川尻秀隆、苦悩する

「ついに動き出したか」


 同じ頃、明智光秀は岐阜城にあった。安土城に火をかけて脱出した明智軍は、尾張と並ぶ織田家の本領である美濃への攻撃にかかったが、この時美濃は完全な兵力の空白地帯であったため、四万を越える明智軍に簡単に占領されてしまったのである。




「敵軍の陣容は」

「大将が羽柴秀吉、副将に丹羽長秀と前田利家・酒井忠次。兵数はおよそ五万との事です」

「信長の二人の息子はどうした」

「信雄は近江に留まり、信孝は伊勢に向かいました。共に一万の兵を率いています」

「よくわかった。下がってよい」


 織田軍の情報を持って来た間者を下がらせた後、光秀は考え込んだ。


 光秀が岐阜城に入城したのはほんの数時間前である。安土から岐阜まで強行軍で動かしてきた軍勢は疲弊しており、今すぐ決戦を挑むのは到底無理である。

 とりあえずこの岐阜城は要害なので、籠城していればいいのだろうがそれだけで勝てるかどうか怪しい。もちろん、先の安土城包囲戦に大勝利した成果で上杉や毛利、長宗我部と言った諸侯が動く可能性はある。

 だが単独で勝負に持ち込める態勢を作っておくのは絶対に必要だろう。単独で織田家と互角に戦える態勢を作ってこそ、諸侯に光秀を立てようと言う気持ちが浮かび上がってくるものである。


「まずは秀満か利三に尾張を占領させるか」


 結局、光秀の考え付いた案と言うのは自らの側近である明智秀満か斉藤利三を使い、美濃と並ぶ織田家の本国である尾張を制圧させようと言う物であった。実際、織田家の本国である尾張を明智軍が占領すれば世間に与える衝撃は大きく、今まで成り行きを見守っていた者たちも織田の終焉を感じずにいられないだろう。


 それに実質的な面を考えても、肥沃な尾張を手に入れれば、また多くの雇い兵を手に入れる事ができる。尾張一国で五十万石近くの石高があり、単純計算で一万二千五百である。此度の場合は急に徴募をかけるので一万二千五百は無理だろうが、その半分ぐらいなら三、四日で十分集まりそうだ。そうなれば四万七千となり、織田軍との戦力差はごくわずかとなる。


「よし、翌日にでも秀満に五千の兵を与え尾張を攻撃させる」


 光秀は来たるべき決戦に備えた指示を出すと、兵士たちを勇気付けるようにどっしりと座り込んだ。




※※※※※※※※※




「ああ、どうすればいいのだ……」


 光秀が占領地の岐阜城で腰を据えている一方、安全であるはずの自分の館の中でうろうろと落ち着きなく動き回る一人の男がいた。


「ここはじっと守りを固めるより他ございません」


 重臣の諫言に、ようやく落ち着きを取り戻した風になったその男は歴戦の武士を思わせる貫禄を持っていたが、今までがあまりに浮ついていたために上座にどっかりと座り込んでもどうにも迫力や威厳に欠けていた。




 男の名は、川尻秀隆。三十年近く信長の側近として活躍し続け、武田征伐が終焉した暁に功績として甲斐一国の支配を任された人物である。


 まさに信長の寵臣と言ってもいい人物であったが、今の彼を取り巻く状況は最悪だった。


 本能寺で長年尽くして来た主である信長が殺され、続いて直属の上官であり信長の後継者である信忠が殺され、さらに織田家の長年の同盟勢力であった徳川家の当主・家康が殺され、その上信長から関東を任されていた滝川一益が敵前逃亡同然の形で伊勢に逃げ帰ってしまった。


