第一章 徳川家康、伊賀に死す!!
明智の重臣たち、主の不在をいぶかしむ
天正十年六月三日早朝。
本能寺の焼け跡を、水色桔梗の旗を掲げた兵士たちが動き回っていた。
「信長の死体がない?」
「はい」
「遺骨ぐらいは存在しているはずだろう。ちゃんと調べたのか?」
「はあ、そうなのですが……」
火に焼かれて死んだのだ。首はともかく、骨ぐらいは残っているはずだろう。
しかし、それが一かけらも見つからないと言うのだ。
「だがあの状況からどうやって逃げることができるのか……」
信長が死んだと思われる本堂は文字通り本能寺の中心にあり、もしどこかから逃げ出したとしたら、四方を取り囲んでいた明智軍が捕捉できたはずだ。
「だが朝廷はこれで動いてくれるのだろうか」
「これだけの状況が揃えば死を疑う者はおりますまい……」
光秀とて、信長への怒りだけでこんな謀反を起こしたわけではない。信長に圧迫されてきた諸勢力からの協力が得られる事を計算に入れていたのである。
朝廷にしても、従来の権威を真っ向から否定するような苛烈な信長より、宮中の作法にも詳しい光秀のほうがずっと安心できる武家の指導者であった。
「筒井や細川はどうした」
「おそらくまだ書状が届いたばかりと」
さらに、光秀は自分と親しかった大和の筒井順慶や、娘婿である丹波の細川忠興・藤孝親子、信長に滅ぼされた室町幕府の旧幕臣たちの協力も見込んでいた。
「まず、脅威となるは丹羽か……」
この時、光秀の一万三千の軍勢と戦って勝てそうな軍勢を持つ織田の将は四人居た。
北陸の柴田勝家、関東の滝川一益、中国の羽柴秀吉、そして摂津の丹羽長秀である。
しかし柴田は上杉、滝川は北条、羽柴は毛利と対峙している最中であり、織田家の柱である信長の死により軍がぐらつき、対峙する軍が勢いを盛り返して彼らを飲み込んでも何の不思議もない。
そういう点では、唯一丹羽だけがすぐさま軍を起こして光秀を討つことができた。
「長宗我部は当てになるのか……」
しかし、丹羽にも敵はいた。四国の長宗我部元親である。
元親は元々織田とは友好関係を結んでいたが、先ごろ信長は長秀に四国出兵を命じるという背信行為を為しており、事実上織田と長宗我部は敵対関係になっていた。
しかも、長宗我部家の現当主である元親の正室は光秀の重臣である斉藤利三の娘である。長宗我部が光秀の檄に応じ丹羽に槍を突いてくれれば、光秀に抗する織田の重臣はいなくなる。
「しかし、日向守様は一体どうなされたのか……ここにいる必要はないにせよ、他にも対応すべき事案は一つや二つではないのに、それを家臣に任せて……」
光秀の家臣として、本能の焼け跡の捜索を命じられていた溝尾庄兵衛重朝は思わず溜息を吐いた。
※※※※※※※※※
「まったく、理解の外だな、この城は……」
同じ頃、同じく光秀の重臣である斉藤内蔵助利三は、安土城の天守閣を見上げながら溜息を付いていた。
信忠の死を確認するや、光秀は利三に五千の兵で信長の本城たる安土城を抑える様に命じていた。
城はほぼがら空きに近い状態であったが、さすがに信長の本城だけに残っていた者たちは必死に抵抗し、開城には半刻(一時間)ほどを要した。
「しかし広大な敷地、ここをきっちり守れば大きな要塞となる。いずれ日向守様にはこの城にお入りいただくことになるだろう」
「恐れながら、信長の本拠たるこの城の攻略を、なぜ日向守様は内蔵助様に……」
「日向守様にはどうしてもなさねばならない事があるのだ」
兵長の当然と言うべき疑問に対し、利三は視線を合わせぬまま答えた。
安土は信長の象徴とも言うべき城であり、ここに信長を討ち取った光秀が入ってこそ諸国に対し織田の終焉を布告することもできようと言うのに、光秀は腹心とは言え家臣に過ぎない斉藤利三に攻略と占拠を命じた。
「よいか。いかに織田家の中核たる信長と信忠を討ち取った所で我々の兵が増えているわけではない。確かにこの勝利をきっかけに、多くの牢人たちが明智の旗の下に集ってくれるかもしれん。
だが所詮、我々の元々の数は一万三千。日の本各地の諸侯を統べるにはいかんせん数が少ない。だからこそ、日向守様は今、この安土を抑える以上にさらに重要な手を打っているのだ」
