徳川家康、伊賀越えを決心する
ここで時はわずかに前に遡る。
天正十年六月二日、織田信長落命直後の堺の町に、青ざめた顔をした一人の男がいた。
「何と……右府殿が……」
その男の名は、徳川家康。
桶狭間の戦いの直後から信長と結び、その後二十年以上にわたって唯一とも言える協力関係を結び続け、現在では三河・遠江・駿河三カ国を治めるまでに至った東海の大名である。
「日向守の手勢により寄宿していた本能寺に火を放たれ、そしてそのまま本能寺から抜け出すこともなかったとの事です」
「中将殿はどうなさったのだ!」
「残念ながら、中将様も日向守の手の者によって……」
家康は自分でも間抜けな質問をしたと思った。
光秀ともあろう者が、信長を討ち果たして信忠を討ち漏らすなどと言う失態を犯すわけがないのだ。
だが実際、信長がいなくても信忠がいれば何とかしてくれるだろうと思ってしまうほど、家康は一瞬で追い詰められてしまったとも言えた。
十八歳まで十二年間人質としての暮らしを続け、桶狭間の戦いによって独立を果たした後も一向一揆に苦しめられ、三方ヶ原では武田信玄に完膚なきまでに叩きのめされ、盟友であるはずの信長の命によって長子信康を斬らねばならなくなる――。
これまでの家康の四十年の生涯は苦難の連続であり、ちょっとやそっとの苦難では動じない人間になっているはずであった。
「これからどうなさいますか」
そんな主君に向けて極めて当たり前の事を口にしたのは井伊直政であった。
まだ二十二歳であったが、武勇に長けているために家康から寵愛されているこの家臣がこの当たり前の発言をしたのは、無論衝撃に打ちのめされている家康を立ち直らせるためであった。
「……」
「どうなさいますかも何も、逃げるしか道はあるまい」
何も言わない家康に代わって答えたのは酒井忠次であった。
家康の叔母の夫にあたる人物で家康より十五歳上の五十五歳と言う年齢もあって徳川家を支える第一の宿老と言ってよい人物であり、三河の名家の出身でもある。
家康を除けば、徳川家の中で最も発言に重みを持つ人物であった。
「どこへ逃げるというのですか」
「とりあえずは播磨を考えているのだが……」
「忠次、それは通らん」
ここで、直政と忠次の問答を聞いていた家康が口を開いた。
「何故でございますか」
そう質問を返したのは榊原康政である。名家の出身でないため身分は余り高くないが、戦場での活躍は歴戦の宿老を凌ぐものがあった。
「右府殿の死を甘く見てはならん。播磨の筑前守(秀吉)殿や北陸の修理亮(柴田勝家)殿ら、織田の家臣が受けた衝撃は我らと同じ、いやそれ以上であろう。
また日向守の事だ、毛利や上杉、北条と言った織田家に圧迫されていた諸大名に自らへの協力を求める書状をとっくの昔に撒いているはずだ。仮にわしが筑前守殿や修理亮殿の立場だったとして、右府殿の死を知って動揺しきった兵たちを率い、右府殿の死を知って意気上がる毛利や上杉と対決して勝てるかというとまるで自信がないのだ」
「なれば摂津へ」
「駄目だ。土佐の長宗我部元親は日向守の重臣と縁戚関係を結んでいる。長年同盟を結んで来た織田家に背信行為とも言うべき出兵の用意をされた今、長宗我部がどちらにつくかはもはや明白だ」
康政の言葉を、家康は首を横に振りながら否定する。この堺から逃げるとすれば羽柴秀吉の治める播磨か、丹羽長秀のいる摂津かだろうが、どちらにしても安泰であるという保証はない。
「なれば我々はここで座して死を待てというのですか!」
それでも康政は家康に詰め寄らんばかりに問いかかったが、家康は首を横に振るばかりである。
「そうです、三河です!三河に帰りましょう!三河に帰り兵を整えますれば、日向守を討つこともかないましょう!美濃、あるいは伊勢までたどり着けば大丈夫です!」
康政は異常に興奮していたが、家康は自分でも嫌になるぐらい醒め切っていた。
「今頃は安土も日向守に抑えられている。近江を進もうにも道などないぞ。大和の筒井順慶は日向守と親しい。そんな所を通れるものではない」
「ならば船で志摩へ!」
「紀州の一揆はまだ平定されておらぬのだ。そんな所を織田の同盟者である我らの船が通過できるわけがなかろう」
「九鬼水軍に力を借りれば何とか」
「言ったであろう。長宗我部がこの機を逃がす訳がない。九鬼水軍に船を貸す余裕などあるはずがない。あった所で全軍を出してくれるわけがない。一、二隻の船では雑賀の水軍に沈められるのが落ちだ」
康政の熱を帯びた提案を、家康は一つ一つ丁重に潰して行った。
実際、ここに数千の兵でもいれば話は別だが、今ここにいる家康の手勢は五十人にも満たなかった。
そんな状況で敵地と化した近江や大和、あるいは紀州灘を越えるなど無茶どころの話ではなかった。
「ではお屋形様、我らはどうすればよいのです!」
「お主らは好きにせよ、わしはここで腹を切る」
家康の絶望に満ちた言葉に、康政以下その場にいたほぼ全員が愕然とした。
「もはやどうにもならぬ。手の打ちようがないのだ。わしの首を日向守に差し出せ。そうすれば日向守もお前たちの命までは取ろうとすまい」
「なりませぬ」
家康の陰鬱な言葉とそれから発した重苦しい空気を断ち切ったのは、これまで一
言も発言しなかった本多忠勝であった。
「お屋形様はこれまでの家臣の労苦を水泡に帰させるおつもりですか」
「だが……」
「だがではございませぬ!ここで果てては、三方ヶ原でお屋形様を逃すためにその命を散らした多くの勇士たちにも、岡崎で散った遠州(信康)様のためにも、何より十二年にも及ぶ忍従から三国の主にまで成長したお屋形様自身の労苦も全て無駄となりまする!そのような無体な事、あってはならぬのです!」
「ああ……しかしどうやって……」
「小平太(榊原康政)が先に述べた通り、三河へ帰るのです。伊勢まで着けば大丈夫です」
「大和をどう通るというのだ」
「大和は横切るのみです。伊賀を通るのです」
伊賀。その地名を聞いた途端、家康の顔に生気が戻った。
「幸いここに半蔵も共におりまする。伊賀は半蔵の地元の地。半蔵の導きがあらば、光秀の目をすり抜け伊勢、ひいては三河に辿り着く事もかないましょう」
「しかし、それではそなたらが……」
「お屋形様が我らを思ってくださっているのは大変嬉しゅうございます。ですが、我らは斯様な危機の時のために厚遇を受けているのです。ここで命を捨てずにどこで死ねと言うのですか!」
忠勝の揺るがぬ決意に、家康の心もついに動かされた。
「……わかった。もう時間はあまりあるまい。早速、行動に移ろう」
「それでこそお屋形様でございます。では、それがしは石川殿と共に茶屋四郎次郎殿に会って参ります」
こうして、徳川家康と共に忠次、康政、直政、忠勝、本多正信、石川数正、服部半蔵、大久保忠佐、大久保忠隣、渡辺正綱、鳥居忠政、永井直勝、そして元は家康の武将であったと言われる堺の豪商茶屋四郎次郎ら数十名は本拠である三河を目指し、伊賀を突破することを決意したのである。
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