北条氏直、真田昌幸に惨敗する
「ええいっ!落ち着け、とりあえずは落ち着いて飯を食わせろ!そして、総攻撃で何があっても沼田城を叩き潰すのだ!」
氏直は頭を抱えながらも冷静な指示を飛ばした。地蔵橋がなくなろうとも、城を落としてしまえばいいだけなのだ。
その為には、まずは腹を満たさねばならない。
確かに、その指示は正しかった。
だが、指示通りに動いたゆえに、北条の陣で悲劇が発生した。
「わっ、何だ!?」
轟音を上げながら、沼田城から兵が押し寄せてきたのだ。
「て、敵襲だ!」
その声と共に、今まさに食事を取ろうとしていた北条軍に、混乱の風が吹き荒れた。
「落ち着け!どうせ敵は小勢だ!」
物頭の冷静な指示も、雑兵たちには届かない。
実際、沼田城から飛び出した真田の兵は五百もいなかったのだが、北条軍には千にも二千にも見えた。
「追え、奇襲して来た連中を追え!城に乱入してしまえばこっちの勝ちだ!」
奇襲の報を受けた氏邦は必死に指示を飛ばした。数が違いすぎるのだから、城に入ってしまえばどちらが有利かは明白だった。
だが、食事間際と言う空腹時に、退却路と言うべき橋を焼かれ、城兵から思いもしなかった奇襲を受けとあっては兵たちの士気は上がらなかった。
ましてや、朝に五百挺の一斉射撃を受けており、兵たちにはその残像が未だに残っていたのである。さあ城内になだれ込めと言われても、到底無理な相談だった。
北条軍がもたもたしている内に、真田奇襲軍はさっと引き上げを開始した。ほとんどの兵は、それを呆然と見送る事しか出なかった。
無論、氏邦の命に従い奇襲軍を追撃した兵士たちもいたが、彼らには再び五百挺の鉄砲が炸裂し、百人以上の仲間が倒れるや残った兵たちはことごとく背を向けてしまった。
この奇襲による直接の被害はその五百挺の射撃を加味しても三百前後であったが、地蔵橋が焼かれ、昼餉がまともに喰えず、再び五百挺の射撃を見せられと、心理的打撃はかなり大きかった。
「ええいもはやこれまでだ!全軍、一気呵成に進め!!」
もう逡巡しても仕方がないとばかり、氏直は改めて総攻撃の命を下した。
実際、この状況ではそれしかなかっただろう。
これ以上戦いを長引かせれば、由緒ある北条家が四万もの兵を擁しながら、たかが千二百の真田家にここまで手こずるのかと世の物笑いになり、北条家そのものの面子を潰す事になる。
そうなると、今まで北条を頼ってきた者たちに動揺が走り、また常陸の佐竹義重のように長年北条と対決してきた者たちを大いに元気付ける事になってしまう。北条の関東の支配は崩れてしまうのだ。
「何度でも攻め込め!」
しかし、さすがに沼田城は守りが堅く、五百の鉄砲だけでなく落石、落木、矢の雨など様々な物が降り注ぎ、一向に城に取り付けない。
ましてや攻めている北条軍も、大半が昼餉を食べ損ねて空腹に喘いでいる。そんな状態でいくら攻撃をかけても無駄だった。
「やむをえん……全軍退け!」
日が沈み始めたのを見た氏直は攻撃を中止させたが、その間延々攻撃を仕掛けたのにも関わらず、城門の一枚も破る事ができなかった。
「それにしてもおかしい……真田軍はなぜ疲弊しないのだ」
確かに食事を取り損ねたわけではないのだろうが、あれだけ昼間の間延々攻撃をかけていたのにも拘らず、真田の抵抗は予想外にやまなかった。
氏直は、休まず攻撃をかけることによって真田の将兵は疲労し、そこに付け入る隙ができると読んでいたのが外れ、真田に段々薄気味悪さを感じるようになっていた。
「とにかく、きちんと夕餉を取らせよ。本当にきちんとな」
氏直はそれだけを配下の将兵に命じると、心底がっかりと言う表情で陣幕に戻った。
で、旧暦六月だけに日は長く、日が沈みきったのは酉の下刻(午後六時ごろ)であり、しかも十二日であったため月明かりもそれなりにあった。
それでも北条の将兵には、底知れぬ疲労感と恐怖があった。
「真田は何を仕掛けてくるかわからない、夜襲があるかもしれん」
と氏直は思ったし、実際にある程度の不寝番を残しているのであるが、今日一日これだけ働かされてきてそれでも寝なくてすむと言う人間は、いくら四万人の兵がいてもそうはいない。
ほとんどの将兵は既に夢の中であり、肝心の不寝番も眠気との戦いに敗北間近と言う者が多数いた。
そして、六月十三日となった直後の子の刻(午前零時ごろ)の事であった。
ドスッ
グサッ
人間の体に何かが突き刺さるような音で、北条の将兵たちが目を覚ました。
「ん、何だ…」
そこまで言った所で、眠い目をこすっていた北条の将の頭に刀が振り下ろされ、
「や…やし」
夜襲だ、と叫ぼうとした所で兵が斬り殺された。
そしてザーッと音と共に降り注いだ火矢が陣幕や草を燃やしながら逃げ惑う、あるいは夢の中の北条の将兵を明々と照らし出した。