光秀は無論、織田に圧迫されていた上杉や北条、毛利や長宗我部を当てにしていないわけではない。だが、それだけでは肝心の明智軍自身の存在が薄くなり、先に述べた四つの家や更に奥州の伊達、九州の島津や龍造寺などと言った勢力が天下への争いに加わり、結果的に乱世を長引かせ信長を討ち果たした意味が喪失する危険があった。
いや、折角手中に収めた天下がこぼれ落ちる危険性もかなり高かった。無論、そうなれば信長を討った意味など全くなくなる。
要するに、光秀が今すべきことは力を持つことだった。
「無論、鞆の上様にも接触する。しかし、悲しき事ながら今の上様には力がない。我らはまず力を持たねばならない。だから我々はこうして安土を抑え、日向守様は更なる力を得るために動いているのだ」
備後の鞆には、室町幕府最後の将軍である足利義昭がいた。光秀は、今でも義昭を征夷大将軍と見なし、この国の中心に据えるべき人物であるとにらんでいる。
もっとも、義昭の官位そのものは未だに征夷大将軍のままなのだが。
「朝廷には弥平次殿が向かっている。帝も必ずや力を貸してくれる」
利三の言葉に、兵長が目を剥いた。今までの説明を聞き、光秀は朝廷との交渉に当たっており、だからこの安土城にいないのだと了解しかかっていた所だったからである。
「確かに朝廷からの協力を取り付けることもまた重要だ。だが残念ながら、今の朝廷に軍事力はない。日向守様はそれを憂えておられるのだ。わかったな」
その軍事力をどこで得ようというのか……利三の言葉に、兵長はうなずきながらもその疑問を抑える事ができなかった。
※※※※※※※※※
で、その光秀の従兄弟にして光秀の腹心の一人である明智弥平次秀満は、朝廷に赴いて信長の死を報告していた。
「本当に右府(信長)は死んだのでおじゃるな?」
「ええ、もはやどこに逃げる術もなく」
取次ぎ役の公卿の言葉に、秀満は苦虫を噛みつぶしたような表情で答えた。
「恐れながら、我らも信長が最期を見届けたわけではなく、信長が燃え盛る本堂の中から出るのを確認することなく、本堂が崩れ落ちたるを拝見した、ゆえに信長は死んだ、ということしか申し上げられないのです」
まさか宮中に信長の首級を持ち込むわけには行かないにせよ信長を討ったという何らかの証拠の品があればよいのだが、それがないのが秀満にとって辛い所であった。
「それで、織田中将はどうしたのじゃ?」
「あ、はい、信忠はきちんと討ち取りました」
「そうか。それならば安心じゃ」
公卿の言葉に、秀満はほっとした。信長について追及されたら先の説明以上の言葉を言いようがなかったのだ。
「是非主上に、我が主明智光秀に対し綸旨を賜りたい故奏していただきたいのです」
「すると綸旨によって、日向守を守って欲しいと言う事でおじゃるか?」
「ええ。そして織田の一党を殲滅せし暁には、改めて上様を将軍にご再命いただき、室町幕府を再興させたい、それが我が主の望みでございます」
「わかった。今そなたが申した言葉、一言一句違わず主上に伝えようぞ」
「ははっ。それから、ぶしつけではございますが」
「何じゃ、申せ」
「一刻も早く、奏上をお願いいたします。信長の家臣には、兵たちの負担を顧みずに強引な兵の進め方をする者も少なくなく……」
「わかったわかった。大船に乗った気分で待っておりゃれ」
取次ぎの公卿も低姿勢で依頼されて上機嫌になっていた。
秀満にしてみればいくら朝廷を急かした所でどれだけ早くなるのかわからないという不安はあったが、それでもとりあえずは役目を果たしたと言う安堵感はあった。
(だが、殿はなぜこの交渉にそれがしを当てたのだろうか……。うまく行ったから良いようなものの、家臣を寄越すなど我々を軽く見ていると長袖(公家)の方々が怒る事も有り得たのに……)
本能寺にて信長の死体を捜すわけでもなく、安土城を占拠しに行くわけでもなく、朝廷との交渉に当たるわけでもない光秀に対してそんな不安もあった。
(確かに、殺す必要はあるだろう。だが、全てを置き去りにしてまでも、日向守様自ら当たるべき事なのか……?)
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