 もっとも、ここまでならば自分の領国である甲斐の守りを固め光秀が倒れるのを待てばいい、で済ませる事ができた。


 だが、それすら許されないほどに今の秀隆を取り巻く情勢は悪化していた。



 安土城に入り込んだ光秀を織田軍は攻めあぐね、切り札に近い形で投入された柴田勝家と勝家の率いる精鋭の大半を光秀によって安土城共々葬られた。その上、伊勢に戻った後安土城攻撃に参加していた一益が重傷を負って病の床に伏すようになってしまい、何より最悪な事に徳川軍が明智方に寝返ってしまったのである。


 この結果、隣国の駿河は友好国から敵対国に変化してしまった。しかも滝川一益、ひいては織田信長と言う重しがなくなったもう一つの隣国、信濃の情勢がどうなるのか皆目見当もつかない。

 だが、もし自分が北条ならばこの隙を逃すはずはなく、上野だけでなく信濃にまで手を伸ばして来ても一向に不思議ではなかった。あるいは徳川が明智方に付いた事を知って徳川と手を組もうとするかもしれない。いずれにしても、甲斐の運命は風前の灯だった。


 唯一明るい材料と言えばその北条が上野での戦で大敗を喫した事であるが、それとて真田と言うほんの少し前まで二、三万石の小大名だった家がいつの間にか上野や信濃の諸侯連合の長の立場に納まり四十万石近くの領国を実効支配している事を考えると、不気味さを感じずにいられない。幸いと言うべきか南信の諸侯は真田とはまだ距離があるようだが、南信は美濃のすぐ隣であり、光秀が美濃に入ったとすれば、その諸侯たちに誘いをかけてくることは想像に難くない。そして、南信の諸侯が敵に回ったとすれば秀隆に打つ手はないのだ。


「真田安房守からの返事はまだなのか……」


 無論、秀隆とてただおろおろしている訳ではない。自らの名で真田に対し協力を求める使者を出しているのであるが、未だに返事がないのである。否なら否で腹を据えられるのだが、可とも否とも返事がないので、秀隆は落ち着けずにいた。

「それがまだ……」

「ぬぅ……ええい酒を持って来い!」

 ここ数日と同じように酒に逃げようとしたその時、ちょうど使者らしき男が秀隆の居室に駆け込んで来た。

「何事だ」

 その男は軽く叩頭すると、秀隆に書状を渡した。書状を開くや、秀隆の顔のこわばりが消え始めた。


「川尻殿、返答の遅れを重々お詫びいたします。この真田安房守昌幸、武田滅亡の際に、武田の被官であり武田と共に滅ぼされても致し方なかった当家を救っていただいた右府公の寛大なる処置、決して忘れは致しておりませぬ。

 故に、此度の右府公暗殺や徳川殿謀殺を初めとする数々の暴挙を成した明智光秀めを、我らは何があっても討ち滅ぼさねばなりませぬ。織田家の古参にして忠義の臣である川尻殿の下へ、我ら信州・上州の諸侯は喜んで馳せ参じまする。どうか、我らにお任せ下され」



 甲斐一国二十万石を支配している秀隆の動員力はおよそ五千である。現在昌幸が実効支配している四十万石の領国からは、単純計算で一万の兵が動員できる。

 これにうまく南信の諸侯を取り込めば、あと五千ぐらいは動員できそうだ。甲斐や上野などに残す守備兵は必要だろうが、それでも全体で一万五千ぐらいは動員できるだろう。無論明智軍四万と直接戦うのは無理だが、光秀の隙を窺うには十分な数である。


 そして二日後、吉報が続けざまに二つ舞い込んできた。



「羽柴筑前守様を大将とする光秀討伐軍五万が、美濃に入りました」

「南信の諸侯たちは皆、真田安房守殿の意向に従うとの事です」


 五万と言えば、明智軍を上回る数である。当然、光秀は全神経を集中して立ち向かわねばならないだろう。そして南信の諸侯が昌幸、ひいては自分に従ってくれるとあれば、先の目論見通りおよそ一万五千の兵を動員できるだろう。

