明智軍、岐阜城に集結する

「真田安房守が!?」




 七月十一日、光秀は岐阜城で思わぬ報告を聞いた。


「ええ、お味方したいとの事で」


 確かに信州の諸侯を当てにしていなかった訳ではないが、真田昌幸が織田家の重臣である滝川一益の撤退を支援して北条を大敗せしめ、その一益にかわって信州の諸侯を束ねる立場に付いた状態を知るや、光秀は敵方に付かなければいいぐらいの悲観的な見方をしていたのである。


「兵数は」

「およそ一万二千」


 光秀はさらに目を丸くした。一万二千と言えば徳川軍にも匹敵する大軍である。

 そんな数をほんの一月前まで二、三万石の小大名だった真田家が自在に動かしているという現実は、世の有為転変の激しさを嫌と言うほど示していた。


 とにかく、一万二千の真田軍が味方に付けば明智軍は五万二千となり、五万の討伐軍を数では上回る。


 さらに言えば、信長から罪を得て美濃で引き籠っていた安藤守就が五百と言う少数ではあるが手勢を率いて光秀の下に参じた。更に、美濃や尾張の占領地からも徴兵をかけて兵をかき集めており、これを加えればもう千から二千は増やせそうだ。


「だが真田安房守は織田の重鎮、滝川一益の配下のはず。そしてその立場で北条の大軍を打ち砕いたのではないか?」

「と申されますと?」

「手土産もなしにでは私はともかく他の将たちが納得せぬだろう」

「それならば、甲州を守っていた川尻秀隆を討ち取ったと、岐阜城下に来ている真田の重臣が申しております」

「何、ならばすぐ通せ」


 光秀はあえて渋面を作り真田の重臣を迎える事とした。







「明智日向守様、真田の重臣鈴木重則にございます」

「明智光秀だ」


 重則は叩頭していた頭を上げると光秀に一本の刀を差し出した。


「これは」

「川尻秀隆の刀にございます」


 光秀は重則の言葉に眉間の皺を深くした。


「真田は秀隆を討ち取ったのであろう、ならばこれは何だ」

「はあ見ての通り秀隆の佩刀でございますが」

「本当に討ち取ったのならば、なぜ首級を持って来ない?」

「も、申し訳ございませぬ!こ、これには理由がございまして」

「すまぬ、理由を申せ」


 いら立ちに満ちた光秀の声にあからさまに狼狽し出した重則にさすがに言い過ぎたと思ったのか、光秀は柔らかな声色で平謝りした。


「はあ……実は、我が主真田安房守は秀隆を討つに当たり話したい事があるのですがと言って甲斐に入ったのでございます」

「それで」

「そう言って秀隆めを油断させ、隠していた手勢を用いて秀隆の館を攻撃したのでございますが……その……」

「構わぬ、はっきり申せ」

「では申し上げます……。秀隆とそれに付き従う者たちは織田家の古強者たちばかり。予想以上の苦戦を強いられ、館からの脱出を許してしまったのでございます。無論、我々も逃がすまいとばかりに、えっとその……必死で追いかけたのでございますが……崖っぷちまで追い詰めた所で身を投げられてしまったのでございます」

「なるほど……首を渡すぐらいならと言う訳か」

「そうです。そしてこの佩刀は最後まで秀隆と共に戦った男が秀隆から渡された物であります。どうかこれでご容赦くださいませ」



 光秀は始終動揺していた重則の言葉に、嘘偽りがないものを感じた。もし少しでも嘘があれば、こんなに動揺するはずはないのだ。嘘を覆い隠すにしてはあまりにも下手すぎる。


「わかった、確かに左三つ巴紋も入っている、秀隆の刀で間違いないようだ。真田安房守殿に、頼りにしていると伝えてもらいたい」

「ははっ」


 光秀の言葉に、重則はほっとした様子で天守閣を後にした。その様子を見て、光秀もほっとした様子になった。



「やはり真田は武田から受けた恩を忘れてはいなかったか……頼朝公から続いていた名家武田家を滅ぼした織田の蛮行に天が報いを下そうとしたのであろう」


 光秀の顔に生気がみなぎった。


「時は来たれりだ!よし、尾張攻略に向かっていた秀満を呼び戻せ!真田軍が到着し次第秀吉に決戦を挑む!」


 光秀はついに、秀吉率いる織田軍との決戦に臨む事を決意した。













「織田信長めは代々室町幕府より尾張守護代職の任を与えられた身でありながらその恩義を踏みにじり、あまつさえ偉大なる先人たちが残した数多の遺産を何のためらいもなく破壊し、挙句の果てに征夷大将軍義昭公すら己が欲望のため放逐した!かような人間、否自ら名乗ったように魔王である信長、そしてその手先どもにこの日の本を任せるわけにはいかない!我らはこれより進軍し、魔王の手先たる羽柴秀吉、丹羽長秀、前田利家らを討ち滅ぼし、この日の本に正しき秩序を取り戻すのだ!」


