真田昌幸、信州を手に入れる

 一方その頃、沼田城では大勝利の余韻に沸きかえっていた。




「此度の勝利、全ては貴公らのおかげでござる」

「何の、全ては安房守殿の秘策あってこそ」

「何もかもが、我々では思い付かぬ事ばかりでございまして」


 昌幸は内藤昌月や小幡信貞と言った自らに力を貸してくれた信州・上州の諸侯を前にして丁重に頭を下げた。


 それに対し昌月と信貞も、昌幸に負けず劣らず丁重な言葉遣いで礼を述べ、昌幸に向かって叩頭した。



 この時、もし二人が昌幸の目を見ていたならば、思わず恐れおののいたであろう。


 頭を下げた時には極めて穏やかであった昌幸の目に、恐ろしい光が宿されていたからである。


「さあ、此度の戦勝を祝い、盛大に宴を開きましょうぞ!」


 そして昌幸が頭を上げ宴の開催を宣言した時には、目の光はすっかり消えて元の穏やかな表情に戻っていた。



 無論、昌幸ら信州・上州の諸侯にも少なからぬ被害が出た事は間違いないのだが、それを加味しても信玄公・謙信公在世の時ですら相当な脅威であった北条の軍勢を、滝川一益と言う新たな後ろ盾もなしに完膚なきまでに打ち砕いた事は、信濃や上野を含む関東の小大名や国人にとって大変な出来事であった。


 やがて此度の勝利を祝う酒宴が始まり、主役である昌幸の下には、次々と盃を求める者が殺到した。しかし、昌幸は全ての盃をそれには値せぬとばかり断り、手酌で二、三杯飲んで後は料理を口に運ぶばかりであった。







「それにしても、これからどうしたものか」


 やがて半刻も経って酒も回り座が荒れる兆候が出てきた頃、昌幸は小声でそうつぶやいた。


「どうすると言われても」

「いや、とりあえず北条には大打撃を与える事ができたのだがな。来年になれば、いや下手をすれば今年中に北条が再びやってくる可能性があるぞ」


 それに応えるように昌幸の側近・鈴木重則と昌幸の会話が聞こえるや、宴席にいた者たちは突然酔いが醒めた。


 考えてみればそうなのだ。いくら一万以上の損害を出したとは言え、北条にはまだまだ挽回する力が残っている。それに、今回未曾有の損害を出した手前今度は何が何でも殲滅してやるとばかりに、凄まじい気合をもって向かってくるであろう事も簡単に推察できる。

 今回のような空き巣狙いの片手間の出兵ではなく、北条が本気の本気で来られたら昌幸の策略も通ずるか怪しい。


「それで、捕まえた北条の兵から尋問した所、どうやら徳川家康殿がお亡くなりになったのは本当のようだな」

「はい、明智日向守が直筆の書状で氏直に伝えていたそうです」


 家康がいなくなれば、北条に西からへの脅威はなくなる。そうなれば、北条がこちらへ本気を出してくる可能性はますます高くなる。それに、此度自分たちは織田方として北条と戦ったのだ。

 その織田の古くからの同盟者である徳川の当主が死んだというのは、それだけでも自分たちに与える打撃の大きい事態であった。家康の死を知った列席者たちの目が、不安で泳ぎ始めた。


「それにしても森武蔵守殿はどうなさったのか……」

「そうですね、鬼武蔵と名高きお方なのですが」


 そして森武蔵守長可、その名前を聞かされた列席者に、今度ははっとした表情が浮かび上がった。正直な話、一益と昌幸の事ばかり考えていて、長可の事を忘れていたのだ。長可は武田討伐の後、信濃の二郡を与えられ海津城を居城としていたのである。


「何でも、滝川様に連れられて美濃へお戻りになったそうですが」

「それではまずいではないか、織田家は我らを守ってくれないのか」

「仕方がありません、織田家は今大変な事態になっているのですから」

「では甲州の川尻殿に」

「甲州は上野よりいささか遠く、さらに甲州の隣国駿河は家康殿の死により大きく揺らいでいる。我らを構う余裕はあるまい」


 織田家における関東の最高責任者は滝川一益であるが、その一益がいないとなればその次に来るのが森長可であった。

 一益だけでなく、鬼武蔵と称されるほどの猛将であり知恵もあるとされていた長可もいないと言う事実は、信州や上州の諸侯に対し決して自分たちが安寧の中にいるわけではないという現実を突き付けるには十分であった。

 そして残る織田方の重要人物と言えば甲斐一国を信長より任された川尻秀隆だけであったが、甲斐の隣国・駿河の事情が最悪に近く、さらに甲斐一国の情勢もいまだ不安定であり遠い上野まで顧みる余裕はないだろう。




