明智光秀、関ヶ原にて秀吉と対峙する
七月十四日、光秀率いる五万四千の軍勢は桃配山に到達した。
「この地に陣を張れ。天武天皇様が見ていらっしゃるぞ」
壬申の乱の際、のちの大海人皇子である天武天皇はこの地にて名産の桃を配り、その後大友皇子を滅ぼして日の本を手にした。
古事を知りまた敬愛する光秀にとって、これほど本陣を張るのに絶好の位置は存在しなかった。
本陣である桃配山には、四千の兵で光秀が本陣を構えた。北側には、細川藤孝・安藤守就・筒井家の松倉右近らに斉藤利三が付き、一万二千で笹尾山をにらんでいた。南側では筒井順慶の本隊に明智秀満が付く形で、やはり一万二千の兵が陣を整えていた。
そして中央では大久保忠世が大将となって、徳川軍に傭兵を加えた一万四千が他の二部隊よりやや後ろに下がった格好で陣を張った。
一方、光秀討伐軍の布陣は以下のようになっていた。
大将である秀吉は自ら本陣である天満山を出てそのふもとに自らの手勢一万六千を率いて態勢を整えていた。
本陣には名目的大将である織田信包が五千の兵で控えている。
羽柴軍の前面には宇喜多忠家が九千の兵を率いており、事実上の先鋒であった。
右翼の笹尾山では旧柴田軍の兵一万が前田利家の指揮の下で臨戦態勢を整え、左翼と言うべき中山道沿いには丹羽長秀が自らの手勢に摂津衆などの小大名を加え、やはり一万の数で臨戦態勢を整えていた。
この討伐軍の布陣を知った光秀は首を傾げずにいられなかった。
中央を厚くして本陣を食い破ると言うのは分かるが、その先陣が宇喜多軍と言うのは正直理解に苦しんだ。宇喜多軍は言うなれば応援であり、本国から遠く美濃にまで駆り出された彼らにどれだけ士気があるのか疑わしいし、かつ宇喜多軍がそれほど強兵であるとは思えない。秀吉軍の方がずっと手ごわい存在のはずである。
その上、宇喜多軍の前面に立つのは大久保忠世率いる徳川軍である。徳川軍は強兵だし、更に秀吉の下には酒井忠次以下家康の旧臣たちがいる。本人たちが覚悟を決めていた所で、果たして羽柴軍なり宇喜多軍なりの兵士たちが本気で戦えるのだろうか。
「しかしこうなると松尾山は本当にこの戦場の要だな……真田安房守の戦略眼は見事な物があるな。まあ秀吉、こんな失態を犯すそなたにやはり世は任せられない、と言う事だ」
そして真田軍一万二千は、松尾山に陣を構えている。
松尾山は戦場を一望できる要地であり、関ヶ原で戦う以上松尾山を抑えた方が有利になる可能性が高いのは明白であった。それを明らかに自分たちの方が近かったにもかかわらず何の手も打たなかった秀吉を光秀は冷笑し、そして美濃の人間でもないのに松尾山の重要さに気が付いた真田昌幸の知謀に改めて感心した。
そして卯の下刻(午前七時ごろ)、関ヶ原に銃声が鳴り響いた。
「攻撃を開始せよ!明智光秀の首級を上げるのだ!」
「よし、迎撃を開始せよ!」
光秀討伐軍の先鋒、宇喜多軍から鳴らされた鉄砲の音が攻撃の合図となり、明智軍もまたその鉄砲の音に答えるように迎撃の合図を出した。
宇喜多軍九千は一気に突撃を開始、さらにそれに続くように前田利家の軍勢も前進を開始した。
「笹尾山から下りてきた前田軍を迎え撃て!」
一方利家の正面に陣を構える斉藤利三らも大声で将兵の士気を鼓舞した。
「数は我らの方が多い!しっかり受け止めていればよいのだ!」
