第四章 燃える安土城

羽柴秀吉、嘆息する

 天正十年六月二十二日、近江坂本城に信長の三男、神戸三七信孝を総大将とする光秀討伐軍の兵が集った。


「帝は何もおっしゃっておらぬのか?」

「はい」



 坂本城天守閣にて、信孝は羽柴秀吉にいささか苛立ち気味に問うた。


「帝にしてみれば、本音では光秀に勝ってもらいたいのでしょう。

 でもだからと言ってここであからさまに光秀を支持すれば我らが勝った時どうなるかわかりゃしません。ま、高みの見物っていう奴なんでしょうな」


 坂本城に入るに当たり帝のお膝元である山城の国を確保した信孝であったが、右大臣織田信長を殺害した光秀に対する追討令を出してほしいと言う信孝の願いに対し、朝廷は何の返事も出して来なかった。


「だとすれば朝廷にわれらの力を見せ付けるためにも、早急に落とさねばならん。だが生半な城ならともかく、何せ安土だからな……」

「わしも色々考えているのですがどうにもこうにも……まさか安土を攻めにゃならん日が来るなど考えもしておりませんでしたし、考えたくもございませんでしたので」

「やっぱり勝三郎を連れて来るべきだったのか?」

「いやー、今の状況では残しておかないとまずいでしょう」


 安土と言う桁外れに広大な城を攻めるのに、城方の一・五倍ぐらいの兵では明らかに足りない。せめて、三倍ぐらいの兵は必要な所だろう。




 現在、坂本城に駐留している光秀討伐軍は大将の信孝直属の軍勢が五千、丹羽長秀の軍勢が七千、羽柴秀吉が率いる軍勢が一万六千、宇喜多忠家率いる宇喜多家の軍勢が九千、その他が三千でおよそ四万である。


 秀吉の予想である四万五千より更に少なかったが、これは大和の筒井順慶がはっきりと明智方に付く事を宣言し、更に紀州の雑賀集を始めとする連中が信長の死を知って勢いづく可能性もあり、摂津・河内・和泉と言った国々の守りを厚くしなければならなくなってしまったのである。


 そしてそれができる人物となると、丹羽長秀でなければ池田勝三郎恒興ぐらいしかいなかった。


「しかしそれにしても本当に安土だけに籠もるとはな。女子供ぐらいは残っているものだと思い込んでいたのだが」

「確かに安土は途方もなく堅固ですからな」


 光秀は安土城に三万の大軍を配置する一方で、本城であるはずの坂本城には誰一人残していなかった。期待して攻撃をかけ、そして当て込みをかわされた信孝はその点でも不機嫌だった。


「そうだ、すると安土には兵士三万だけでなくその家族連中を含めたかなりの人数が入っているのだろう?筑前、おぬしが三木城で見せたという手を使えぬか?」

「あー、お気持ちはわかりますが無理な相談でございます。兵糧攻めって言うのは終わらせるだけでなく始めるのにも大層な時間が必要なものでございます。

 確かにこれから秋の収穫期に入りますがその米を押さえた所で何せ安土城でございます、すさまじい量の米が蓄えられていると考えるのが常識でございましょう。それに、三木城は山城で包囲は容易でございましたが、安土は琵琶湖に面しておりましてそこを塞がぬ限り完全に包囲したと言い切ることは不可能にございます」

「九鬼水軍……は無理か」

「紀州の連中が活気付こうとしている中、九鬼水軍は手が放せませぬ。琵琶湖を塞ごうとすれば雑賀衆の思う壺です」


 城を包囲するのとされる側では、一見包囲される側が不利に見える。ところが常識として三倍ぐらいの兵がないと包囲網は完成しないから、単純計算で包囲する側はされている側の三倍の食糧が要る。

 輸送が発達していない時代だから、包囲している側の食糧が尽きてしまう方が普通早いのである。無論、輸送隊が襲われる危険性も加味しない訳には行かない。

 秀吉が三木城の干攻め作戦を成功させたのは、事前に秀吉の息のかかった商人を使って米を市価の数倍で買い上げさせ、さらに自分たちの軍隊の補給態勢を完璧に整えたからである。今回の場合後者はともかく、秀吉の得意技となったこの作戦を光秀が看破していないはずはなく前者は到底無理である。

 更に言えば、作戦が成功した所で三木城と言う安土とは比べ物にならない小城ですら延々一年以上かかっているのだ。安土でそれをやれば、例え包囲が成功したとしても何年かかるかわかりはしない。その間に、毛利が翻意したり、長宗我部が決起したり、上杉や北条が再起して織田や徳川に牙を剥いて来たりする危険性は非常に高い。


「結局、力押ししかないと言う事か」

「となると、尾張の三介様と北陸の修理亮殿の力がないと厳しいでしょうな」


 尾張・伊勢・美濃の三ヶ国なら大体三万ぐらいの兵を動員できるだろう。伊賀と大和に備え伊勢に残す兵を差し引いても、大体二万ぐらいは行けるはずだ。

 そして修理亮こと北陸の柴田勝家は越中の抑えに佐々成政を残したとしても、前田利家も含めて三万六千の兵を持っているはずだ。尾張には三介こと織田信長の次男・北畠信雄がおり、伊勢には関東からほぼ無傷で自分の手勢を保って戻って来た滝川一益がいる。