 七月十三日、岐阜城に集った五万を越える将兵の前で光秀はいつになく感情を露わにして叫んだ。

 その必死さに、将兵たちはみな光秀の真剣さを感じずにいられなかった。そして光秀は自らの演説に将兵が力強い声で答えるのを見るや、感動の涙を流さずにはいられなくなった。



「さて……秀吉はどこまで来ている?」


 涙を抑えた光秀は、明智秀満・斉藤利三の重臣二人、細川藤孝・筒井順慶と言った協力者、そして大久保忠世と真田昌幸が待つ天守閣に足を運んだ。


「信じがたい事にと言うべきか、未だ美濃に入ったばかりです」


 利三の言葉に、光秀は思わず吹き出した。無論、光秀とて秀吉の動向はある程度把握していたが、それにしても驚きを隠せない遅さだった。


「延々六日も経っているのだぞ!?」

「あの大返しはなんだったのだ?」


 昌幸もつられる様に笑い出した。


「何か理由があるはずでございましょう」

「これは我らの手の者が得た情報ですが」


 緩みかけた座を引き締めにかかったのは大久保忠世であり、口を挟んで来たのは真田昌幸であった。外様と言う立場でありながら出しゃばり気味に発言してくる昌幸を秀満が横目でにらんだが、光秀の視線を感じて向き直った。


「情報とは」

「前田利家が信雄と信孝を後方に送り秀吉に指揮を任せるべしと言い出し、二人がそれに猛烈に反発、利家と信雄があわや殴り合いとなり、結局長秀と秀吉が利家に賛同したせいで二人もやむなく認めたものの、二人とも不貞腐れてほとんど単身で丹後と伊勢に向かってしまったとか」

「それで二人をなだめ兵をきちんと送るためにこんなに時間がかかっていたのか」

「はっ」

「これが織田の末路か……哀れな物だ」


 光秀は同情とも皮肉ともつかない物言いで昌幸の報告を締めくくった。


「とすればどこで決戦を」

「関ヶ原だ」


 忠世の問いに対し、光秀は関ヶ原の名を上げた。美濃と近江のほぼ間に存在する平野である。西から向ってくる敵を迎撃するにはうってつけの地勢であった。


「なるほど、関ヶ原ならば間違いないでしょう」

「頼りにしておりますぞ、日向守殿」


 藤孝と順慶の言葉に、これで決まったとばかりに光秀は力強く立ち上がった。


「では進軍する!」

「はっ!」

 光秀の勇ましい言葉につられるように、六つの声色の「はっ!」と言う声が上がった。かくして、光秀率いる五万四千の将兵は岐阜城を出撃したのである。






「うーん…………」


 だが決戦の地、関ヶ原へ向かう馬上で一人だけ思い悩んでいる人物がいた。


「どうしたのですか」

「いや、ちょっと考え事をな。大した事ではない、気にするな」


 明智秀満である。


 もしかすると、光秀が家康殺しの下手人であることを知らないのではないか、秀満は一瞬そう思いそうになってしまった。

 だがそれならば、まず一万を越える大軍を率いて本国を空っぽにしてまで安土に来ないはずである。ではなぜあんなに平然と、家康の仇である光秀に与できるのだろうか。


(徳川を守る……ただそれだけか)


 ここで光秀が勝てば、光秀に自分の存在を高く売り込める。となれば、光秀とて忠世と徳川広康を無下には扱えないだろう。

 一方、秀吉が勝った場合、秀吉が織田家の主導権を握ることはほぼ確実であり、自分が織田家に敵対したからと言って、織田家の主導権を握るであろう秀吉が酒井忠次らをその事で責める事はしないだろうし、広康にも手を出さないだろう。

 要するに、どっちが勝っても徳川家は残るのである。



 自分が同じ立場に立たされた時、同じ事ができるだろうか。自分では光秀の忠臣のつもりだった秀満であったが、そう考えた瞬間背筋が凍りついた。


(味方になってくれたのはまさに天佑か……だが恐ろしい)


 しかしとにかく今は、ただの味方として扱い、ただの味方として活躍を期待するしかない。秀満は、ただ光秀を勝たせる事だけを自分の頭に入れる事にした。

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