前田軍は一万、利三が率いる兵は一万二千。いくら猛将の前田利家が大将でもそう簡単には破られはしない。それに明智軍は安土城での大勝の経験があるだけに士気は高く、質では利家が率いる旧柴田軍の精鋭に負けているかもしれないが士気の高さで質の差を十分埋める事が出来そうであった。
それは秀満が率い、筒井軍が主力を形成する南側の軍勢においても同じである。そして秀満の前面にいるのは柴田軍の精鋭のみで構成された前田軍よりも弱い、寄せ集めの兵を加えてやっと一万に達した丹羽軍である。
しかも丹羽軍の横っ腹を付ける松尾山に丹羽軍よりも多い真田軍が控えている。となると、丹羽軍はとても全力で攻撃する事はできない。
真田軍の数からして羽柴軍もある程度の数を割かないと受け止めきれない。
自然中央への攻撃も弱くなる。そうなれば、明智軍の勝ちはもはや明白である。
だが、利三のその楽観的な算段はすぐさま壊れた。
「宇喜多軍の攻撃が予想外に凄まじく……」
宇喜多軍は大した事はないと思っていた利三は伝令からもたらされたその報告に戸惑った。
宇喜多の先代直家は戦争をまともにやったことがなくあらゆる策謀を駆使して備前・美作を切り取った天下の梟雄であり、その配下の兵の錬度は低いものだと思っていたのである。実際巡り合わせもあったが安土城包囲戦において宇喜多軍はほとんど何の働きもしていなかった。
だが実際には、直家の時には無茶とも思える謀略を成就させるために兵の錬度は高くなっており徳川軍とも渡り合える実力を持っていた、そして更に一人宇喜多軍を猛烈な勢いで引っ張る男がいた。
「あれは立葵の旗じゃないか!」
利三は宇喜多軍の先鋒に翻る旗に茫然とした。宇喜多家の児の字の旗に交じって立葵の旗があるではないか。
立葵の旗を掲げられるのは、本多家の人間のみである。
「宇喜多軍の先鋒は本多忠勝なのかっ!」
秀吉の下に身を寄せていた家康遺臣の猛将、本多忠勝が宇喜多軍の先手大将になっているのだ。おそらくは秀吉の命を受けてだろう。
しかし、その忠勝が今から蜻蛉斬の錆にしようとしているのは他ならぬ徳川軍である。いくら忠勝と言えども怯みがあるのではないか、と言うのは忠勝の戦いぶりを見る限り浅知恵の謗りを免れない。
またそれに立ち向かう徳川の兵士たちも忠勝の強さに怯みこそすれど忠勝と戦うことに怯んではいない。
(あな恐ろしや、徳川軍……)
偶然ながら、利三も秀満と同じ感慨を抱くこととなったのである。
確かに、この戦の後どちらが勝っても徳川家は残るだろう。だがこの戦において敵に手心を加えればそれも危うい。確かにそういう点で考えれば両者の激しい戦いぶりは正解なのだが、それでもそれを平然と遂行できる二人が化け物に見えた。
「怯むな!中央の軍勢は精鋭の徳川軍だ!それに殿自らの後詰がある!食い破られる事はないのだ、我らは前面の前田を弾き返せばよい!」
利三は迷いと怖れを振り払うように腹の底から声を出した。そうだ、今の自分の使命は前面の前田軍を抑える事なのだ。利三は前田軍をきっと睨んだ。
「遂に来たか!よし、落ち着いて迎撃に当たれ!」
一方、南側に構える秀満もまた丹羽軍の攻撃を受けようとしていた。後方は秀吉軍に任せたとでも言うのだろうか、丹羽軍の全軍である一万で突撃を開始していた。
「どうせ寄せ集めの軍勢だ!弾き返せ!」
筒井軍の本隊がいる中、秀満は自ら先陣に立っていた。
(この戦に勝てば世に我が殿の正義を示す事ができる。それをより確実にするためには、この決戦で誠意を見せねばならない)