 信雄を総大将に据え指揮を一益に預ければ、二万五千を越える兵を動員することは難しくないだろう。そうなれば、合わせて十万を越える兵を動員する事ができる。


「兄者の軍はどうしているのだ」

「長浜城にお入りになったそうでございます。数はおよそ二万五千」

「修理亮は」

「残念ながら未だ越前にたどり着いていないようにございます」


 信孝は冷静に信雄と勝家の軍の動静を聞いたが、三介の名を聞いた途端信孝の眉がぴくりと動いたのを秀吉は見逃さなかった。


(確かに数は集まりそうなのじゃが……十万の大軍を誰が一手に集めて指揮できるのかのう)


 元々が信雄と信孝は不和であり、両者とも長男の信忠が一番上なのは認めても、信雄は信孝に、信孝は信雄に負けるのは我慢ならなかった。


 全軍が集えば信雄は自分が次男で信孝は三男だから自分に指揮権を寄越せと言い出すだろうし、信孝は自分の兵が一番多いのだから自分が優先だと言い出すだろう。そんな調子でまともな戦いができるはずもない。


 いっそ自分がとも思ったが、承知してくれるのは丹羽長秀と前田利家ぐらいだろうし、仮に信雄と信孝が承知しても、柴田勝家が承知するはずがないだろう。

(この際三法師様を大将に立てて……)

 とも秀吉は考えたが、まだ三歳の乳飲み子に実質的な指揮が取れるはずもなく、結局はその後見として実質的に指揮を執る人間を決めなければならない。


(結局は修理殿しかおらんのじゃろうか……)




 結局は勝家しかいないだろう、秀吉の結論はそこに達した。無論、自分に安土を落とし光秀の首を取る秘策でもあれば無理やりにでも自分が大将になるつもりだったが、それがないのでは力押しに徹するしかない。


 となると、大将の膂力が軍の強さに、ひいては作戦の成否に繋がってくる。秀吉はその点では悲しいほどに能力を欠いていた。そして、その事を本人が嫌と言うほど自覚していた。

(織田家は一体どうなるのじゃろうか……)

 正直な話、信雄も信孝も信長の後継ぎとしては不足な点が多い。

 信雄は才覚に乏しく、信孝は意志はあるが力任せの気が強い。信忠が生きていればまだしも、信雄や信孝に信長が築き上げた天下を守れるかどうか疑わしく、ましてやその先に進めるかとなると大いに疑問が残る。

 仮に光秀を討伐し織田家の勢力が旧態に戻ったとすれば、織田家の勢力は安く見て天下の半分を占める。その織田家が安泰でなければ、それは即信長により治まりかかっていた天下に再び乱世が舞い戻ってくると言う事になり、楽観的に見てもまた多くの犠牲を出さなければならず、下手をすれば織田家の天下そのものが瓦解することにもなりかねない。



 秀吉は結局の所、織田家の後継は三法師しかいないと考えていた。だが三法師が成人して一人前に政治を行えるようになるまで、まだ安く見て十三年はかかるのだ。その十三年の間、誰が織田家をまとめていけばよいのだろうか。


 もちろん自分でも何とかせねばならないと思ってはいるのだが、正直な所自分と勝家がうまく折り合えるのか自信がない。今までは信長という絶対的な重しがあったからうまく行っていたのだが、その信長がいないとなると手取川の合戦のようにひどい結果を生む可能性が高そうだった。

 また、秀吉は勝家を戦場の勇者としては高く評価していても、政治家としてはそれほど評価していない。その勝家に織田家の政務を任せて大丈夫なのだろうか、その不安を抱えている秀吉は勝家を立て続けて行く気にはならなかった。だからと言って自分がしゃしゃり出れば、勝家がそれに反発していずれ自分と勝家の間で大戦が起きるだろう。それも正直避けたい。


 だとすると恒興か長秀しかいないだろうが、実際に織田家の筆頭家老でありその自負の強い勝家が彼らの政権運営に従ってくれるだろうか。更に両名は自分と親しい間柄だけに、勝家が彼らを通じ秀吉が織田家を支配するのではないかと勘ぐる可能性も否定できない。かと言って信雄や信孝を使えばもう一方の反発がすさまじく、かつ三法師を事実上無視して自らの天下を握らんとする為に行動を起こしてしまう可能性があった。


 結局の所、三法師の後見を務められるのは野心を持たず、かつ織田家からも、世間からもそう思われている人物でなければならない。


(まあとにかく今は光秀の首級をあげねばのう……)


 秀吉は織田家の将来を考えて一瞬暗澹とした気持ちになったが、それより今は逆賊光秀の首を取ることが優先だとばかりに、首を軽く振った。

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