何も案ずる事無く守り続けよ!」
光秀は高らかに笑い、その声と共に明智軍の士気は高まった。
実際、三千余りで無謀な突撃をかけ続けた中川清秀は城門にようやくたどり着いた所で城兵からの狙撃を食らって落馬、命は取り留めたものの撤退を余儀なくされ、高山軍もそれに続く形で撤退した。
また、信雄も西門を攻めていた信孝軍が城門を破れず撤退したのを知るや、滝川軍に撤退を命じた。もちろん、滝川軍も城門の一枚も破れていない。
安土城を巡る織田軍と明智軍の初戦は、信雄と信孝の仲間割れによって明智軍の勝利に終わったのである。
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