安全な後方ではなく、敵の真正面に立ってこそ誠意も示せるものだろう。秀満は、あくまでも真っ直ぐな男だった。
まもなく、丹羽軍一万が援護射撃と共に突っ込んで来た。そしてそれに応えるように、秀満はさっと槍を横に振った。
「この野郎!」
「死ね、貴様ら!」
「うるせーよ、謀反人の手先!」
「何を言うか、魔王の手駒!」
もはや鉄砲の音は聞こえない。聞こえるのは怒号、罵り合い、刀と刀がぶつかり合う音、刀が鎧を突き破り肉に刺さる音、傷を負った兵があげるうめき声、そして首を取られた体から噴き出る鮮血の音ばかりである。これが戦場だった。
そして、関ヶ原全体でそんな時間が半刻(一時間)は続いた。
「真田殿はまだ動かないのか!」
「秀吉本隊が未だ動かぬゆえ」
「うむ、そうであったな……」
考えてみればそうである。当初の予定では宇喜多軍九千は簡単に徳川軍に吹っ飛ばされるはずであり、宇喜多軍を守り徳川軍を突き破って一気に勝負を決めるべく秀吉が本隊を動かした所を真田に突かせるはずだったのだが、宇喜多軍が予想外の健闘を繰り広げており、その結果秀吉本隊は未だ動いていない。
今の状況で動けば秀吉本隊にきっちりと守られてしまう可能性が高かった。
ならば何とかして中央の宇喜多軍を崩さねばならない。
そして秀満と同じことを、ちょうど同じ時に、桃配山の光秀も考えていた。
「このままでは松尾山の真田も役に立たぬ……」
徳川軍が手心を加えていない事は光秀にもわかっていた。
だがそれにしても予想外に宇喜多軍がしぶとい。このまま宇喜多軍に粘られていては切り札と言うべき真田の軍勢も役に立たない。何とかして秀吉の本隊を動かさねばならない。
「よし、最後の手段だ!わし自ら出る!」
光秀は、今しかないと思った。
唯一と言っていい予備隊である自分の手勢を注ぎ込み、何とかして宇喜多軍を撃破、秀吉軍をおびき出す。それしか勝つ方法はない。
「出陣!!」
光秀はついに、四千の手勢を率いて桃配山を飛び出した。
「突破せよ!」
光秀は忠世率いる徳川軍の後方に貼り付き、全軍を督戦するように大声を出した。
するとそれに答えたのであろうか、遂に宇喜多軍が崩れ始めた。先頭で戦い続けてきた本多忠勝も無傷ではあったが息が上がり始めており、だんだんと蜻蛉斬の振りが鈍くなっていた。
「よし、こうなれば秀吉軍がやって来ざるを得まい、そうなればこちらの勝ちだ!!」
光秀のその言葉通り、宇喜多軍が後退するや入れ替わりに羽柴軍が押し出して来た。
それだけではない。天満山からも兵が動き始めた。
「敵は焦っているぞ!」
信包の本隊まで動かして逆転を図るつもりか。何と強引にして短慮なのか。まるで真田軍の事など知らぬと言わんばかりの暴走に光秀は一瞬哀れを催した。
「よし、今だ!真田殿に合図を送れ!!」
だが、その必要はなかった。真田軍はすでに松尾山を下り始めていたのだ。
「流石は真田殿、機敏な動きをなさ…」
光秀の言葉がそこで止まった。光秀の視線の先にあるのは松尾山ではない、天満山であった。
天満山から降りて来た信包本隊には織田家の木瓜の旗、黄絹永楽銭の旗に交じって左三つ巴紋の旗が掲げられていたのである。左三つ巴紋を掲げられる有力な武将は、一人しかいなかった。
(川尻秀隆…!!)
光秀はその瞬間、すべてを悟った。
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