「奇襲だと!?」
氏直が目を覚ましたのは、真田による最初の犠牲者が出てから二十分も後だった。これは本人のせいというより、昼間の戦いで疲れ切っていた上に奇襲による混乱がひどく、氏直に伝えるべき兵たちがまともに動いていなかった事が原因である。
「どっちから来たのだ!」
「北側です!」
「どうせ大軍ではない、本陣まで逃げさせろ!」
氏直は凡人ではなかった。
凡人ならば沼田城の北側に道などあるのか、どうやって奇襲してきたのだとか考え、逡巡して時間を無駄にするだろう。
恐怖に陥っているとは言え、本陣で自分が堂々としていれば兵たちも落ち着きを取り戻し、迎撃は可能だろうと言う訳だ。
兵がいなくなると氏直は自ら甲冑を付け、本陣に大きな焚き火を焚かせた。
「わしはここだ!北条氏直はここだ!ここまで来れば安心ぞ!」
兵たちに自分の健在を示し、安堵させようというのだ。確かな判断であり、近くにいた将兵たちは氏直を頼もしく思った。
だが、それも束の間だった。
「申し上げます!南側から、真田軍が奇襲してまいりました!」
「何だと!」
「それが……」
「それが何だ!早く本陣に戻るように伝えよ!」
「奇襲軍はおよそ千と真田軍が叫んでおります!」
奇襲を報告して来た兵士の千と言う言葉に、氏直だけでなく氏直を取り囲む兵士たちも驚愕の色を浮かべた。
「馬鹿、そんなのははったりだ!北側からも奇襲をかけているのにどうして更に千の兵が動員できる!」
「ちょっと待て、その流言で我が陣は崩れているのか!?」
「こんな夜では、五百と千の区別は付くものではない!」
当然の如く、氏直ら兵士たちは奇襲を報告して来た兵士の言葉を否定した。
それに対し、報告して来た兵士が何か言おうとした途端、血相を変えて別の兵士が飛び込んできた。
「城から真田軍が出て参りました!数は千二百と称しています!」
千、千二百。合わせれば二千二百である。それに北側からの奇襲軍も合わせれば、下手をすれば真田の兵は三千を越えている事になる。
「ば、馬鹿な……」
氏直は馬上で言葉を失ってしまった。紛れもなく、風魔の間者は沼田城の城兵は千二百と報告してきたし、真田の動員力など実際その程度のはずなのだ。
実は昌幸は、北条の間者がこの城に紛れ込む事を察知し、兵たちにたった千二百で敵を防げるのかと、城内で言いふらすように策をかけていたのである。
実際には千二百人の兵だけを城内で動かさせ、残りの兵は城の地下や建物の中に隠匿し、兵数を少なく見せていたのである。
事実、沼田城には三千を越える兵がいて、南側から夜襲をかけてくる兵は千人近くおり、正面からやってくる真田軍は千二百人ほどいたのである。
「どうなっているのだ……」
氏直は凡人ではなかったが、さすがにこうなるとどうしようもなかった。
それに、誰某を討ち取った、お前たちの将はお前たちを置き捨てて逃げたなど、真実か流言飛語かわからない声が次々に聞こえてくるだけで、北条の人間はまばらに姿を見せるだけと言う状況も、北条軍の恐怖に拍車をかけた。
「もはやこれまでか……全軍、森下城へ撤退せよ!」
これ以上、どう足掻いても戦線を維持するのは無理だ。そう考えた氏直は、ついに沼田城の南にある森下城への退却を宣言した。
「北だ、北へ逃げよ!利根川のほうに行くな!」
薄根川ならともかく、利根川に突っ込んではまず助からない。南の片品川と言う選択肢もあったが、今の氏直の頭からは消えていた。
実際、薄根川なり片品川なりに逃げていれば、無事渡河に成功し逃げ切る事もできたろうが、そんな冷静な行動が取れる兵はほとんどいなくなっており、ばらばらになって逃げた結果、運悪く利根川に向かってしまった兵はほとんど助からなかった。
大体、氏直と言う器量ある大将が止めても無駄だと判断するような有様であったから、軍の統制など何もなかった。
その結果、ほぼ一晩中真田軍三千は北条軍四万相手に一方的な戦を続けたのである。
この結果、氏直と北条氏邦は辛うじて森下城にたどり着いたものの成田氏長は行方知れずとなり、他にも多くの将が命を落とし、一万二千もの死傷者を出す未曾有の大敗戦を喫したのである。
更に言えば無傷で逃げ切った二万八千の兵のうち、およそ四千は逃亡の際に武器を捨ててしまったため、武器が届くまでは使い物にならなかった。
「真田め……」
氏直は大敗の屈辱に震え上がりながら、呪詛のように真田の名をつぶやくばかりであった。
「とにかく、厩橋城に引き上げましょう」
「それしかあるまい……」
こうして北条軍は、一万二千もの犠牲者を出しながら空城となった厩橋城を確保すると言う非常に小さな戦果しか挙げる事はできなかったのである。
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