 一万五千の兵ならば、東から明智軍の隙を突くのは難しくない。無論、光秀が兵を振り分けてこちらを抑え込もうとする可能性は高いが、それでも秀吉にあたる兵を少なくさせると言う効果を与える事が出来る。


「これで光秀の命運も尽きよう。安房守は今どこにいる」

「諏訪でございます」

「よし、わし自ら安房守の下へ出向こう」


 だがその報告を受けた秀隆の言葉に、使者の目が丸くなった。


「殿、どういうことです!」

「知れた事だ、安房守を慰労する」

「殿は誇り高き織田の忠臣。真田などに頭を下げに行くなど」

「黙れ!」


 当然とも言える側近の言葉に、秀隆は怒鳴り声を上げた。


「今の我々はそんなことを言える立場ではなかろう!我らが動員できる兵はせいぜい五千、それに対し安房守は南信も含めれば一万五千の兵を動かせる存在だ!今はつまらない事にこだわっている暇はない!とにかく光秀を倒さねばならんのだ!」



 さすがに歴戦の雄と言うべきか。織田家の直参にして古参の将だからなどと言うつまらない意地を張るより辞を低くして協力を乞うのが得策である、この秀隆の考えは正解か間違いかで言えば紛れもなく正解であっただろう。


「供は」

「二人だけで良い。それより早急に諏訪に向かってくれ。安房守にわしが来る事を伝えておいてくれ」


 秀隆の意志の固さに、戸惑っていた側近たちも意を決し、動き出した。


(真田安房守……光秀の首級を得た暁にはわしが三法師様や筑前守殿にそなたの事を忠義の士として紹介しよう。そなたの知謀なら織田でも高い地位を得られるはずだ)

 秀隆は決意を新たに、馬上の人となった。






「川尻様、ようこそお越しいただきました。さあこちらへ」


 翌日、秀隆ら三騎は昌幸のいる諏訪へとたどり着いた。


「自らご来訪くださるとは、感激でございます」

「何、今は織田家危急存亡の事態。ただ領国に籠っていればいいと言う訳にもいくまい」

「さすがでございます」

「辞令はもういい、それより諸侯に会い、状況を把握したい」


 秀隆は世辞はいらぬとばかりに手を大きく振り、昌幸に導かれ館の奥に通された。


 しばしお待ちをと言って昌幸が去って十分ほど後、秀隆の下に一人の若者が現れた。


「川尻様、真田安房守が長男、真田信幸でございます、以後お見知りおきを」

「おお、勇敢そうな若者だ。安房守はよい息子を持ったものよ」


 上機嫌な秀隆に対し、信幸は真面目な顔を崩さないまま叩頭していた頭を上げた。


「それで、父からの伝言でございます」

「安房守からの伝言か。苦しゅうない、近う寄れ」

「では……」


 秀隆の言葉に、信幸はゆっくりと秀隆の方に向けて歩み寄って行った。


「それで、伝言とは何じゃ」

「はい」




 信幸のこれまでよりずいぶん音量の高い声に秀隆は一瞬戸惑い、そして次の瞬間、秀隆の顔が真っ青になった。


 なんと、共に連れてきた二人の従者が背中を刺されて死体になっているではないか。更に、自分の首筋にも冷たい感触を感じずにいられなかった。


「我が真田は武田の忠臣、武田を滅亡せしめた織田などとは同じ天は戴けぬ…これが安房守の伝言でございます」


 信幸の言葉に、秀隆は絶望の二文字を背負わされた気分になった。


「ならばなぜ北条を……!」

「北条は信玄公在世のころからの仇敵。織田とは関係ございませぬ」


 そしてなおも何か言おうとした秀隆であったが急に気が遠くなり、そのまま気を失ってしまった。

 秀隆が気を失ったのを確認した真田昌幸が長男信幸は秀隆が腰に差していた佩刀を取り上げると、そのままどこかへ姿を消した。

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