「な、何、真田殿がいるではございませんか」

「そうです、此度の戦勝は全て真田殿のおかげさまです」


 重則と昌幸の会話を聞くうちにすっかり酔いが醒め、不安に取り付かれた表情になった列席者たちは、昌幸に救いを求めるような目で丁重に頭を下げた。


「それはありがたい、がそれがしは所詮千二百の小大名」

「なれば我らが力をお貸しいたします!」

「北条は我らの大敵、それを凌ぐためなればそれがしもお使いくださいませ!」

「おやめなされ、それがしと貴殿らは同じ信州・上州の諸侯」

「いえ、正直に申し上げて真田以外今の我らには頼る者がないのです!」

「どうか、我らをお守りください!」


 渋る昌幸に対し、列席者たちは必死に頭を下げて頼み込んだ。


「ですがそれがしは織田家の臣。本家から何の指示もなしに……」

「今織田家は混乱の只中にある事は重々承知のはず!」

「……わかり申した」


 自らに服従を誓う言葉に対し渋り続けた昌幸であったが、遂に諸侯の熱意に押される格好で申し入れを受ける格好になった。


「よし、真田殿がいれば安心だ!北条何するものぞ!」


 青くなっていた諸侯の顔に再び赤みが差し、重くなっていた座は再び盛り上がった。


「ふうっ……」


 昌幸は軽く口から息を吐き出し、再び手酌で酒を一杯あおった。







 やがて宴はお開きとなり、列席した諸侯は上座にいたわけでもない昌幸に叩頭して宴席を去って行った。




「ふふふ……」

 二人きりで宴席に残った昌幸の口から、今度は笑い声が零れ落ちた。

「主水(重則)、よくやってくれた」

「いえいえ、殿の智謀あってこそです」

「何せわしは何一つ嘘偽りは申していないのだからな」




 再び昌幸の側にやって来た重則に対し、昌幸は凄みのある笑みを浮かべた。


「まあ滝川殿は無論、森殿にしても主の仇である日向守を討つ方が優先なのは明白だからな。こんな故郷から離れた所で散りたくはあるまい」

「川尻殿は頼るには遠すぎる、そして家康殿が亡くなり徳川は大混乱……」

「更に言えば上杉家は内乱の真っ最中、そしてわしのせいとは言えあんな大勝をしておいて今さら北条に頭は下げられぬ……となればどうなるか」

「殿を頼るしかない、と言う訳ですな」


 常陸の国には佐竹義重がおり、織田家とも同盟を結び反北条の首領格として戦っていたのだが、ほぼ北条領と化している下野を挟んだ向かいにあるだけに、上州や信州の諸侯にとって拠り所にはし難い。

 となると、彼らが頼れるのは実質自分たちだけなのである。と言う訳で。北条に対し奇跡的ともいえる大勝利をあげた昌幸を棟梁に立てるのは自然な成り行きであった。


「にしても、北条は来るのですか。小田原城のすぐ近くである駿河があんな大事になっているって言うのに」

「北条は昔から伊豆より西には関心がない。初代の早雲以来関東を制覇する事にしか興味を持たん一族だ。進行方向は上野か常陸しかないだろう。しかも此度の大敗で失った信用を取り戻すため、次は本気で来るぞ。もっとも、来年一杯かけても立ち直れるかどうかわからんがな」


 もちろん、昌幸自身北条が今年中に再び来るかもしれないという気持ちはある。

 だがその場合かなり無茶をして来るのは必定なので、さほど気にする事はないだろうとも思っている。


「その時は」

「その時まで織田家の騒乱が続いていると思うか」

「とすると」

「今の真田は実に都合がよい。わしは織田方の人間として北条に大打撃を与えた。だが真田は代々武田家に仕えてきた。そういうことだ」


 要するに、織田家が光秀を潰せば織田方の人間として立てた大功を振りかざせばいいし、光秀が勝てば武田家に仕えていたという事実を使えばよいと言う訳だ。


「だからこそですな」

「ああ、真田侮りがたしの印象を強く織田にも明智にも見せ付けねばならん」

「この大勝利だけでなく、それに比肩する大きな衝撃をですな」


 しかし織田や明智に功績なり経緯なりを振りかざした所で、三万数千石の小大名ではどうにもなりはしない、かえって潰される危険性すらあった。そうならぬ為に、真田は力を得る必要があったのである。


「まだ天下はどう転ぶかわかりはせぬ。なればどう転がろうが自らの手だけで対応できる力がある事を、天下に見せ付けねばなるまいな」




 そうつぶやいて酒を飲み干した昌幸は、口元に薄笑いを浮かべた。




 とにかく昌幸が沼田城にて北条に未曾有の大敗を味合わせた結果、滝川一益に従っていた諸侯はそのほとんどが昌幸に従う事になった。


 この結果真田の支配領域は上野と信濃の北半分にまたがり、領国三万六千石・動員可能兵力千二百だった真田家は、一気に領国四十万石・動員可能兵力一万と言う大勢力になったのである。

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